さて,ほとんどの人は,心理学とは「心理の学」だと思っているだろう。建築学が建築の学であり,経済学が経済の学であるなら,同様に心理学が心理の学であることは全く明らかなことに思える。しかし本当にそうだろうか。では「心理」とは何だろうか。『広辞苑』では「心の働き。意識の状態または現象」と定義されている。日常的な用法では,心理という言葉は,特定の人が特定の時に抱いている心的状態,特に感情的な状態を意味するようである。たとえば「電車の中で大声を出して携帯電話で話している人の心理は不可解だ」というふうに,「心理」という言葉はほとんど「そのとき考えていること」や「気分」と同一の意味で用いられている。つまり心理学が心理の学なら,それは結局「たった今あの人は何を考えているか」を知ることのできる学問というニュアンスを持ってしまう。つまり心理学はテレパシーのような学問だということだ。実際に,心理学科の学生がサークルなどの自己紹介で「専攻は心理学です」というと,必ず「じゃあ,今私が何を考えているのかわかるんですね?!」という途方もなく居心地の悪い質問を受ける。心理学が「心理の学」なら,この質問はごく当然だろう。
しかしあたりまえのことだが,心理学はテレパシーのようなものではない。つまり心理学は「心理の学」ではない。少なくとも大学で学ぶ心理学は心理の学ではない。大学で学ぶ心理学は「心の理学」である。「の」の字の位置を変えただけで,心理学という言葉のニュアンスが全く変わってしまうことに注目していただきたい。すでに述べたように,心理学という言葉は,Psychologyという言葉を構成するプシケーとロゴスを,ほぼ忠実にそれぞれ「心」と「理」という漢字におきかえている。つまりもともと「心理」というひとまとまりの概念ではなく,「心+理」という構造になっているのである。「理学」とは結局「科学」のことだから,心の理学とは人間の精神を科学的に探究しようとする学問ということになる(もっとも明治の初期には「理学」はPhilosophy(哲学)の訳語の1つだったらしい。だから最初は心理学という語はむしろMental Philosophyの訳語としての意味合いが強かったのかもしれない)。
道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 pp.5-7
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