「理科系」と「文科系」という学問の分け方には,何かしら本質的に大きな意味があるかのように言われることがあります。ほんとうにそうなのでしょうか?
私は,そういう論議は歴史的にたまたま仕分けられた学問分類に,後世の人間が振り回されているだけなのではないかという気がしています。いったん別々のクラスに分類されてしまったがために,その後いつまでたってもその学問分類の“縛り”から逃れられない状態に陥ってしまっている。しかも,その“縛り”を息苦しいと思わないばかりか,かえって“建売住宅”としての心地よさに安住してしまっている気配すらあります。
歴史的偶然の妙と言ってしまえばそれまでなのですが,でも何かおかしい。その理由は,あるひとつの学問分類の体系が有形無形の制約を私たちに課しているのに,当の本人たちがそれにまったく気づいていないという点にあるのでしょう。その学問分類でほんとうにいいのですか?
分類は絶対的なものではなく,ある採用された分類基準(類似性の尺度)にしたがってグループ分けをしているにすぎません。もちろん,得られた分類体系が私たちにとって認知的に役に立つかどうかという実用性のフィルターを通して,分類の善し悪しは判定されます。しかし,すべての分類には基準があるという点は,生物分類だろうが学問分類だろうがちがいはありません。分類基準を変えれば,分類体系はどのようにでも変わる——この単純な理屈はいつでも有効です。
三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.86-87
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