実際,そもそも「山」をどう定義するかは大変な難問で。まだ答えはない。直感的に「山」に見える地形のふくらみを「山」と呼べばすむ話ではないかと考える人がいても不思議ではない。しかし,周囲の土地から突き出て標高が高ければ「山」とみなすと機械的に定義してしまうと,公園の砂場で幼児がつくった「砂山」まで「山」とみなさなければならなくなるだろう。日本中,「山」だらけになってしまう。これでは話にならない。結局,その土地の住民が古来「山」と呼ぶ土地の突起に対して,国土地理院が「三角点」を与え,初めて合法的に「山」とみなすしかないわけだ。
私たちは「山」といえばついつい高い山を思い描くので,「山とは何か」という定義など自明だろうと軽く考えてしまいがちだ。しかし,高い山ではなく低い山にいったん目を向けると,「山」といえるかどうかの境界がぼやけてしまう。高い「山」の明瞭さは低い「山」のあいまいさの免罪符にはならない。だからこそ,国家や法律の助けを借りて「山である」と宣言するのである。
三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.23-24
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