文化的な情報を獲得するには,さまざまなやり方がある。これは,人間の脳のもつ学習能力がどの領域でも同じというわけではないからである。たとえば,適齢期(1歳から6歳ぐらい)にある正常な脳なら,言語の正しい文法と発音を容易に習得できる。社会的相互作用の能力は,これとは違うタイミングで発達する。しかし,これらすべての領域において学習が可能なのは,利用可能な情報を超えてゆけるからである。これは,言語の場合には明らかにそうである。子どもが聞くものにもとづいてしだいに文法を形づくってゆくのは,彼らの脳が,言語がどう機能するかについて一定のバイアスをもっているからである。しかし,言語だけでなく,ほかの多くの概念領域についても,同様のことが言える。たとえば,日頃使う動物の概念について考えてみよう。子どもは,動物の種類によって繁殖のしかたが違うということを学習する。ネコは子ネコを産み,ニワトリは卵を産む。子どもは,動物を実際に観察することによって,あるいは具体的な情報を与えられることによって,これがわかるようになる。しかし,子どもたちがすでに知っているので,教えなくてもよいことがある。たとえば,1羽のニワトリが卵を産むのなら,おそらくすべてのニワトリが卵を産むはずだ,ということを言ってあげる必要はない。同様に,5歳児は,1頭のセイウチが赤ちゃんを産むのなら,ほかのすべてのセイウチもそのように子を産む,と推測するだろう。これは,さらに次のような単純なことを示している。つまり,知識を獲得する心は,あらかじめ消化しやすく加工された情報が経験と教育を通して注ぎ込まれる空っぽの容器などではないということだ。心は,見て学んだことを理解するために,情報を組織化する方法を必要とし,一般にはそうした方法をもっている。これにより,心は,与えられた情報を超えることができる。専門的な言い方をすると,与えられた情報にもとづいて推論することができる。
パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.56-57
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)
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