しかし,本当に音読と単純計算が,認知症の進行を食い止めたり,あるいは前頭葉機能検査の成績の向上に効果があったのだろうか,という疑問を抱かざるをえない理由があるのである。
音読と単純計算の認知症への効果については,老人学の国際専門雑誌に掲載された。内容は以下のようなものだ。
32人にアルツハイマー病の患者を2群に分けて,片方の16人に週2〜6回音読と単純計算を行ってもらい,6ヵ月後に前頭葉機能検査をして,何もしなかった群とその成績を比較したところ,音読単純計算群で前頭葉機能が統計的に有意に改善した。
専門科学雑誌に掲載されているから,まず間違いはないと多くの人は思いたくなるだろう。雑誌に報告された内容自体に偽りはない,と私も思う。
音読と単純計算は,参加したアルツハイマー病の患者さんが自主的に行うのではない。毎日,決まった時間になると学習室に行き,そこのスタッフの指導の下に,計算のドリルや,音読練習を行ったのだ。必ず最後までやるように,スタッフはアドバイスを与える。こうして毎日約20分,音読と単純計算ドリルを行ったのである。
では,6ヵ月後に行った検査で明らかになった前頭葉機能の向上は,果たして音読と単純計算によると結論してよいのだろうか。そこに,方法論上の大きな問題があるのだ。
方法論上の問題とは何か。それは,対照(コントロール)としたアルツハイマー病の患者に対しては,音読や計算はもちろんのこと,何も特別なことを行わなかったことだ。本来ならば対照にされたアルツハイマー病の患者さん16人に対しても,週に2〜6回,学習室に来てもらい,音読と単純計算を行った16人と同程度のスタッフとの交流を行うべきだったのだ。ではなぜ,そんなことをする必要があるのか。
対照となった16人と,音読,単純計算を行ったグループの差は,厳密には音読,単純計算をやったかやらなかったかだけではない。音読,単純計算を行うに当たっての,スタッフとの会話やその他の交流,スタッフからのアドバイスや元気づけの有無も大きな差だったのである。
榊原洋一 (2009). 「脳科学」の壁:脳機能イメージングで何が分かったのか 講談社 pp.113-114
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