ちなみに,こうした行動実験のノウハウは心理学だけが持つものである。心理学以外で,人間や他の動物の行動をきちんと精密に測定できる分野はほとんどない。しかもこれまで述べた例からわかるとおり,心理学の測定方法は創意と工夫に満ちている。心理学の魅力の大部分は方法の魅力であると筆者は思う。その方法論によって心理学は生理学や神経科学に貢献している。だから脳科学がいくら進歩しても心理学はなくならない。というかむしろ逆で,脳科学の進歩には心理学の方法が不可欠なのである。たとえば最近では,遺伝子組み換えによって特定の神経伝達物質の生成に影響を与え,記憶の生理学的基盤を明らかにしようとする研究が盛んに行われている。これが成功すれば「頭のよくなる薬」の開発につながるので,膨大な研究費が注ぎ込まれている。しかしそこでどんなに高度な生化学的操作が行われても,実験動物の記憶能力が実際に向上したかどうかを評価するのは,行動実験によってのみ可能なのである。つまり遺伝子を組み換えた実験動物に実際に「迷路学習」などをさせて,その成績が向上していることを示さなければならない。たとえ遺伝子組み換えによって記憶に関わる脳の部位が増大することが認められたとしても,実際の学習成績が向上しなければ意味がない。このように心理学の方法は,脳科学に従属するのではなく,逆に脳機能の理解に不可欠の重要な技術を提供するのである。
以上のとおり,心理学の目的は,主観的な世界で生じる精神の働きを客観化することである。しかし心理学には何の秘術もないので,精神の働きを直接に知ることはできない。そこで心理学は,精神機能の反映である「精神作業の成績」を研究対象とする。そこにおいて心理学研究の魅力は,方法のおもしろさ,巧妙さによるところが大きい。考え抜かれた納得できる科学的方法によって,主観的世界を研究すること。それが心理学研究の醍醐味だ。それは世間的なイメージよりもはるかに科学的思考に満ちており,また少々窮屈なほど「方法コンシャス」でもある。これが現代心理学の実際のすがたである。このように心理学は極めて科学的であり,何の秘術も持たない。
道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 pp.63-64
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