先日あるアメリカ人の記者と話し合った。私は,キッシンジャーが,日本の記者はオフレコの約束を破るからと会見を半ば拒否した事件を話し,これは,言論の自由に反することではないか,ときいた。これに対して彼は次のようなまことに面白い見解をのべた。
人間とは自由自在に考える動物である。いや際限なく妄想を浮べつづけると言ってもよい。自分の妻の死を願わなかった男性はいない,などともいわれるし,時には「あの課長ブチ殺してやりたい」とか「社長のやつ死んじまえ」とか,考えることもあるであろう。
しかし,絶えずこう考えつづけることは,それ自体に何の社会的責任も生じない。事実,もし人間が頭の中で勝手に描いているさまざまなことがそのまま活字になって自動的に公表されていったら,社会は崩壊してしまうだろう。
また,ある瞬間の発想,たとえば「あの課長ブチ殺してやりたい」という発想を,何かの方法で頭脳の中から写しとられたら,それはその人にとって非常に迷惑なことであろう。というのは,それは一瞬の妄想であって,次の瞬間,彼自身がそれを否定しているからである。もしこれをとめたらどうなるか,それはもう人間とはいえない存在になってしまう。
「フリー」という言葉は無償も無責任も意味する。いわば全くの負い目をおわない「自由」なのだから,以上のような「頭の中の勝手な思考と妄想」は自由思考(フリー・シンキング)と言ってもよいかもしれぬ。いまもし,数人が集まって,自分のこの自由思考をそれぞれ全く「無責任」に出しあって,それをそのままの状態で会話にしてみようではないか,という場合,簡単にいえば,各自の頭脳を1つにして,そこで総合的自由思考をやってみようとしたらどういう形になるか,言うまでもなくそれが自由な談話(フリー・トーキング)であり,これが,それを行[な]う際の基本的な考え方なのである。
従って,その過程のある一部,たとえば「課長をブチ殺してやりたい」という言葉が出てきたその瞬間に,それを記録し,それを証拠に,それを証拠に,「あの男は課長をブチ殺そうとしている」と公表されたら,自由な談話というもの自体が成り立たなくなってしまう。
とすると,人間の発想は,限られた個人の自由思考に限定されてしまう。それでは,どんなに自由に思考を進められる人がいても,その人は思考的に孤立してしまい社会自体に何ら益することがなくなってしまうであろう。
だからフリー・トーキングをレコードして公表するような行為は絶対にやってはならず,そういうことをやる人間こそ,思考の自由に基づく言論の自由とは何かを,全く理解できない愚者なのだ,と。
山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.309-311
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