演繹法や帰納法は従来の科学哲学の中では,物理学や化学などのように普遍類(たとえば,化学ならばある原子番号をもつ元素の集合,天文学ならば赤色巨星の集合のような類)を対象とする学問における,反復観察や再現実験を踏まえた論証方法として繰り返し論じられてきました。しかし,歴史学や進化学が対象とする個物(再現性のない一度かぎりの事物や現象)の場合には,そういう論証スタイルはもともとあてはめられません。だからこそ,もっと「弱い関係」を用意することで,歴史を扱う科学の中でも,データに基づく仮説や理論のテスト可能性を確保しようというわけです。
データが理論に対して「経験的支持」を与えるとき,同じ現象を説明する複数の対立理論の間で,「支持」の大きさに則ったランクづけをすることができます。あるデータのもとで,もっとも大きな「支持」を受けた最良の仮説を頂点とする序列です。そして,経験的支持のランクがより大きい仮説を選ぶという基準を置くことにより,仮説選択の方針を立てることが可能になります。
この仮説選択基準は,古くはアリストテレスのいう「エンテュメーマ」が指し示す推論の形式,すなわち「“最善の説明に向けての推理”(より古い言い方では,結果から原因へとさかのぼっていく推理)のような不可欠の推論様式」に通じるものがあります。さらに,19世紀の哲学者にして記号論の創始者であるチャールズ・S・パースは,与えられた証拠のもとで「最良の説明を発見する」推論方法を「アブダクション(abduction)」ということばによって表わそうとしました。
理論の「真偽」を問うのではなく,観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する——アブダクション,すなわちデータによる対立理論の相対的ランキングは,幅広い科学の領域(歴史科学も含まれる)における理論選択の経験的基準として用いることができそうです。
三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 p.64-65
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