江戸時代の人々は,なぜ危険がいっぱいで悲惨な方法を用いてまで人口制限を行なおうとしたのだろうか。間引や堕胎は時代,地域を越え,さらに階級を越えて実行されていたという。下層武士(旗本)のあいだでさえそれは常識であった。これらの行為は農村の貧窮,都市の道徳的退廃の結果であると主張され,その非人道的な面が非難される。確かにその通りに違いない。
しかし立場を変えて経済学的な目で見ると,別の評価を下すことも可能となる。通説に反して,人口制限は真の困窮の結果ではないと見る立場が増えている,むしろ人口と資源の不均衡がもたらす破局を事前に避けて,一定の生活水準を維持しようとする行動であったというのである。その見方を受け入れるならば,堕胎も間引も幼い命の犠牲の上に,すでに生きている人々の生活を守ろうとする予防的制限であった。生産の基盤も,技術・知識の体系も現代とは異なる社会であったことを理解しなければならないだろう。結果的に出生制限の幅広い実践は前近代経済成長を助け,1人あたり所得を引き上げることに成功したと考えられる。それが19世紀後半に工業化の過程へ離陸するさいに,日本と中国の歴史的運命を決定する重要な原因だったとする仮説がたてられていることは,すでに指摘しておいた。
鬼頭 宏 (2000). 人口から読む日本の歴史 講談社 pp.214
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