脳がどんな記憶をいつ,どのようにして呼びさますか,その手がかりを得るために,スティックゴールドは入眠時に的を絞り,幻覚の内容を操作できるかどうか実験してみようと考えた。被験者に山登りや急流下りをさせて怪我でもされたら,訴訟沙汰になりかねないので,もっと安全な非日常的活動をさせることにした。その実験で,スティックゴールド自身も驚くような結果が得られた。
最初の実験では,コンピューターの画面上を落下するブロックを積み重ねるテトリスというゲームを被験者にさせることにした。27人の被験者が3日間にわたって1日7時間このゲームをした。うち10人は任天堂のゲーム機ですでにこのゲームを経験済みだったが,残りの人たちは初めてだった。スティックゴールドは初めてのグループに記憶障害の患者を5人入れた。ゲームのイメージが夢に現れるかどうか見てみようと思ったのだ。記憶障害の患者は新しい経験を覚えられないので,おそらく彼らの夢にはテトリスが現れないだろうと予想していた。
最初の2晩は,眠りに就いて数分後に被験者を起こして聞くと,6割以上が少なくとも1回はテトリスのイメージが浮かんだと答えた。初日ではなく,2日目に浮かんだケースのほうが多かった。「テトリスを入眠時幻覚でとりあげるかどうか,脳が判断するには少し時間がかかる,あるいはテトリスをもう少しやってみる必要がある----言ってみれば,そんな感じだった」と,スティックゴールドは報告している。
驚いたのは,記憶障害の患者も入眠時にテトリスのイメージを見たと語ったことだ。起きているときは,彼らはテトリスをやったことを覚えておらず,毎日ゲームを始める前にあらためてやり方を説明しなければならなかった。「まったく予想外の結果だった。入眠時には,もっぱらエピソード記憶が夢の材料になると考えていたからだ」
記憶障害患者の入眠時幻覚にテトリスのイメージが現れたということは,エピソード記憶,つまり名前,時,場所などと結びついた意識的に想起できる詳しい情報が,入眠時の夢の材料ではないことを意味する。記憶障害の患者も保持できるタイプの記憶,すなわち新皮質のより高次なレベルで生まれる手続き記憶と意味記憶が材料になっているということだ。新皮質は,ある経験から感覚情報をまずとりこみ,既存のエピソード記憶と結びつける。それまで新皮質が提供するイメージや記憶は,レム睡眠中や入眠後かなり時間がたってからのノンレム睡眠で見る,より幻想的な夢の材料になっていると考えられていた。しかし,入眠時にはその日の現実の出来事がはっきりした形で再現されることから,夢のイメージはすべて新皮質からもたらされると,スティックゴールドは結論づけた。夢のイメージは,新皮質が最近の出来事の断片と以前の記憶を結びつけようとするときに生じるというのだ。
アンドレア・ロック 伊藤和子(訳) (2009). 脳は眠らない:夢を生み出す脳のしくみ ランダムハウス講談社 pp.142-144
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