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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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自然のアリストクラシー

トーマス・ジェファーソンが1813年に「自然のアリストクラシー」という言葉を用いたのは,「アリストクラシー」という単語がそれまでのあいだに,全面的にではないが,少し変化した証拠だ。コナントが好んで引用したもう1人の提唱者,ラルフ・ウォルドー・エマソンは1848年,「アリストクラシー」という題名のエッセイを執筆し,この単語は,相続で受け継がれた特権を意味するのでなければ,ジェファソンが示したような安心感があると述べた。「上流階級の存在は,優秀さに依存するかぎり有害ではない」実際,エマソンの理想社会は,人選に良い方法があればの条件付きで,プラトンが提唱した正統派の貴族政治であった。エマソンは冗談めかして,だれの優秀さでも測れる「人間測定器」があれば良いのにと表現した。「各人が評価を受け,各人が各成人市民の真の数値や重みを承知し,各人はいるべきところに位置し,実行・使用する強大な権力が各人に委託されるところを見てみたい」

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.57
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家柄と関係のない登用

19世紀までの時代で,プラトンのアリストクラシーに最も近かったのが,儒教中国の官吏制度である。この制度は紀元前2世紀に始まり,将来の高官は特別な国立学校で育成された。紀元6世紀以降,官吏は科挙で選ばれるようになった。18世紀末,欧州の数カ国が家柄と関係なく人材を選び出し,上級公務員,専門技術者,軍将校を大学で教育する制度を作り出した。試験による公務員採用制度は,米国で1883年に始まった。しかしたぶん,米国社会は欧州社会に比べて商業的だからであろう。専門職の公務員と国家エリートは,常に,2つのグループに分かれていた。栄光のチャンスを手にする人はほぼ絶対に,人生のすべてを公務員に費やす道を選んだりしなかった。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.57

アリストクラシー

プラトンは『国家』で,「国守り(守護者)」の階級が社会を運営するシステムを提案した。国守りは10歳で親元から離され,教師が育てて,国家の統治者となる。その国守りを全階級から連れてこなければならないのが,プラトンの要点である。プラトンは「ときには,金の親から銀の息子が,銀の親から金の息子が生まれることがある」,「もし金や銀の親から生まれた息子が,真鍮と鉄の混ぜ物であれば,自然の摂理はランクの移動を命じる……神託によれば,真鍮や鉄の男が国家を守護したとき,国が滅びるからだ」と書いた。プラトンはもう1点,国守りは終身の政府官僚で,国家のためだけに関心を持ち,個人的な富には無頓着だとはっきり打ち出している。プラトンはこの理想のシステムを「貴族政治(アリストクラシー)」と呼び,文字通り,最高の者による統治という意味を与えた。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.56-57

SATの使用開始

コナントが到達度テストを嫌ったのは,それが裕福な少年に有利だったからだ。そういう少年の親は,子供に最高の高校の授業を受けさせることができた。コナントは,社会のあらゆるところから非常に優秀な少年たち——リトル・コナントたち——を集めて,奨学金を与えたかった。コナントは,優生主義者でもIQテストを普及させる社会運動家でもないが,ブリガムが否定に転じた,生まれつきの知能の仮説は信じていた。テストをするなら,カギとなる資質を試せばいい。米国教育の将来像に関する議論の中で,チョーンシーは自分の立場を選ぶことに関心がなかったが,コナントはすでに選択を決めていた。コナントはIQテスト派に属したのである。自体が急展開し始める中,このことが米国民の生活の将来像に大きな違いをもたらすことになった。
 1934年1月,コナントはチョーンシーとベンダーに,成績証明書と推薦状に加えてSATを使い,中西部から10人の若い男子を奨学金受給者に選んで,同年秋から大学に通わせるよう指示した(女子の場合は,ハーバード大学の姉妹校ラドクリフ大学に通うが,彼らはだれ一人として,女子も選抜できることに思い至らなかった)。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.50

新たな見解

ブリガムの新たな見解は,テストを廃止すべきという含みを持っていたわけではない。ブリガムは「何か不思議な力の測定」ではなく,「定型化した面接考査の方法」としてテストを信頼しており,SATの作業も続けた。新たな見解の意図は,計量心理学者が自然に持つ熱意にブレーキをかけなければならないという点にあった。ブリガム自身の経験から見て,計量心理学者はつねに,自分のテストが本質的で内在的な人間の資質を測定ししていると主張し,時期尚早な段階でもテストを広く使ってもらうよう求め,結果を誇張して吹聴する恐れがある。「実行が常に理論に先行した」とブリガムは記す。また「……これは新しい分野で,……正しいことはごくわずかしか行われていない。新情報が入り新手法が開発されると,これまで行われてきたことは,ほぼいっさいがでたらめに思えてくるのだ」と。戦時中,陸軍に大規模なテストを実施したこと(平常時は個人の望みを犠牲にすることが求められる)と,平和時の教育に同じテストの再現を試すことはまったく違う。ブリガムは「人道的な機関たる大学は,個人に対して誤りを犯すことが許されない」と書いた。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.45

SATという発明

初期のSATを受けてみると,数学的計算を含む問題や,同じ形あるいは顔の表情を問う問題に多少出くわすとはいえ,大半は,単語への精通という知能テストの永久不変の主成分が占めているのがわかる。つまりSATは長い年月の間に,ほとんど変化していない。初期の版の問題には全寮制学校で教える英文学風の装いがあり,現在それはなくなってしまったが,基本的な構成は,SATの受験経験を持つ多くの米国人に馴染み深いものだろう。初期版から2,3問抜き出してみると,SATが独特の方法で単純化し,同時に誤解を招くようにしていることと,受験者の熱心な受験対策に歯止めがきかない傾向にあることが伝わってくる。

これらの4語の中から反意語を挙げなさい。
obdurate spurious ductile recondite

最初の単語と同じ意味の単語はどれか,あるいはいずれも同じ意味を持つか,いずれも同じ意味を持たないか,答えなさい。
impregnable terile vacuous nominal exorbitant didactic

次の文章の中から誤った単語を見つけ出し,正しい単語に変えなさい。
In the citron wing of the butterfly, with its dainty spots of orange, he sees beyond him the stately halls of fair gold, with their slender saffron pillars, and is taught how the delicate drawing high upon the walls shall be traced in tender tones of orpiment, and repeated by the base in notes of graver hue.

 こんなテストはまったく聞いたことがなく,突然受けさせられたという人なら,このような問題を3時間かけて解けば,知能の大きさを明らかにでき,正答と誤答の数が,受験者の,社会で占めるべき位置を決めるのに活用できるという提案を信じられないかもしれない。しかしテスト作成者の目には,SATや同種のテストは偉大な発明のオーラをまとっているように見えた。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.41-42

本質的に知能検査

ブリガムなど先駆的な知能テスト専門家は,第一次大戦後,学校に目を向けた。学校は軍の次に,大人数を極めて迅速に評価・処理しなければならない組織であり,それゆえテストを行うには豊かな土壌といえた。ルイス・ターマンは小学生向けに「全国知能テスト」を開発。商業テスト会社がこれを熱心に売り込んだおかげで,1920年代に年間50万人以上が受験した。コロンビア大学のE.L.ソーンダイクは,学内の生徒向けに知能テストを作成。ペンシルバニア大学も採用した。イェール大学も1920年代初めに,学生に知能テストを実施した——これは実験であって入試目的ではない。ブリガムも大学に注目,陸軍知能テストのあるバージョンをプリンストン大学の1年生に実施し,さらに,ニューヨーク市にある,全生徒が特待生の工業大学,クーパーユニオンの入学志願者選抜にも用いた。
 これらはすべて,本質的にはIQテストだった。多肢選択の設問が用意されており,受験者は解答を選ばなければならない。陸軍知能テストと同様,語彙の設問に強く依存したが,設問が難しくなったのが大きな違いだ。プリンストン大学の学生は,入学が簡単で,勉学の能力より「キャラクター」でもっぱら合否が決まった時代でさえ,陸軍知能テストのどの受験者層よりも得点が高かった。ブリガムはこれに気づき,1926年に同僚への書簡で「尺度の最上位において細かい差別化の手法として行き詰まる」と認めた。ブリガムは設問の改善を続け,陸軍知能テストは1926年までにSATに変身した。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.40-41

考え方の転換

ブリガムはSATを大学に売り込む一方,重大な持論の変化を経験しつつあった。かつての彼自身も含めて,IQテスト派が奉っていた中心的な教義——IQテストが,生物学に基づく遺伝的に受け継がれた資質を測っていて,その資質は民族と関係していること——は誤りであるとの見解に達していたのだ。
 SAT導入からわずか1年後の1927年。米知能テスト界の巨人,ルイス・ターマンは,ボストンで主催した会合で,ブリガムに講演を依頼した。ブリガムはそれを断り,頭の中をいっぱいにしている問題を整理した。IQに関する先験的な業績の大半は,真の信奉者たちがまとめていたが,彼らはまず結論(IQテストは信頼性と妥当性が極めて高く,歴史的に最も偉大な科学的進歩の1つである)の発表から入り,客観性が著しく欠ける雰囲気の中で研究を行なった。ブリガムは1928年,優生学者の会合に出席,以前の考えの撤回を表明した。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.43-44

教育拡大に消極的

IQテスト派の考えは,知能指数の高い人々が能力を無駄にしないよう教育の場を確保することであって,教育改革——特に大学教育——を進めるものではなかった。社会は知力に応じて区分されるべきで,最も優秀な人々が指導者でなければならないと考えた。
 不思議なことに,進歩派,基準設定派,IQテスト派の三派は,さまざまな相違点にもかかわらす1つだけ共通点があった。高校や大学で教育を受ける米国人が今より圧倒的に少ない時代に,いずれも教育拡大を主張していない。IQテスト派は,有能な少数の選抜が最優先の目標。ラーニドやウッドのような基準設定派は,高校や大学は学業に関心も能力もない学生でけしからんほど溢れかえっていると思っていた。リベラルな進歩派でさえ,全米の一部の高校の改革ばかりに関心を注いだ。その高校の大半は富裕層向けの全日制私立学校。生徒は進歩主義教育の恩恵を米国全体に伝えるどころか,さっさとアイビーリーグの大学に進学した。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.34

心理学の死神集団

IQテストの運動は第一次大戦期に大きく前進した。ハーバード大学のロバート・ヤーキズ教授が陸軍を説得し,士官候補生選抜の1つの方法として,さらにはIQ運動が統計記録を積み重ねて証拠を確立するのを助けるため,約200万の新兵にIQテストを実施することを認めさせた。これが史上初めて大規模な知能テストを実施した例である。ヤーキズ,主任助手たち,テスト結果を分析した著作のすべてが,優生学の傾向を強く示した。米国で最も頭の切れる若手政治ライターだったウォルター・リップマンは,当時の支配階級の中で優生学とIQテストに強く反対した珍しい人物で,ヤーキズと同僚を「心理学の死神軍団」と評した。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.33-34

優生学

ゴールトンは「優生学」という言葉を作った。優生学は,知能など人類の属性を改善するのに,品種改良技術を使うことを意味した。優生学者の見解が米知識人のあいだで一般化した時代——大ざっぱに言って1980年から1920年——があった。それは,米国に無制限に多数の移民が流れ込んだ時代でもある。セオドア・ローズベルトやオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアは優生学の動きに関心を抱いた。ホームズはある最高裁判決で,政府による不妊化を支持,「3世代にわたる低能はもうたくさん」と重大な表現をした。あるカーネギー系慈善団体は,ロングアイランドの「優生学記録オフィス」に資金を提供。有力な教育者でテストの先駆者のエドワード・L・ソーンダイクも,優生学を支持している。優生学は,新移民が十分に有能なのを見せつけられて困っているエピスコパシーの一角と,社会科学の一角のあいだで,珍しく生じた小さな接点だった。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.33

大学を出るか出ないか

今日の米国社会はこんなふうに映る。米国全土に太い線が走り,片側には大学を出た人々,反対側には大学を出なかった人々がいる。この線は鮮明になる一方だ。今や,この線のこちらにいるか向こうにいるかは,地域,人種,年齢,宗教,性別,階級といった他の線より強く,所得,態度,政治行動の違いを反映する。自分や子供の人生設計では,大学教育が願望の大きな焦点(最難関大学に進む可能性こそ,まさに心の底からの大志)である。学校で好成績をあげるという1つの狭い資質に対するテストが,成功への道の上にどっかりと横たわっている。この能力を持たない者は,あとで他の才能に恵まれていることを示そうとしても,その機会が大きく減ってしまう。
 大学教育にこのような重荷を負わせたため,さまざまな副作用が発生した。大学や大学院への進学を助ける産業が丸ごと1つ誕生した。教育を受ける機会ということが,米国民の頭から離れなくなった。今ではこれに関する政治学,法学,哲学が存在するが,どれも50年前はなかった。教育を受ける機会の改善は,公職の立候補者の大半が基本公約に掲げている。親が子供に教育の機会を与えようとするのは,根本的に善なのだ。良い教育を受けるのに一生懸命になることは,米国民の人生最初の25年の主要課題である。教育を受ける機会が,猛勉強,期待,陰謀,操作,競争の対象になっている。

ニコラス・レマン 久野温穏(訳) (2001). ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度 知的エリート階級はいかにつくられたか 早川書房 pp.12-13

認知プロセスの格闘

自分たちは重要な存在であるという肥大した感覚だけが,平和主義者のジレンマから逃れたいという人間の願望を,宇宙の大いなる目的に転化してしまう。しかし,その願望は,必ずしも物理的でないこの世の不慮の事態を引き出しているようなものであり,ゆえにいわゆる発明の母,つまり白砂糖やセントラルヒーティングのようなものを発明させるもとになった願望とは別物だ。平和主義者のジレンマも気も狂わんばかりの構造は,現実の抽象的な特徴である。その最も包括的な解決策である視点の互換性も同様で,これはキリスト教の黄金律だけでなく,他の多くの倫理体系にもあった同じような道徳律——「他人にしてもらいたいと思うことをせよ」——のすべての背後にある原理なのである。私たちの認知プロセスは,歴史を通じて,ちょうど論理の法則や幾何学の法則と格闘してきたように,現実のこれらの側面と格闘してきたのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.577

道徳の無言化

心理学者のジョナサン・ハイトは,道徳規範を言葉で説明するのがいかに難しいかを力説し,その現象を「道徳の無言化」(moral dumbfounding)と称している。人はしばしば,ある行為が不道徳だと直感的に判断するが,それではなぜその行為が不道徳なのかを説明しようとすると,答えに詰まって,しばしば最後まで理由を考えつけないのだ。たとえばハイトが実験参加者に,実の姉妹と避妊措置をしたうえで自発的にセックスすること,捨てられていたアメリカ国旗でトイレ掃除をすること,自動車事故で死んだ飼い犬をその家の人たちが食べること,死んだ鶏を買ってきてセックスすること,死の床にある母親に誓った墓参りの約束を破ることが,道徳的に問題ないかどうかを質問したところ,いずれの場合もノーという答えが返ってきた。しかし,なぜそれがいけないのかを質問されると,参加者たちは言葉に詰まって悩み苦しんだすえに,降参してこう答えた。「わかりません。説明はできないんですが,とにかくそれは間違っているとわかります」。
 たとえ言葉では説明できなくとも,道徳規範は往々にして,暴力的な行動への有効なブレーキとなりうる。すでに見てきたように,現代の西洋社会で,捨て子を安楽死させる,侮辱されたことへの報復をする,先進国が別の先進国に宣戦布告するといった,ある種の暴力が回避されている根本的な理由は,道徳を重視しているからでも相手に共感しているからでも衝動を自己制御しているからでもなく,そうした暴力行為が現実的な選択肢としてまったく念頭にないからなのだ。その種の行為は考慮されたすえに避けられているのではない。それは考えられもしない,笑ってしまうほど馬鹿げた行為なのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.452-453

進化の言葉使用の不用意さ

多くの人は,「進化」という言葉を文化的変化(歴史の変遷)と生物学的変化(世代を経ての遺伝子頻度の遷移)の両方の意味に不用意に使う。たしかに文化的な進化と生物的な進化は互いに作用しあうこともある。たとえばヨーロッパやアフリカの部族が乳汁を得るために家畜を飼う習慣を採用したところ,彼らは大人になっても乳糖(ラクトース)を消化できるように遺伝子変化を進化させた。それでも,この2つのプロセスは別物である。原則として,この2つはつねに区別することができる。たとえば,ある社会で生まれた赤ん坊を養子に出して別の社会で育てる実験をしてみればいい。もしどちらかの社会に特有の文化に対応して生物学的進化が起こっていたなら,養子先の社会で成長した子どもは,その社会で生まれた子どもとは平均して何かが違っているはずだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.430

リバタリアン・パターナリズム

現代の時代において自制の欠如と思われるもののほとんどは,国家以前の時代の不確かな世界において祖先の神経系に組み込まれた割引率を,いまでも私たちが使っていることに原因があるのかもしれない。その時代,人間は今よりずっと若くして死に,いまのように貯蓄を運用して数年後にその利潤を得させてくれる機関も持っていなかった。経済学者たちの指摘によれば,人びとに好きなように任せておくと,まるで自分があと数年で死ぬと思っているかのように,退職後に備えての貯蓄をほとんどしないのだそうだ。この事実をもとに,リチャード・セイラーやキャス・サンスティーンといった行動経済学者は「リバタリアン・パターナリズム」を唱えている。これは,現在の私たちの価値と未来の私たちの価値との格差調整を,人びとの同意のもとに政府にやらせようという考え方だ。たとえば最適の退職貯蓄制度を,従業員が加入を表明しなくてはならない選択として用意するのではなく,従業員が脱退を表明しなくてはならないデフォルトとして用意する。あるいは売上税の負担を,最も健康に悪そうな食べ物になすりつけるといった方策である。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.398-399

セルフコントロールの成果

歴史上,最も際立っている暴力減少の1つは,ヨーロッパにおいて中世から現代までのあいだに殺人が30分の1にまで減ったことで,その功績はセルフコントロールにあると見られている。前にも述べたように,ノルベルト・エリアスの「文明化のプロセス」の理論によれば,国家統合と通商の発達は,インセンティブ構造を略奪から脱却させただけにとどまらない。これらは,節度と礼儀正しさを第二の天性にするセルフコントロールの倫理を植えつけたのだ。人びとは夕食の席で刃物を向け合ったり,互いの鼻をそぎ落としあったりするのを控えるようになると同時に,クローゼットで小便するのも,人前で性交するのも,夕食の席で放屁するのも,骨付き肉にしゃぶりついて,しゃぶったあとの骨を盛り皿に戻すのも控えるようになった。かつての名誉の文化では,男たちは侮辱に食ってかかることで尊敬を得ていたが,それも尊厳の文化に変わって,男たちは自分の衝動を制御できることで尊敬を得るようになった。先進国では1960年代,発展途上国では植民地の解放のあとなどに,暴力減少が反転する時期があったが,やはりそのときにはセルフコントロールの価値判断の反転がともなっていて,規律を重んじる老人よりも,衝動的な若者の勢いが勝っていたのだった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.395

利他主義という言葉

この「利他主義」という言葉も,やはり曖昧だ。共感ー利他主義説における「利他主義」とは,別の目的をはたすための手段としてでなくそれ自体を目的として他の生物に利益を供する動機,という心理学的な意味での利他主義だ。これは,進化生物学的な意味での利他主義とは違う。進化生物学の文脈では,利他主義は動機ではなく行動の面から定義される。自らが損失をかぶって他者に利益を供する行動が,進化生物学における利他主義だ。(生物学者は,ある生物が別の生物に利益をもたらせる2つの方法を区別する一助として,その片方にこの言葉を——実際には「利他行動」という言葉で——適用する。もう片方は,双利共生と呼ばれ,こちらはある生物が別の生物に利益を供しながら,それと同時に自らも利益を得ている場合に用いる。たとえば,昆虫が植物に受粉すること,鳥が哺乳類の背中にいるダニを食べること,趣味の似ているルームメイト同士が互いの聞く音楽を楽しむことなどである。)

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.377-378

共感の歴史

「共感(エンパシー)」という言葉はせいぜい100歳だ。元祖はアメリカの心理学者エドワード・ティチェナーだとよく言われるが,彼がこの言葉を使ったのは1909年の講演で,オックスフォード英語辞典にはイギリスの作家ヴァーノン・リーによる1904年の用例が載せられている。どちらも由来はドイツ語のEinfuhlung(感情移入)で,もとは一種の美的鑑賞能力の表現として使われていた。つまり摩天楼を見て,すっくと立った自分自身を想像するように,「心の筋肉で感じたり動いたりする」ことを意味していたのだ。英語の書籍のなかで「empathy(共感)」の使用頻度が急激に上がったのは1940年代で,すぐに「willpower(意志力)」や「self-control(自制)」といったヴィクトリア朝的美徳を追い抜いていった(前者については1961年,後者については1980年代半ばに抜かれている)。
 その急激な広まりと同時に,「エンパシー」という言葉は新たな意味を帯び,「同情(シンパシー)」や「思いやり(コンパッション)」と似たような意味で使われるようになった。この意味の混ざりあいは,ある心理学の俗説にとてもよくあらわれている。すなわち他者への善行は,その他者になったつもりで,その人が感じることを感じ,その人が体験することを体験し,その人の視点に立って,その人の目を通じて世界を見ることに依存する,というものだ。この説は,自明の真理とは言いがたい。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.361-362

心理学の時代だった

20世紀後半は,心理学の時代だった。集団内の優劣順位,ミルグラムやアッシュの実験,認知的不協和といった学術雨的な研究の成果が,どんどん社会通念の一部となった。だが,一般の人々の認識に染み込んでいったのは,科学としての心理学ばかりではない。心理学的なレンズを通して人間の営為を見ることが,もはや一般的な慣習となったのだ。この半世紀のあいだに,人間という種の全体を視野に収めた自意識が育ち,それが文学や社会的流動性やテクノロジーによってさらに強化され,私たちの目はカメラのごとく,自分たち全員のことをスローモーションで追いかけるようになってきた。私たちはますます,自分たちの営為を2つの視点から見るようになっている。1つは,ものごとを自分の経験したそのままに見せる,頭蓋骨のなかの視点から。そしてもう1つは,自分の経験したことは進化した脳内の活動パターンからなっていて,そこには錯覚も欺瞞も含まれるのだとわきまえている科学者の視点から。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.353

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