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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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集団の思考の病理

集団は,思考の病理をいろいろと生むことがある。その1つ目が分極化だ。おおむね同じような考えをもった人々を1つの集団にして,そのなかで徹底的に議論をさせてみると,各人の意見はさらに似てくるようになり,しかもさらに極端になってくる。リベラルな集団はよりリベラルになり,保守的な集団はより保守的になる。2つ目の集団の病理は,鈍化だ。この力を心理学者のアーヴィング・ジャニスは「集団思考(グループシンク)」と呼んでいる。集団はそのリーダーに,彼の聞きたがっていることを言う傾向があり,異議は抑えこまれ,ひそかな疑念は検閲され,固まってきたコンセンサスに矛盾する証拠は取り除かれることになりやすい。そして3つ目が,集団間の敵意である。もし自分が数時間,自分の好まない意見を持つ誰かと1室に閉じ込められたとしたら——と想像してみよう。たとえばあなたはリベラルで,相手は保守派,またはその逆とか,あるいはあなたが親イスラエルで,相手が親パレスチナ,またはその逆,といった具合である。このときに,そこで対話するのがあなたと相手の2人だけだったら,おそらくその対話は礼儀正しく,ほのぼのとしたものにさえなるだろう。しかし,もしあなたの側に6人がいて,相手の側にも6人がいたとしたら,どうなるか。おそらく多くの人が大声でわめき,顔を真っ赤にし,ひょっとしたら小さな暴動さえ起こるかもしれない。要するに問題は,集団というものが各人の思っている自らのアイデンティティを一手に引き受けてしまうということであり,各人の集団内で認められたいという思いと,別集団の考えより自分たちの考えを優勢にしたいという思いとが,各人の分別ある判断を上回ってしまえるということなのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.331
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無害なマゾヒズム

この対抗プロセス説は,それだけではやや未熟で,たとえばこの理屈でいくと,やめたいときにいい気持ちになれるからという理由で,人は自分の頭を叩きつづけるなどという予測がなされてしまう。いうまでもなく経験の種類によって,作用と反作用との引っぱりあいの強さは異なるし,作用がどれだけ弱まり,反作用がどれだけ強まるかの進み具合もちがってくる。したがって一部の嫌悪経験だけが,とくにその経験を克服させてしまうに違いない。心理学者のポール・ロジンは,ある種の獲得嗜好の症候群があることを突き止めて,それを「無害なマゾヒズム」と名づけている。そこで好まれている逆説的な快楽とは,たとえば激辛のチリペッパーや強烈な匂いのチーズや辛口のワインを賞味したり,サウナやスカイダイビングやカーレースやロッククライミングなどの極限的な経験に身を置いたりすることである。これらはすべて大人の嗜好であり,その世界に入ってくる新参者は,苦痛や吐き気や恐怖という最初の反応を乗り越えないと玄人にはいたれない。そしてこれらの嗜好はすべて,ストレス要因の量を少しずつ上げながら,自分を徐々にそれに慣れさせることによって獲得される。これらの嗜好に共通するのは,高い潜在的利得(栄養,薬効,スピード,新しい環境への理解)と高い潜在的危険(毒作用,体調悪化,事故)が一対になっていることだ。これらの嗜好の1つを獲得することの喜びは,現在の限界を押し上げることの喜びである。すなわち,自分が不幸を招かずにどれだけの高さ,辛さ,強烈さ,速さ,遠さにまで到達できるかを,細かく調整した段階を踏んで探求していくことの喜びだ。その究極の利点は,局所的な経験のなかにある有益な領域でありながら,生来的な恐怖や警戒によって初期設定では封鎖されている領域を,開放できることにある。無害なマゾヒズムは,この征服の動機が行き過ぎたものである。そしてソロモンとバウマイスターが指摘するように,嫌悪と克服のプロセスは,最終的に欲求と中毒にいたるまでに行き過ぎることがある。サディズムの場合,潜在的な利益はドミナンスやリベンジや性的アクセスであり,潜在的な危険は被害者や被害者の仲間からの報復だ。サディストはまぎれもなく玄人になる——中世ヨーロッパの拷問具,警察の尋問所,シリアルキラーの隠れ家は,概して恐ろしいほど洗練されている——うえに,ときには中毒にもなりうるのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.327-328

快楽は返し波の中

バウマイスターによれば,サディズムも同じような軌跡をたどる。攻撃者は被害者を傷つけたことへの嫌悪感を経験するが,その不快さはいつまでも続いてはくれず,最終的には攻撃者を安心させ,活気づけるような反対の感情が出てきて,攻撃者の平衡状態をニュートラルに戻す。そして残酷な行為を何度かくり返すうちに,活気を取り戻すプロセスがどんどん強化され,嫌悪感は以前よりも早く消え去っていく。最終的にこれが主体になると,プロセス全体が楽しみのため,高揚感のため,そして強い欲求のために働くようになる。バウマイスターが言うように,快楽は返し波のなかにあるのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.327

子どものケンカと同じ

しかし,まだ謎が残る。リベンジが抑止機能として進化したのなら,なぜそれが現実の世界でこんなにも頻繁に行使されるのか?なぜリベンジは冷戦時の核兵器備蓄のように,恐怖の均衡を生むことによって全員を行儀よくさせるものとして機能しないのか?復讐の連鎖がつねに存在し,報復に次ぐ報復がやまないのは,いったいどういうわけなのか?大きな理由は,モラリゼーションギャップであろう。人は自分が与えた損害を正当化して忘れやすい反面,自分が受けた損害については根拠のない言語道断の行為だと思いがちである。この意識の差によって,対立をエスカレートさせている両者は攻撃の数を違うふうに勘定し,被害の重さについても違うふうに解釈する。心理学者のダニエル・ギルバートに言わせれば,長期にわたって交戦している当事者双方の言い分は,自動車の後部座席でそれぞれの言い分を親にぶちまけている2人の男の子のそれとほとんど変わらない。「こいつのほうが先に僕をぶったんだ!」「こいつのほうが強く僕をぶったんだ!」

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.295

リベンジの機能

リベンジが抑止力として機能できるのは,報復者が報復するであろうことが広く知られていて,なおかつその報復者に,たとえコストがかかろうと必ずや報復を実行する意志がある場合だけだ。そう考えると,なぜリベンジの衝動がこんなにも拭い難く,激烈で,ときには自滅的でさえある(自ら裁きをくだそうと,不実な配偶者や無礼な他人を殺したりする)かの説明がつく。さらにいえば,リベンジが最も有効となるのは,報復者から罰がくだされることを報復されるターゲットが知っていて,それゆえに,報復者となるかもしれない相手へのふるまいを考え直せるときである。だから報復者の切実な願いがかなえられるには,ターゲットが罰せられる対象になっていることを自ら知っていなくてはならない。このような衝動は,司法理論で言うところの特別抑止機能を果たす。つまり犯罪者本人に罰をくだすことによって,犯罪者の再犯を防ごうという考えである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.293

肯定的幻想

なぜ人はそんな妄想にとらわれるのか?肯定的幻想は人を幸せな気分にし,自信を深めさせ,精神的に健康にしてくれる。しかしそれだけでは,なぜこれが存在するのかの説明にはならない。というのも,問題はそれ以前にあるからで,なぜ私たちの脳はそのように設計されているのか——つまり,なぜ私たちは現実に照らして正しく満足の度合いを調整せずに,そんな非現実的な評価だけで幸せになったり自信を深めたりできるのか,という疑問が残るのである。最もそれらしい説明は,肯定的幻想が一種の交渉戦術で,信用の置けるはったりだというものだ。リスキーな投機的事業を支援してもらうために協力者を募るときや,自分にとって最良の取引となるように交渉するとき,あるいは敵を威嚇して退却させるときに,自分の強みをもっともらしく誇張すれば,その人は得をすることになる。このときにシニカルに嘘をつくのではなく,自分のしている誇張を自分で信じていれば,なおさらよい。すでに嘘つきと嘘発見器との軍拡競争で,話の聞き手には白々しい嘘を見破る手段が身についているからだ。誇張が笑ってしまうほど見え透いたものでないかぎり,聞き手はこちらの自己評価を完全に無視するほどの余裕はもてない。なんといっても,自分のことを誰よりもよくわかっているのは自分なのであり,そのうえでの評価をあまり歪めすぎないようにしようとする内在的なインセンティブもある。この抑制がなかったら,つねに最後には大失敗をやらかすことになるからだ。もし誇張する人が誰もいなければ,種にとってはそのほうがいいだろう。しかし私たちの脳は,種の利益のために選択されてはこなかった。自分を大きく見せようとする者ばかりの社会のなかで,唯一の正直者でいられる余裕など誰にもない。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.247-248

暴力の分類

暴力の分類法はいくつもあるが,どれも区別のしかたはたいして変わらない。ここではバウマイスターの4分類法を採用し,なおかつ,そのカテゴリーの1つを2つに分けたいと思う。
 暴力の第1のカテゴリーは,言ってみれば実際的,道具的,搾取的,捕食的なものである。これは最も単純な種類の暴力で,ある目的のための手段として力を行使する。探索系によって設定される食欲や性欲や野心などの目標を追い求めるために暴力が配備され,背外側前頭皮質を格好の象徴とする脳内の知的な部分すべてによって暴力が誘導される。
 暴力の第2の要因は,ドミナンス(支配,優位性)である。ライバルよりも自らが優位に立とうとする衝動的欲求のことだ(バウマイスターは「エゴティズム」と呼んでいる)。この欲求は,テストステロンを燃料とする支配系やオス間攻撃系と結びつくこともある。ただし,この欲求がオスだけのものというわけではなく,さらにいえば,個人に限られたものでもない。このあと見るように,集団同士も優位性をめぐって争いをする。
 暴力の第3の要因は,リベンジ(報復,復讐)である。これは,受けた被害を同じように返そうとする衝動的欲求のことだ。この動因の直接的な主導力となるのは怒り系だが,その目的のために探索系を引き込むこともある。
 暴力の第4の要因は,傷つけることそのものを喜びとする,サディズムである。この奇妙であり,かつ同じくらい恐ろしくもある動機は,私たちの心理,とりわけ探索系のもっているいくつかの奇癖の副産物なのかもしれない。
 そして暴力の第5の要因にして,最も論理的に納得のしやすい原因は,イデオロギーである。あるイデオロギーを心から信じている人びとは,さまざまな動機を一本の教義に織りなし,底に他人を引き込んで,破滅的な目標を遂げさせる。イデオロギーは脳のどこかの領域とも,脳全体とも結びつくことはない。なぜならこれは,多数の人々の脳に広く配布されるからである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.240-241

道徳に従う

誰が正しく,誰が間違っているのかについて,冷静な第三者さえ疑わないような場合でも,心理学の眼鏡をかけて見てみると,悪人はつねに自分の行為を道徳的なものだと思っていることがわかるのだと覚悟しなくてはならない。この眼鏡はかけると痛い。「ヒトラーの視点から見てみよう」という文章を読んでいるときの自分の血圧を測ってみるといい(オサマ・ビン・ラディンでも金正日でもいいが)。しかしヒトラーにも,ほかのあらゆる感覚ある生き物と同じように,もちろん視点があった。そして歴史家が教えるには,それはきわめて道徳家的な視点であったという。ヒトラーは第一次世界大戦時にドイツの突然の予期せぬ敗戦を経験し,これは内部の裏切りがあったためとしか説明できないという結論にいたった。連合国による殺人にも等しい戦後の食糧封鎖と,懲罰的な賠償金請求には,いたく心を傷つけられた。彼はどうにか1920年代の経済混乱と街中の暴力を生き延びた。そしてヒトラーは,理想主義者だった。彼は英雄的な犠牲が千年王国をもたらすという道徳的なビジョンを描いていたのだった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.218

自己奉仕バイアス

自己奉仕バイアスは,私たちが社会的動物であるために支払う進化的代価の一部だ。人間が集まって群れをつくるのは,磁力によって互いに引き寄せられるロボットだからではなく,それぞれの内に社会的な感情や道徳的な感情をもっているからだ。人間は温情や同情や,感謝や信頼や,孤独や罪悪感や,嫉妬や怒りを感じる。それらの感情は,人が社会生活——相互交換と協調活動——において損失を負うことなく,確実に利益を得られるようにしてくれる内面の調節器だ。この場合の損失とはすなわち,嘘つきや社会の寄生者に一方的に利用されるということである。私たちは自分に協力してくれるだろうと思える人に共感を覚え,信頼し,感謝して,お返しに自分もその人に協力する。そして自分をだますのではないかと思われる人に対しては,怒りを感じて仲間外れにし,協力を差し控えたり罰を与えたりする。ある人がどれだけよい人であるかは,協力者としての評判を育むことで得られる尊敬と,こっそり他人をだますことで不正に得る利益とが,秤にかけられた結果である。社会集団は,いわば親切さと信頼のレベルがさまざまに異なる協力者たちで成り立っている市場で,各人は自分が損をしない範囲において最大限に親切で,信頼性の高い協力者であることを宣伝する。その損をしない範囲というのはだいたいにおいて,実際よりも少しだけ親切で,少しだけ信頼性が高いというレベルになるのかもしれない。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.210

菜食主義と人道主義

しかし,菜食主義と人道主義が仲良く調和するどんな制度も,20世紀のナチ支配下での動物の扱いによって,壊滅的に粉砕された。ヒトラーとその腹心たちは,菜食主義者を自称していた。しかしそれは動物への哀れみからというよりも,異常なまでの純潔さの追求からであり,大地とふたたびつながろうとする汎神論的な切望からであり,ユダヤ教の人間中心主義と肉食の儀式に対する反発からであった。人間はここまで道徳観を使い分けられるものなのかと感心するが,ナチは言語道断の人体実験を行っておきながら,その一方で,それまでヨーロッパにあったどんな法よりも厳格な研究動物保護法を制定した。それらの法では,農場や映画のセットなどにおいても動物に人道的な扱いをすることが定められ,レストランでは調理をする前に魚を麻痺させること,ロブスターを即死させることが義務づけられた。動物の権利の歴史にこの奇妙な一章が差し挟まれて以来,菜食主義の唱道者は,自分たちの最も昔からの主張を引っ込めざるを得なくなった。肉食は人を攻撃的にし,肉食の節制は人を平和的にする,という言い分はもはや通用しなくなったのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.156-157

文字どおり受け止めすぎ

また,人間の心は本質主義に傾きやすいので,「人は食べたもので作られる」という決まり文句を,私たちは少しばかり文字通りに受け止めすぎるきらいがある。死んだ肉を人体に取り込むのは,ある種の汚染のように感じられ,動物性が凝縮されたものを摂取するのは,それを食べた人に獣性を染みこませる恐れがあるように感じられるのだ。アイビーリーグの学生でさえ,この幻想にはとらわれやすい。心理学者のポール・ロジンの調べでは,大学生たちのこんな推論傾向が明らかになっている——肉を求めて亀を狩り,剛毛を求めてイノシシを狩る部族は泳ぎが達者で,肉を求めてイノシシを狩り,甲羅を求めて亀を狩る部族はケンカに強い。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.154

醜悪か清浄かの二者択一

人間の心があらゆるものを醜悪か清浄かの度合いで測りたがり,それを道徳的に正当化したがるということは,これまでにあちこちで言及してきた。この尺度の両端で同一視がなされる。一方では,不道徳が不潔さや肉欲や快楽主義や放蕩と同一視され,他方では,美徳が清浄さや貞節や禁欲主義や節制と同一視されるのだ。このような混同は,食物に関する感情にも影響を及ぼす。肉を食べることは汚くて享楽的であり,したがって悪い。一方,野菜だけを食べることは清潔で禁欲的であり,したがって善いのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.153-154

セサミストリートの注意書き

『セサミストリート』の最初期の傑作(1969〜1974年)を収めたDVDボックスが発売されたときには,箱のなかに注意書きが入れられていて,この番組は子どもが視聴するにはふさわしくないと書かれていた!なぜなら番組のなかでは子どもたちがジャングルジムによじのぼったり,ヘルメットなしで三輪車に乗ったり,土管の中をくねくねと這い進んだり,新設な他人からミルクとクッキーを受け取ったりと,さまざまな危険行為を冒しているからだ。番組中の寸劇コーナー「モンスターピース・シアター」などは,徹底的な検閲を受けた。各エピソードの終わりに,英国風のスモーキングジャケットを着てアスコットタイを締めた司会のアリスター・クッキー(クッキーモンスターが演じる)が手に持ったパイプをがつがつと食い尽くしていたのだが,それが喫煙を美化している,窒息の危険性を描いていると見なされたのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.125-126

子育ての前提

子どもはもう安全だと言うには早計だが,かつてよりはるかに生きやすくなっているのは確実である。実際,ある面では,子どもを暴力から守るための努力はその目標を通り越して,聖域やタブーの領域に入りはじめていると言えなくもない。
 そうしたタブーの1つが,心理学者ジュディス・ハリスが言うところの「子育ての前提」である。ロックとルソーは子どもを世話する人間の役割を,子どもを叩いて悪い行いを矯正することから子どもの将来の人格を形成することへと書き換えることで,子育ての概念化に革命を起こす下準備をした。その結果,20世紀末までには,親は子どもを虐待したり放置したりすることによって子どもに害をなすことができるという考えが(これは事実だが)発展して,親は子どもの知性や性格や社会的技能や精神障害をつくりあげることができるという考えができあがった(これは事実ではない)。これのどこがいけないのか?それは,移民の子を考えてみればわかる。彼らは最終的に,自分と同じ社会的立場にある人々のアクセントや価値観や規範を身につけるようになるのであって,自分の親のそれを身につけるのではない。つまり,子どもは家族のなかで社会化されるというよりも,身のまわりの集団のなかで社会化されるのである。子どもを育てるには村が必要なのだ。そして養子に関する研究は,養子の最終的な性格や知能指数が生物学的な兄弟のそれと相関関係をなし,養子先のきょうだいのそれとは相関関係をなさないことを明らかにしている。つまり,成人してからの性格や知性は遺伝子によって形成され,偶然によっても形成されるが(たとえ一卵性双生児のあいだでも相関関係は完璧とはほど遠いので),親によってではなく,少なくとも親が子どもに何をしたかによって形成されるわけではないということだ。これらの反証にもかかわらず,親の育て方が子どもの将来を決めるという「子育ての前提」は専門家の意見に完全な支配を及ぼし,母親たちは24時間ぶっ続けの子育てマシンと化すよう助言されてきた。そして子育てのなかで小さな空白の石版に刺激を与え,社会への適合をさせ,その性格を発達させる責任を負わされてきたのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.122-123

幼い人間の利益

心理的な影響はともかくとして,いじめに反対する道徳的な言い分は鉄板である。漫画のなかでカルヴィンが言ったように,大人になれば,もう理由なく人を叩きのめすことはできない。私たち大人は,法律や警察力や職場規定や社会規範を盾にして自分の身を守る。そうであれば,子どもの視点から見ての生活がどんなものであるかを考えようとしない怠慢さや酷薄さのほかに,子どもが大人より無防備なままにされていい理由は考えつかない。道徳的な観点が広く普及して,その一端として子どもの価値がどんどん高まっていることにより,仲間の暴力から子どもを守るための運動は必然的なものとなった。ほかの侵害行為から子どもを守るための努力にしても同様である。子どもやティーンエイジャーは長いこと,昼食代を盗まれたり,持ち物を壊されたり,性的なお触りをされたりといった,校則と刑法執行の境目にあたる軽犯罪の被害者にされてきた。ここでもまた,そうした幼い人間の利益がますます認められるようになってきている。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.120

子どもの理解の変化

子どもがどのように扱われたかが,どのような大人に成長するかを決定するのだという考えは,今日の一般的な社会通念だが,当時はとても新しい考え方だった。ロックの同時代人,および後継者の何人かは,人生の形成期というものを人々に思い出させるためにメタファーに頼った。ジョン・ミルトンは,「幼少期の人間は1日のうちの朝にたとえられる」と書いた。アレキサンダー・ポープは,この相関関係を因果関係にまで高め,「若枝が曲がれば木もそのように傾く」と書いた。そしてウィリアム・ワーズワースは,幼少期のたとえそのものをひっくり返して,「子どもは大人の父である」と詠った。こうした新しい理解は,人々に子どもの扱いの道徳的な意味,実際的な意味についての再考を求めた。子どもを叩くことはもはや悪魔祓いとは言えなくなり,もとは無作法な行動の頻度を減らすことを目的として設計された,行動修正の手法ですらなくなった。幼少期のしつけでどういう大人に育つかが決まるのだから,そのしつけの結果が,予見されるにせよされないにせよ,未来の文明のあり方を変えることになるのだと考えられた。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.105

体罰の歴史

容赦ない体罰は何世紀ものあいだ,普通に行われていた。ある調査によると,18世紀後半には,アメリカの子どもの100パーセントがステッキや鞭などのさまざまな道具で叩かれていた。そして子どもは法体系によっても罰される責任を有するとされていた。19世紀まで,イギリスの法は「7歳から14歳の子どもに悪意の確たる証拠」がある場合に死刑を認めていたし,死刑の最低年齢が18歳に引き上げられた1908年までは,10代の多くの子どもが放火や押し込みなどの微罪で吊るされつづけていた。20世紀の変わり目になっても,ドイツの子どもたちは「素直でないと,定期的に,猛烈に熱い鉄のストーブの前に座らされたり,寝台の支柱に何日も縛りつけられたり,冷たい水や雪のなかに投げ入れられたりして『強化』され,[また]親が食事や読書をしているあいだ,毎日何時間も強制的に壁に向かって丸太のうえで正座させられていた」。トイレトレーニングのあいだも多くの子どもたちは浣腸で苦しめられ,学校では「皮膚から湯気が出るまで叩かれた」。
 苛酷な扱いはヨーロッパに限ったことではない。子どもを叩くのは古代のエジプトやシュメール,バビロニア,ペルシア,ギリシア,ローマ,中国,メキシコのアステカ族の記録にも残っている。たとえばアステカ族の罰には,「イバラで突き刺したり,子どもの両手を縛って先のとがったアガーベの葉で突いたり,鞭で叩いたり,火にかけたコショウのうえに吊るして刺激臭のある煙を吸い込ませたりすることまで」含まれていた。デモースによれば,20世紀に入ってからでさえ,日本の子どもたちは「日常的な体罰として叩かれたり灸をすえられたり,定期的な浣腸で残酷な腸の訓練をさせられたり……蹴られたり,逆さ吊りにされたり,冷水を浴びせられたり,首を絞められたり,体に針を通されたり,指関節を外されたりしていた」(歴史家であると同時に精神分析学者でもあるデモースは,第二次世界大戦時の残虐行為を説明するための素材をたくさん持っていた)。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.99-100

男性の氾濫

インドや中国のような階層社会ではどうだろう,ホークスによれば,子殺しを行う階層社会では,親がやはり息子を所有するが,娘は所有していない。ただしこの場合は軍事的な理由というよりも,経済的な理由による。上流階級が富を独占している階層社会では,たいてい遺産が息子に受け継がれる。インドではカースト制がさらに市場を歪ませていた。低いカーストの家は法外な額の持参金を払わないかぎり娘を高いカーストの家に嫁がせられないのだ。中国では,親がもうろくするまでずっと自分の息子とその妻からの支援を受ける正当な資格を有するが,娘とその夫に対してはその資格を持たない(そのため「娘はこぼれた水のようなもの」という古来の諺がある)。1978年に導入された中国の一人っ子政策は,老齢になった親の世話を息子にさせようとするその要求をさらに厳しいものにした。これらの事例すべてにおいて,息子は経済的な資産であり,娘は負債である。そして親は,その歪んだインセンティブに最も極端な手段で応じるのだ。今日,子殺しはどちらの国でも違法となっている。中国では,子殺しは性差別的な堕胎(これもまた違法だが)に取って代わられたと考えられているが,実際にはいまだ広く行われている。インドでは,超音波と中絶のクリニックにセットで襲来されているにもかかわらず,あいかわらず子殺しが普通のことと考えられている。これらの慣行を減らそうとする圧力はほぼ間違いなく高まるだろう——たとえその理由が,政府がついに人口の計算を行って,今日の女児殺しが明日の荒れ狂った独身男につながることに気づいたから(その現象については追って詳しく見ていく)というだけだったとしても。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.86-87

子殺しの歴史

人類学者のライラ・ウィリアムソンによる各文化の調査から,子殺しは,あらゆる大陸のあらゆる種類の社会において行われてきたことがわかっている。これは非国家の狩猟採集集団や村落(その77パーセントは容認された子殺し習慣を持っている)に限らず,先進的な文明社会でも起こってきたことだ。近年まで,世界中の赤ん坊の10パーセントから15パーセントは生後すぐに殺され,一部の社会ではその数字が50パーセントにも達していた。歴史研究者のロイド・デモースの言葉を借りれば,「どんな国家も,もとをたどれば子どもを生贄にしていた。どんな宗教も,最初は子どもを切り刻んだり殺したりするところから始まった」のである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.74

将来の予想

私はこれまで予言をすることには慎重を期してきたが,女性への暴力は今後数十年のうちに全世界で減少する可能性が非常に高いと思う。この圧力は,上から下へも,下から上へも,かけられていくだろう。上の部分では,女性への暴力が世界に残っている最も火急の人権問題であるというコンセンサスが国際社会のなかで形成されてきている。女性に対する暴力撤廃の国際デー(11月25日)などの象徴的な取り組みをはじめ,国連やその加盟国のような公職の権威からの無数の宣言もなされている。そうした手段に強制力はないが,奴隷制や捕鯨や海賊行為や私掠船巡航や化学兵器やアパルトヘイトや大気圏内核実験に対する糾弾の歴史が,国際的に辱めを与える運動はいずれ長い年月のうちに効果を生むことを示している。国際女性開発基金の事務局長が言っていたように,「現在では,かつてないほどの国家的な計画や政策や法律が整備されており,政府間領域でも勢いが高まっている」のである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.72

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