儀礼は社会的効果を生み出すのではなく,生み出すという錯覚を作り出すにすぎない。人は,儀礼を行なう時,なんらかの儀礼的小道具(感染予防システムを作動させるので容易に獲得される)と特定の社会的効果(人はそれについて直感はもつが,有効な概念をもたない)とを結びつけ,一組にする。社会的効果についての思考と儀礼についての思考とは,それらが同一の出来事についてのものなので結びつく。こうして人は自然に,儀礼が社会的効果を生み出すと錯覚する。
この錯覚は,次のような事実によって強められる。それは,ほかの人たちが特定の儀式を行うのに,自分は行わないのは,多くの場合社会的協力からの離脱になる,ということである。たとえば,いったんある儀礼(加入儀礼)を男性同士の完全な協力に結びつけ,別の儀礼(結婚式)を配偶者選択に結びつけると,その儀礼を行なわないことは,ほかの人々と同一の社会的協定に加わることを拒否したことになる。みなが自分が隠し隔てのない信頼できる人間であることを家の窓を開け放すことで示しているところでは,カーテンを閉めているのは非協力の明白な信号になる。それゆえ,儀礼はその効果にとって不可欠であるという錯覚は,人間社会一般を考えれば真実ではないにしても,当事者にとってはきわめて現実味を帯びている。というのは,彼らは,規定された行為を行なう(それを行うこと自体がその儀礼が必要だということを確証するように見える)か,ほかのメンバーとの協力から離脱する(これはほとんどの人間集団では現実には選択肢にならない)かのどちらかを選択しなければならないからである。
パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.332-333
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)
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