要約すれば,原理主義とは,過度の宗教でもなければ,偽装された政治でもない。それは,離脱の代価が安く,それゆえ離脱が起こりやすく,特定の種類のヒエラルキーが脅かされているように感じられた時に,連帯にもとづいてそれを維持しようとする企てなのだ。脱走兵に対し軍法会議がより寛大になったら,そしてそれが戦線の兵士たちの知るところとなったら,潜在的な脱走兵に対する不法な迫害と処罰が自然発生的に起こり,それは,より過激で,見せしめの色彩が強いものになるだろう。同じ心理メカニズムが,なぜ一部の人々が宗教的連帯において極端な暴力にいたるのかを説明するかもしれない。そこに関与している心的システムはあらゆる正常な心に存在するが,歴史的条件は個別である。これこお,このプロセスが必然ではない理由である。すべての宗教的概念が民族集団の徴を生み出すのに用いられるわけではないし,民族集団のすべての徴が連帯の信号として用いられるわけでもない。すべての連帯が代価の安い離脱を抱えているわけではないし,内部にそうした脅威をもった連帯のメンバー全員が離脱の代価を引き上げることによって反応するわけでもない。実際,その代価がひじょうに高いものになるという事実から明らかなのは,これらの集団が,民衆の感情が自分たちのほうを向いているわけではないということを自覚しているということだ。残念ながら,このことは,結束が十分に強い連帯の場合には,政治的支配の障害にはならない。
パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.383-384
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)
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