それでは,医師はどうしたら,軽症で自然治癒する感染症と,より深刻な感染症を見分けられるのだろうか。あるいは群落形成と感染の区別は。これは重要な問いである。なぜなら,答えは現時点では明らかではないものの,抗生物質の過剰使用を抑制する可能性を持つからだ。鋭敏な医師は,すべてではないにしても大半の場合に,重症な合併症に至る子どもは何らかの徴候を示すことを知っている。より高い熱,症状の長期間にわたる継続,白血球数の異常,あるいは見た目の重症感。もちろん大半の症例は,そうとは断定できない灰色なのだが。
灰色判定も重要である。ウイルス感染と細菌感染が区別できるまで,医師は安全な道を選択する。医師は時間に追われている。診療時間は1時間に5人の子どもを診察し,その他の事務仕事をこなす。実践的で,迅速で,安価でかつ正確な診断法や時間の欠如は,過剰治療へと傾く。状況を改善する診断法も現れてきているが,現状ではまだ普及していない。
医師の肩ごしに,医療を見ている弁護士の存在もある。医師が子どもを治療せず,結果が最悪なものとなったとすればどうだろう。弁護士は尋ねるかもしれない。「なぜ抗生剤を投与しなかったのですか?そのために耳感染が髄膜炎を起こすほどひどくなり,その結果麻痺が残ったのではないですか?」
こうした状況が,世界中の何世代もの子どもたちをめぐって,前代未聞のスケールで生じる可能性がある。何百万人もの子どもが罹ってもいない細菌感染症のために抗生剤で治療されれば,問題が生じないと考える方がおかしい。
マーティン・J・ブレイザー 山本太郎(訳) (2015). 失われてゆく,我々の内なる細菌 みすず書房 pp. 78-79
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