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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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神の前に

「神は人間を平等に創造した」というのは,実はキリスト教史においてもかなり新奇な教えである。キリスト教徒は,ごく最近まで,神が人間を不平等に創造した,と信じていた。いや,もちろん聖書には「神の前で万人は平等だ」と書かれている。使徒パウロは,「もはや,ユダヤ人もギリシヤ人もなく,奴隷も自由人もなく,男も女もない。あなたがたは皆,キリスト・イエスにあって一つだからである」(「ガラヤテ人への手紙」3章28節)と言う。だが,その同じパウロは,教会の中で女性が指導者になることを許さず,妻は夫に従えと諭し,奴隷制をあるがままに容認していたのである。この矛盾はいったい何なのだろうか。
 それを解く鍵は,「キリスト・イエスにあって」や「神の前に」などという言葉遣いにある。つまり,キリスト教は長い間,人間はみな宗教的には平等でも,社会的な現実においては不平等でよい,と考えてきたのである。人間社会には,上下の秩序がある。神が創られたこの世界には,支配する者とされる者,身分の高い者と低い者,豊かな者と貧しい者がある。だからこそ,その中でお互いに助け合い,上には上なりの品徳と権威が,下には下なりの献身と服従が求められるのである。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.100
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どのような平等か

平等という言葉の内容にも,多くの議論がある。大事なことは,権利や出発点や法の下における平等なので,その後の努力によって格差が生じることまでは否定しない,という意見もある。政治哲学や経済学の分野では,それぞれ政治参加の平等や分配の平等が論じられ,「機会の平等」「結果の平等」「資源の平等」「必要性充足の平等」などといった多くの概念が提案されてきた。これらの議論はあまりに錯綜しているため,平等はもはや政治理念としては「絶滅危惧種」である,と宣言する者すらある。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.98

平等を求めて独立

プロテスタント教会には,カトリックのような修道院も存在しない。修道士として出発したルターは,あえて元修道女と結婚し,世俗社会に暮らす者にも修道者と同じように神に仕える道があることを示した。教科書風にまとめるなら,これがマックス・ヴェーバーの論じた「プロテスタント倫理」を生み出してゆくことになる。かくして,プロテスタントが圧倒的な主流派であったアメリカでは,「平等」という価値観が他のどの国よりも強力な原理となり,それが民主主義の原則とも適合してさらに強められる結果となった。
 個人だけではない。国家としてのアメリカ合衆国の独立も,この「平等」原理に基づいて進められた。イギリスの圧政に抗してトマス・ジェファソン(1743-1826)が起草した独立宣言には,「すべての人は平等に創られた」とある。本国人と植民地人との間に,住む所によって不平等が生じている事態を許さない,という意味である。イギリスという国家がそういう平等を実現できないなら,独立して別の国になるしかない。アメリカは,平等を求めて独立したのである。独立宣言のこの言葉は,福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉へと翻案され,やがて日本でも知られるようになった。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.96-97

熱心の意味

とはいえ,当時の人びとが信仰復興という出来事をみな同じように見ていた,というわけではない。「熱心」(enthusiasm)という言葉は,今日なら肯定的な響きをもつが,当時はとても悪い意味だった。「あの人は熱心だ」というのは,「あの人は常軌を逸した危険人物だ」という意味だったのである。信仰復興運動をめぐっては,賛成派と反対派がくっきりと分けられ,伝統的な価値観をもってこれに反対する保守派は「古き光」,賛成派は「新しき光」と呼ばれた。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.87

素朴で謙遜な無知

キリスト教に限らず,およそ宗教には「人工的に築き上げられた高慢な知性」よりも「素朴で謙遜な無知」の方が尊い,という基本感覚が存在する。神の真理は,インテリだけがわかるようでは困る。それに触れれば誰もが理解できるような真理でなければならない。とりわけアメリカは,ヨーロッパという旧い世界との対比で自分のことを考える。よ~オッパは,知的で文化的だが,頽廃した罪の世界である。自分たちはそこを脱して新しい世界を作ったのだ。だから人間の作り上げたそういう文化的な知よりも,聖書が説く神的な知へと回帰したい,というのが彼らの願いなのである。反知性主義は,「学者」と「パリサイ人」つまり当時の学問と宗教の権威者をともに正面から批判したイエスの言葉に究極の出発点をもつ。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.85

多重契約

では,信徒はどのようにして教会に加わるのか。ニューイングランドでは,世俗秩序も教会秩序も,ともに「契約」の概念を下敷きにしている。その契約は多重である。神は,まずニューイングランドという植民地全体と契約関係にあり,ついでそこに建てられたそれぞれの教会と契約関係にあり,最後にその教会の成員1人1人とも契約関係にある。新しい転入者は,教会全体の前で,自分の信仰を告白し,それを聞いた教会員全員の投票により,加入を許可されるのである。教会への加入は,入会者と神との新たな契約の締結という儀式であった。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.49

ジョン・ハーバード

「ハーバード」という大学名は,公立大学として設立された時の議決には記されていない。これは,その後同大学に多額の遺産を寄付したジョン・ハーバード(1607-1638)を記念してつけられたものである。ジョン・ハーバードは,イギリスに生まれ,ケンブリッジ大学のエマニュエル・カレッジを卒業して牧師となった。同カレッジは,ピューリタン学生を受け入れる数少ない大学だったため,ニューイングランドには彼の他にも多くのエマニュエル・カレッジ出身者がいる。彼も修士号を取得して1637年にニューイングランドへ移住するが,翌38年には結核で死の床についてしまう。その遺言で,320冊にも及ぶ自分の蔵書と遺産の半分である780ポンドを大学に寄付したのである。これは,2年前に植民地議会が拠出を決めた400ポンドのほぼ倍にあたる金額だった。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.45-46

初期の授業の様子

学生は,基本的に1日に1学科だけを学ぶ。なぜかと言うと,先生がいなかったからである。ハーバードに限らず,イェールでもプリンストンでも,数人の若い助手を他にすれば,専任の教員は長いこと学長1人だけで,学長は全学年の全学科を担当しなければならなかった。これはかなりハードな責務である。
 授業内容を見ると,伝統的なリベラルアーツの三学四科を基本として,ルネサンス期に加えられた三哲学(自然哲学,道徳哲学,形而上学),それに古代東方言語で成り立っていることがわかる。授業は午前中だけで,午後は各人の読書や自習にあてられた。時間割のサンプルも残っている。月曜日と火曜日には,1年生は論理学,2年生は倫理学か政治学,3年生は算術と幾何学あるいは天文学を学ぶ。水曜日は全学年がギリシア語,木曜日はヘブライ語かアラム語かシリア語を学ぶ。金曜日は修辞学である。これらをすべて担当できる教授は,よほどの者でなければならなかっただろう。明らかに,授業内容の焦点は,聖書がきちんと読めて解釈できるようになることにあてられている。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.37

まず大学を

現代アメリカには,世界の大学ランキングで常にトップの位置を占めるハーバード,イェール,プリンストンといった大学がひしめいているが,これら3校はいずれもこうした任務に就くピューリタン牧師を養成することを第一の目的として設立された大学である。3校ともアメリカ独立以前から存在しているが,最初のハーバード大学が設立されたのは,1636年のことである。プリマス植民地への入植から考えても16年,マサチューセッツ植民地への入植からは,わずか6年しか経っていない。
 考えてもみていただきたい。植民地の人口は,まだ1万人にも満たない段階である。人々はようやく無事に航海を終えてたどり着き,自分の家を建て,礼拝などに用いる公的な集会所を作り,何とか自治政府の体裁を整えたところである。そんな時に,次に作ろうと思うものは何だろうか。「大学だ」と思う人は,まずいないのではないだろうか。「学校を作ろう」と思う人はあるかもしれないが,その場合はまず小学校からだろう。ニューイングランドではやがて初等教育も充実してゆくが,よく知られた「アダムの堕落でわれらみな罪人なり」(In Adam’s Fall, We Sinned All)という一言で始まるアルファベット教科書が発行されるのは,半世紀ほど先のことである。
 なぜそんな時に,「まず大学を作ろう」と思ったのか。彼らが恐れたのは,現在の牧師たちが死んでいなくなった後,教会の説教を誰がするか,ということであった。もしニューイングランドに大学がなければ,牧師になるためにわざわざ大西洋の向こうの旧世界へ戻り,大学を出て帰ってこなければならない。そんな苦労や危険を続けることは,何としても避けたかったのである。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.34-35

ピュア化

「ピューリタニズム」とは,もともとイギリスでヘンリー8世の結婚問題を機に起きた中途半端な宗教改革に飽き足らない人々が,教会のさらなる純化(ピュア化)を求めて始めた運動だった。だから人々は聖書を読むことにいっそう熱心だったし,教会はその聖書の言葉を正しく解き明かしてくれる指導者を求めた。ピューリタン牧師たちに聖書の解釈と解説の高い能力が求められたのは,そのためである。彼らは,ヘブライ語やギリシア語を学び,原典から聖書を解読し,そこから得た自分の考えを,聴き手にわかるようなメッセージに組み立てなおして語らねばならない。これはかなり高度な学問的手順を要する。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.33

機関車のような精神

およそ宗教というものは,仏教でもキリスト教でも,ひとまずは人間の道徳が破綻したところから出発するものである。救いは凡夫や罪人にこそ与えられるもので,「申命記」のように単線的な道徳論は,聖書の中でもやや例外的である。ところが,アメリカの歴史はそこから始まっている。レーガンの底知れぬ楽観主義は,ウィンスロップの説教が敷いたわかりやすい二本線の論理をそのまま踏襲したものである。
 アメリカ精神とは,昔も今も,このレールの上を突っ走る機関車のような精神である。この国と文化のもつ率直さや素朴さや浅薄さは,みなこの二分法を前提にしている。明瞭に善悪を分ける道徳主義,生硬で尊大な使命意識,揺らぐことのない正当性の自認,実験と体験を旨とする行動主義,世俗的であからさまな実利志向,成功と繁栄の自己慶賀——こうした精神態度は,交差も逆転もなく青年のように若々しいこの歴史理解に根ざしている。20世紀アメリカの産物である「ファンダメンタリズム」も,進化論を拒否する「創造主義」も,終末的な正義の戦争を現実世界で実現してしまおうとするアメリカの軍事外交政策も,みなその産物と言ってよい。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.29

幸福を安泰だと思いたい

不思議なことに,人は不幸な時ばかりでなく幸福な時にも,神の正義を問いたくなるものである。自分が不幸なのはなぜか,という問いである。そしてその答えはきまって,「それは偶然ではなく,正当な根拠があるのだ」というものである。幸福な人は,誰もがそう思いたいのである。なぜなら,もし偶然に幸福なだけであれば,いずれその幸福は失われるかもしれないからである。ヴェーバー的に言うと,人は単に幸福であるだけでは満足できずに,幸福であることの権利や根拠を欲するのである。自分が幸福なのは当然だ。自分は幸福である権利がある。だから自分の幸福は安泰だ,と信じたいからである。そこに,神の祝福という補助線が見えてくる。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.28

契約

はじめ大陸の改革派神学の中で語られた「契約」は,神の一方的で無条件な恵みを強調するための概念だった。人間の応答は,それに対する感謝のしるしでしかない。旧約であろうと新約であろうと,聖書の基本的なメッセージは,繰り返される人間の罪と反逆にもかかわらず,神はあくまでも恵みの神であり続ける,ということである。契約とは,当事者の信頼やコミットメントを表すものだったのである。ところが,ピューリタンを通してアメリカに渡った「契約神学」は,神と人間の双方がお互いに履行すべき義務を負う,という側面を強調するようになる。いわば対等なギブアンドテイクの互恵関係である。
 神学者のリチャード・ニーバーによると,このような契約理解は現代アメリカ社会にも深く影響を及ぼしている。神学的な契約概念の変化は,人間同士で交わされる世俗的な契約をも変質させてしまった。本来それは,自分自身を縛る信頼と約束の表現であったのに,いつの間にか相手方に義務の履行違反がないかどうかをチェックする言葉になってしまった。ニーバーの解釈は,商売や結婚などを契約の概念で理解する「ドライな」アメリカ社会に対する文明批判である。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.23

反知性主義

「反知性主義」(anti-intellectualism)という言葉には,特定の名付け親がある。それは,『アメリカの反知性主義』を著したリチャード・ホフスタッターである。1963年に出版されたこの本は,マッカーシズムの嵐が吹き荒れたアメリカの知的伝統を表と裏の両面から辿ったもので,ただちに大好評を博して翌年のピュリッツァー賞を受賞した。日本語訳がみすず書房から出たのは40年後の2003年であるが,今日でもその面白さは失われていない。訳者の田村哲夫が「あとがき」に記しているとおり,「説得的な歴史観の下で,正確な叙述で表された歴史書は,どんな時代にも古くささを感じさせるものではないし,どんな時代にも有益なヒントをあたえてくれる」ものである。
 だが,もしそんなに名著であるなら,これが40年も訳出されずに放っておかれたのはなぜだろう,とう問いも湧いてくる。理由の一端は,この本の内容が日本人には理解しにくいアメリカのキリスト教史を背景としているところにある。この本に言及する人もあるにはあるが,よく見てみると,引用されているのは冒頭の数頁だけで,内容的な議論の深みへと足を踏み入れる人は少ない。けっして難しい本ではないが,日本人になじみの薄い予備知識が必要なため,本筋のところが敬遠されてしまうのである。その先に続く議論の面白さを考えると,これは実にもったいない話である。アメリカの反知性主義の歴史を辿ることは,すなわちアメリカのキリスト教史を辿ることに他ならない。

森本あんり (2015). 反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体 新潮社 pp.5

真のメリトクラシー社会

真のメリトクラシーの米国とは,どんなふうだろうか。全員に平等に機会を与え,最高の成果を残せる人間に職が与えられる社会だろうが,その目標達成には再編が伴い,現在の米国版メリトクラシーとかなり違って見えるだろう。重要な職務,金と地位によ最高の報酬は,ほんの短期間だけ,厳格に実績に基づいて与えられる。若いころの将来性に基づいて生涯にわたる在職権を与えるのは,できるだけ減らされる。エリート層はメンバーがたえず入れ替わる集団になり,安定した不動のメンバーではなくなる。成功した人間でも落ち着いてキャリアを積み重ねられなくなるが,人生がうまく行かない人間からは,共感を得やすいだろう。マンダリン集団の中のスペースはぎりぎりまで小さく,マンダリン外のスペースはぎりぎりまで大きくなろう。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.427

公平・不公平

読者が,できるだけ公平に機会を分配するシステムを1から設計したいとしよう。今ある米国版メリトクラシーを設計するだろうか。それは,IQテストの得点,もしくはより広く学業成績が,能力に等しいものと信じる場合に限られる。この立場を取ることは可能だが,ただ単に仮定するのではなく,少なくとも世間で議論するように提示しなければならない。そうすれば即座に反対意見が出るだろう。能力にもいろいろあり,一面的ではない。知能テストや教育そのものが,あらゆる形の能力を発見するとは期待できない。知能テストでは,知恵,独創性,ユーモア,ねばり強さ,情緒的な理解力,良識,独立心,意志の強さは把握できない——人徳は言うまでもない。知能テストは潜在的な側面で人間を判断するが,選抜の目的となる作業の長期にわたる実績で判断することはない。
 一歩進めて,できるだけ不公平な機会配分システムを設計する課題をもらったとしよう。最初の選択は,世襲によってあらゆる役割を露骨に受け継がせるシステムかもしれない。これは極めて有害なシステムだ。ありがたいことに,米国にはかつて一度も存在しなかった。さて,二番目に不公平なシステムは,競争は容認するが,人生のなるべく早い時期に競争させ,学校をその場に用いるシステムかもしれない。両親の影響や,各人の背後にある文化・階級の影響は,学生時代に最も大きく色濃く表れる。どの学校にも勉強を通じた競争があり,最終的な結果に基づいて,一部の人間は生まれた環境を大きく超えて出世するチャンスをつかむ。しかし学校は総じて,ジェイムズ・ブライアント・コナントの言葉にあった「各世代の“持てる者と持たざる者”の秩序を再編し,社会秩序に流動性を与える」機能を果たし得ない。教育が提供するのは期待——両親が露骨に,熱烈に寄せる期待——世代をまたいで地位を引き継ぎ,変化したり,没落したりしないという期待なのだ。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.424

複数の仮定

米国版メリトクラシーは,いくつもの仮定が連なった上に成立していた。人々は今,この仮定をよく知らない。最初に公表されなかったからだ。第1の仮定は,このシステムの主要課題が,少数の人間の選抜と新エリート層の形成に置かれるところにあった。すべての米国民に機会を与える目標は,システムの設計に絶対必要な要素ではなく,システムに世間の支持を集める方法として,あとで付け足された。2つ目の仮定は,選抜方法は知能テストに依るべきで,それが優れた学問的才能の代用物を測るとするものだ。言い換えれば,「能力」の定義は,純粋に知能,教育面の能力となる。最後に,学生を選抜する目的は,トーマス・ジェファーソンが「政府機関」と呼んだもの——近代官僚国家の行政・学問サービス——の現代版に学生を入れるためだった。システムの創設者たちは,現在使われている意味のメリトクラシーより,フランスや日本のエリート官僚システムに近いものを構想していた。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.423

限られた枠内の競争

社会のトップの人たちは大体いつも,本質的に他人より優秀だと感じており,幸運に生まれついただけでなく,自ら地位を築いたと思っている。戦間期の米国やビクトリア王朝の英国など,われわれから見て,明らかにメリトクラシー的でなく,アリストクラシー的だったと思われる社会では,責任を担う価値のある人間が社会を運営するとされた。過去に繁栄を謳歌した人たちはどのようにして自分を優秀だと認めたのだろうか。そういう人たちは通常,限られた枠内で競争するメリトクラシーに参加していた。たとえば『イェールのストーバー』が描いた類の競争である。少数の非常に限られたグループのメンバーが,最高の賞を目指して全力で競争する。勝者は,自分は賞にふさわしいと感じる。競争にいっさい参加できない大衆は,遠く離れて視界に入らない。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.422-423

TOEFLの不正

圧倒的かつ急速に伸びているETSのテストは,TOEFLと呼ばれる,多くの学術系大学院が留学希望者に受験を義務づけているテストだった。TOEFLは世界中で実施されていたが,市場のかなりの部分がアジア。TOEFLはエリス島の現代版のような機能を果たしていた。米国にたどり着きたい人たちは,この狭いポイントを通過しなければならない。このため,TOEFLは最も不正の多いテストだった。替え玉受験が横行し,ETSはTOEFLのスコアレポートに受験者の写真を印刷しなければならなかった。時差を使った不正は,TOEFL実施側に刺さったもう1つの棘だった。問題が台湾のテストセンターからひそかに持ちだされ,ロサンゼルスにファクシミリで送られる。ロサンゼルスでは,だれかが夜明けまでに正解を作成し,その日の受験者に売りつけることができた。ある者は,受験者がテスト本番で使う鉛筆に,正解を印字する方法を編み出した。またある者は施行者の追跡を受け,露見して家族に恥をかかせるかもしれないと思い,自殺した。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.297-298

アファーマティブ・アクション

アファーマティブ・アクションは,公衆の目に触れない論争も巻き起こした。たとえば,ニクソン政権の公文書館には,6つのユダヤ人団体が1972年共和党全国大会の直前に提出した,長い覚書がある。覚書は,大学が黒人に有利なとりはからいをしている33の例を挙げて(したがって白人に打撃を与えていると)抗議した。
 メリトクラシーの登場は,アイビーリーグの大学や,アイビーリーグ出身者を雇う雇用主の多くが1920年代から維持してきた,非公式だが厳格なユダヤ人受け入れ枠(割り当て)を終わらせることになっていた。しかしユダヤ人がメリトクラシー内で大きく躍進する方向に万事整った今ごろ,黒人支援を装う形で,割り当てが戻ってくるように見えた。それは,大学が黒人学生の比率に下限を設けることから,ほんの小さな一歩を踏み出すだけで,ユダヤ人学生の比率に上限を設けるところに至るように映った。もし,各グループの人口比が目標なら,ユダヤ人はどうなるのか。ユダヤ人は米国の人口の3%にとどまるが,アイビーリーグの学生数に占める比率は,割り当て制の最盛期でも同水準をはるかに超えていた。大学入学はゼロサムゲーム。入学定員のうち,厳密にテストの得点や成績によるのではなく,黒人や中南米系のため予約される定員が増加すればするほど,ユダヤ人のために残される定員は減る,とユダヤ人団体が推測するのも難しい話ではなかった。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.248-249

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