正常からどれくらい逸脱していれば真の奇人と認められるかは,容易に答えの出せない問題である。奇矯が何であるかを質的に立証しないかぎり,量的な考察はできない。というのも,人はみな多かれ少なかれ変わっているところがあるからだ。絶対的,均質的な一致は——そんなものがあるとすれば——それ自体が一種の奇矯だろう。したがってわれわれは,客観的に検証できる対照標準,すなわち異常を定義づけるための行動上の標準という概念を,当然あるものだと見なすわけにはいかない。「正常」がどんな要素で成りたっているかは,生活におけるもっとも主観的な問題の1つである。友人が話をしているとき,その友人が,世にも奇妙な習慣をもつ人間を目撃したと語った——けれどもよくよく聞いてみれば,それはわれわれ自身がつね日頃実行している,あるいは実行したいと思っている習慣にすぎなかった,という経験はだれにでもあるものだ。
デイヴィッド・ウィークス,ジェイミー・ジェイムズ 忠平美幸(訳) (1998). 変わった人たちの気になる日常 草思社 p.15
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