典型科学が課していた上述の5基準を,どんな根拠があって他の科学にもあてはめようとするのか,それ以外の基準があり得るのではないか,という問題意識がそこにはあります。歴史学や進化学を無理に既存の科学の枠組みに押し込めるのではなく,むしろこれまでの科学の制約そのものを変えていこうという方針です。
しかし,このような反対弁論がそもそも可能になるためには,「歴史」すなわち過去に生じた現象に関する編年(年代記)あるいは叙述(物語)が,何らかの意味で「科学」的研究の対象となり得ることが示される必要があります。科学的方法は必ずしも単一ではなくてもよいだろうという主張は,えてして悪しき「相対主義」(“何でもかまわない”という科学論的スローガンがかつてありました)を誘い込む危険性があります。しかし,ここで私が念頭に置いている科学的方法の「複数性」は,そのような相対主義を許容するものではありません。
科学的な仮説や科学論と呼ばれる資格をもつには,何らかの方法でその仮説や理論が経験的にテストされる必要があります。得られたデータや観察に対して,ある仮説や理論はどれくらいうまくそれを説明できるのか,あるいは説明できないのかを比較検討することで,私たちはある仮説が他の仮説よりもすぐれているかおとっているという判断を下すことができます。裏返せば,そのような経験的テストをすることができない主張は,データに照らした相互比較ができないという意味で,科学的ではないと言わざるを得ないわけです。
三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.43-44
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