明らかに,ミームには,忠実に伝達されるものも,大きくゆがめられて伝達されるものもある。リチャード・ドーキンス自身が作り出した2つの文化的なミーム——一方は忠実に複製されたミーム,もう一方は奇妙な突然変異をとげたミーム——のたどった対照的な運命について考えてみよう。「ミーム」の考えそのものが,かなり正確に複製されてきたミームの一例である。ドーキンスがこの考えを導入して数年後には,社会科学や進化生物学・心理学のほとんどの専門家がこの考えについて知っており,もとの意味が基本的にほぼ正確に保たれていた。これを,ドーキンスのもうひとつの概念,「利己的遺伝子」と比べてみよう。利己的遺伝子ということばでドーキンスが言わんとしたことは,DNAの配列である遺伝子がすることはただひとつ,自身の複製だ,ということである。これはすなわち,この機能をもたないもの(遺伝子を次世代に受け渡すことのできない個体を作るような遺伝子)は,遺伝子ピールから消え去る,ということである。ここまではきわめて単純だ。しかし,利己的遺伝子ということばがいったん広まってしまうと,その意味が思わぬ変化をとげ,「私たちを利己的にする遺伝子」という使われ方をすることが多くなった。ある時イギリスの『スペクテイター』紙の社説が,保守党は,ドーキンス教授の言うこの利己的遺伝子とやらを,もっと獲得したほうがよいと論じたことがある。しかし,遺伝子は「獲得」するものではないし,ある人間がほかの人間よりもある遺伝子を「より多く」もつというのも変だし,人々を利己的にする遺伝子というのもおそらくはないだろうし,いずれにしても,ドーキンスはそういうことを言ったことはない。こうした歪曲は,それほど驚くべきことではない。というのは,そうした歪曲は,広く流布している印象——生物学は,生存をめぐる闘い,テニスンの言う「牙と爪を血に染めし自然」,ホッブズの言う「万人の万人に対する闘い」をもっぱらあつかっている(実際こうした印象がおおむね誤りだということは,ここでは重要ではない)——を強めるものだったからだ。このような歪曲が起こったのは,「利己的遺伝子」という表現がぴったりする考えがすでにあったからである。利己的遺伝子の説明はこの考えに合うように変化し,もとの説明(最初のミーム)は,完全に無視された。
パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.52-53
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)
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