これらの平凡な推論には,実際のところ,より深くより微妙な側面がある。子どもも,おとなも,生き物の種(生物学者にとっては,イヌ,ネコ,キリンなどの属)をふつうは本質の点から表象している。すなわち,ウシは,とり去ることのできない,種全体の特徴である内的属性(もしくは属性の集合)をもっていると仮定されている。心理学者のフランク・カイル,ヘンリー・ウェルマンとスーザン・ゲルマンは,幼い子どものこういったさまざまな表象を挙げているが,これはおとなにも当てはまる。かりに,あなたが一頭のウシを連れてきて,余分な肉をそぎ落とし,ウマに見えるように変形し,たてがみと洒落た尻尾をつけ,ウマの好物を食べ,ウマのように動きふるまうように作り変えたとしよう。これはウマだろうか?大部分の人は(大部分の子どもも),ウマではないと言うだろう。それは,変装したウシであり,ウマのようなウシ,いわば異文化を採り入れたようなウシであるが,依然として本質的にウシであることには変わりない。ウシであり続ける内的で不変ななにかがあるのだ。あなたは,その「本質」がなにかという表象をもたなくても,この仮定をもつことができる。すなわち,大部分の人は,ウシをなんらかの本質的「ウシ性」をもっている(たとえウシ性がどのようなものかを言えなくても)ものとして表象している。彼らが知っているのは,ウシ性は,ウシがどう変わっても,とり去ることができないものであり,ウシの外的特徴を生み出す,ということだ。これが,なぜ雄ウシには角が生え,ひづめがあるのかという理由だ。
パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.143
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)
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