一体「普遍性」とは何であろうか。文化とは元来個別的なものであり,従ってもし日本文化が普遍性をもちうるなら,それは日本人の1人1人が意識的に自らの文化を再把握して,日本の文化とはこういうものだと,違った文化圏に住む人びとに提示できる状態であらねばならない。それができてはじめて,日本文化は普遍性をもちうるであろう。
そしてそれができてはじめて,相手の文化を,そしてその文化に基づく相手の生き方・考え方が理解でき,そうなってはじめて,相互に理解できるはずである。そしてそれができない限り,自分の理解できないものは,存在しないことになってしまう。従って,日本軍には,「フィリピン人」は存在しなかった。そしてそこにいるのは,「日本人へと矯正しなければならぬ,不満足なる日本人」一言でいえば「劣れる亜日本人」だったのである。
ではどう矯正しようというのか。本気で矯正するなら,自己の文化を客体化し,それに支配されるのを正常な状態と規定した上で,相手にこれを説明し納得させねばならない。一言でいえば,まず相手を理解した上での「言葉による日本文化の伝道」しかない。しかしそれは,スペイン語・英語・タガログ語のどれ一つ出来ず,第一,そういう問題意識すらない者には,はじめから不可能である。
それならば相手は別の文化圏に住む者と割り切って,何とかそれと対等の立場で「話し合う」という方向に向くべきだが,自己の文化を再把握していないから,それもできない。
そこで自分と同じ生き方・考え方をしないといって,ただ怒り,軽蔑し,裏切られたといった感情だけをもつ。フィリピンにおける多くの悲劇の基本にあったものは,これである。
山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.124-125
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