太平洋方面の作戦のほとんどを指揮したダグラス・マッカーサーは,日本本国への侵攻が必要とは考えていなかった。総合参謀本部の議長レーヒー提督は,原爆を使う必要がなかったという意見をのちに強く主張した。戦略爆撃部隊の司令官カーティス・ルメイも同意した。アイゼンハワーでさえ,自軍の安全のためなら何千という敵をなんのためらいもなく殺すのに,原爆の使用には強硬に反対し,年輩の陸軍長官ヘンリー・スティムソンに進言した。「反対する理由は2つあった。第1に,日本は降伏する準備ができていたので,あんな恐ろしい兵器で攻撃する必要がなかった。第2に,アメリカを原爆の最初の使用国にしたくなかった。だが……あの年輩の紳士は激怒して……」
原爆が不要という雰囲気はかなり支配的で,まず威嚇攻撃をすることや,少なくとも降伏要求の表現を修正して天皇の地位の保全を明言することが議論された。オッペンハイマーはこのような会議の多くに出席した。熱心に耳を傾け,必要なときには原爆の使用に賛成する意見をたいていは少しあいまいに述べたが,天皇を保護する条項は支持した。
だが,この議論には意味がなかった。トルーマン大統領にもっとも影響力のあった顧問のジミー・バーンズが育った土地の気風は,戦うときには使えるものをすべて使え,というものだ。子供時代を1880年代のサウスカロライナ州で過ごし,父親がいないので学校にも満足にかよえなかった。さらに以前にその州を訪れた人々が驚いて報告しているのは,陪審員の12人全員にめったに目と鼻がそろっていなかったことだ。開拓者社会の気風が残っていて,引っかいたり,噛みついたり,ナイフで切りつけたりすることで,けんかの勝敗が決した。天皇を保護する条項は日本政府の降伏への抵抗を和らげたかもしれないのに,その削除を確実にしたのもバーンズだった。潜水艦による封鎖の強化を待つか,進撃を準備中のロシア人に汚れ仕事をさせるほうが,現実的な手段だったかもしれない。
1945年5月31日の大統領「暫定」委員会の記録はこうなっている。
つぎのようにバーンズ委員が提案し,委員会が合意した。……爆弾は日本に対して可能なかぎり早期に使うべきである。労働者の住居に近い軍需工場をねらうべきである。事前に警告することなく攻撃すべきである。
デイヴィッド・ボダニス 伊藤文英・高橋知子・吉田三知世(訳) (2005). E=mc2 世界一有名な方程式の「伝記」 早川書房 pp.183-185
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