最近いかにも「ものわかりのいい」子供たちや若者たちが増えているが,わたしは彼らを見て,本当に「わかっている」とは思えない。ちっとも「わかっていない」のに,「わかった風」をしていると思う。それは大人の考えが本当にわかっていたり,大人のいうことにしたがおうとしているのではなく,「どうせわかり合えないのだ」と割り切って,無用な摩擦を避け,適当に「良い子」になって,生活と気分の安定をはかっているのだと思う。
親は安心するであろうが,結局は本当に「わかり合う」ための努力を,両方とも放棄しているのである。これはいまの子供や若者が,ずるいとか老成しているということではない。彼ら自身が少し後の世代について同じことを感じているはずで,いまの大人が(年齢が上になるほど),自分と同じ分類体系が通用していると思い込んでいるのに対し,若い人ほど実状が見えているのだと思う。
以上は,日本のなかでの世代間の話であるが,同様の関係が,日本と外国,アメリカとソビエト,欧米諸国とイスラム圏,イスラエルとアラブ諸国,先進国と開発途上国などのあいだにあると思う。これらの当事者が,自分の分類体系だけが唯一の真理であると信じ,それ以外のものを排撃しているかぎり,相互理解は不可欠で,「わかり合える」ことはできず,結局は武力にものをいわせて相手をしたがわせるしかないという結果になる。世界全体がそういう方向に進みつつあって,本当にわかり合う努力が放棄されていっているのが,現在の危機的状況ではないかと思われる。
坂本賢三 (2006). 「分ける」こと「わかる」こと 講談社 pp.217-218
(引用者注:本書の原本は,1982年に刊行されたものである)
PR