南方熊楠がロンドンに遊学しながら,『ネイチャー』誌に「極東の星座」という短報を初めて投稿したのは1893年のことだった。熊楠の記事が載ったころもなお,『ネイチャー』は一般読者を対象とした図入り科学雑誌であるという創刊当時の性格をそのまま遺していただろう。いまの科学者ならば「『ネイチャー』に載った」という点で条件反射的に「すごい」とつい感じてしまう。しかし,当時と今とでは同じ『ネイチャー』であっても,雑誌としての性格はずいぶんちがっていたと考えるべきではないか。
上述の雑誌の系譜の例が示すように,時空とともに変化し続ける系譜の正体は,それに名前を付けたからといって解明されるわけではけっしてない。歴史過程を担う系譜のある「断面」や「断片」に名前を与えるという分類行為は,その系譜の過去のありさまがどうであったかを物語るわけでもなければ,将来にわたってどのように変わっていくのかを予言するわけでもない。とすると,「部分」へのネーミングは,心理的本質主義に基づく“まとまり”(時空的に変化しない本質)を私たちの心の中にもたらすという点でむしろ弊害があるにちがいない。
三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.249-250
PR