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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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視野の狭さ

レイプは決して男性性の正常な一部というわけではないが,男性の欲望が基本的に性的パートナーの選り好みに頓着せず,パートナーの内面にも無関心であるという事実によって可能となっているところはある。もっといえば,男性にとっては「パートナー」という言葉より「対象物」という言葉のほうが適切なぐらいなのである。この性別による性行為の概念の違いは,それぞれの性別が性的攻撃の被害をどう捉えるかの違いに反映される。心理学者のデイヴィッド・バスが行った調査によれば,男性は性的攻撃が女性被害者にとってどれだけショックであるかを過小評価するのに対し,女性は性的攻撃が男性被害者にとってどれだけショックであるかを過大評価する傾向がある。この深い性別格差は,伝統的な法律や道徳律においてレイプ被害者が冷淡に扱われてきた理由の補足説明となる。そうした扱いがなされてきたのは,男性が女性に対して無情に権利を行使してきたから,という以上の理由があるのかもしれない。その背景には,自分たちと異なる心理,つまり,求めてもいない突然のセックスを見知らぬ他人とすることになるのは魅力的どころか不快なことであるという心理を,想像することができない男性の視野の狭さも関わっているかの知れないのだ。したがって,男性が女性と肩を並べて働いている社会,男性が自分たちの利益を正当化しながらも女性の利益を考慮しないではいられない社会とは,そうした愚鈍な無関心さが無傷でいられる可能性が低い社会だということである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.58
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レイプという概念

心理学者のマーゴ・ウィルソンとマーティン・デイリーは,「自分の妻を財産と間違えた男」と題した論文のなかで,世界中の伝統的な法律が女性をその父親や夫の財産として扱っていることを示した。財産法は,財産を無制限で売却したり交換したり処分したりする権利を所有者に与え,もし財産が他者によって盗まれたり傷つけられたりした場合は,その損害を取り返す権利が所有者にあることを認めるよう社会に求めている。この社会契約に女性の利益は反映されていないので,レイプはその女性を所有している公民権を持った男性に対する犯罪となる。レイプという概念は,他人の所有物を傷つける不法行為,または貴重な財産の窃盗と解釈されていた。これは「レイプ(rape)」という言葉そのものにもあらわれている。レイプは「破壊(ravange)」や「強欲(rapacious)」や「強奪(usurp)」と同じ語源を持つのである。したがって,財産を持った身分の高い男性に保護されていない女性はレイプ法の適用範囲外とされていたし,夫による妻のレイプは,自分で自分の財産を盗むようなものなのだから,論理的にありえないとされていた。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.43

ドッジボールの禁止

ドッジボールの禁止は,行き過ぎではあるものの,反暴力キャンペーンがまた1つ成功したことのあらわれだ。子供の虐待とネグレクトを防ぐために1世紀にわたって続けられてきた運動の結果がこれである。攻撃性を文明化した結果,文化にはわけのわからない慣習が遺産としてもたらされ,どうでもいいようなことが過失やタブーとされるようになるものだということが,この一件を見てもよくわかる。これらの権利革命が残してきたもろもろのエチケットコードは,ある名前を獲得するまでに普及した。私たちはそれをポリティカル・コレクトネスと呼んでいる。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 下巻 青土社 pp.16

テロは戦術である

テロはイデオロギーでも政治体制でもなく,戦術にほかならない。だから,「テロとの戦い」に勝つことは決してありえない——ジョージ・W・ブッシュが9・11後の演説で高らかに掲げた「世界から悪を追放する」という,より大きな目標が決して達成しえないのと同様に。グローバルメディアの時代には,テロの投資がもたらす膨大な利益——わずかな暴力の支出によって得られる恐怖の大金——に誘惑される,不満をいだいたイデオローグがつねにどこかに存在するし,約束された仲間同士の友愛と栄誉のためにすべてを危険にさらすこともいとわない兄弟集団が,つねにどこかに存在する。テロが大規模な反乱における戦術として採用されれば,国民や市民生活に計り知れないダメージをもたらし,核兵器テロという仮説としての脅威は「恐怖」という言葉に新たな意味を加えることになるだろう。だがそれ以外の,歴史が教え,近年の出来事が裏づけるあらゆる状況において,テロ行為は自らの破滅の種を蒔いているのである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.624

テロは今世紀の問題ではない

テロが21世紀の現象だと考える人がいたら,記憶力にいささか問題がある。1960〜70年代には政治的暴力の嵐が吹き荒れ,さまざまな軍隊や同盟,連合,旅団,分派,戦線などによる何百回もの爆撃,ハイジャック,狙撃が行われた。当時,アメリカでは黒人解放軍,ユダヤ防衛同盟,ウェザー・アンダーグラウンド(「ウェザーマン」とも呼ばれ,ボブ・ディランの曲の歌詞「風向きを知るのに予報官(ウェザーマン)はいらない」から命名された),プエルトリコ民族解放軍(FALN),シンバイオニーズ解放軍(SLA)などの過激派組織が活動していた。SLAは,70年代に起きた現実離れした事件の1つを起こしたことで知られる。1974年,SLAは新聞王の娘パティ・ハーストを誘拐し,洗脳された末にメンバーとなったパティは「タニヤ」という名を与えられ,銀行強盗にも加担した。7つの頭を持つコブラが描かれたSLAの旗を背に,ベレー帽に機関銃という戦闘姿でポーズをとる彼女の写真は,ニクソン大統領がホワイトハウスを去る際にヘリコプターから別れの挨拶する写真や,白いポリエステルのディスコスーツにドライヤーでセットしたヘアスタイルのビージーズの写真とともに,70年代を象徴する画像の1つとなった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.602-603

ユートピア思考からジェノサイドへ

ユートピア・イデオロギーがジェノサイドを招く理由は2つある。1つは,功利計算が致命的な結果をもたらすことだ。ユートピアとはすべての人が永遠に幸せになれる社会であり,その道徳的価値は無限大である。5人を轢き殺す恐れのある暴走路面電車を,1人の命を犠牲にするだけですむ側線に迂回させることが倫理的に許容されるのかと問われれば,大方の人は首を縦に振るだろう。だが,迂回させることで1億人,10億人,あるいは不確かな未来のことまで考えれば,無数の人を救えるとしたら?この無限の善と引き換えに,何人までなら犠牲にすることが許されるのか?数百万人なら許容範囲だと考えられる可能性はある。
 それだけではない。完璧な世界が約束することについて知りながらも,それに反対する人たちもいる。彼らは,無限の善を実現するための計画の前に立ちはだかる,唯一の邪魔者である。どのくらい悪者か?ちょっと考えればわかるだろう。
 ユートピアがジェノサイドを引き起こす2つ目の理由は,ユートピアとは整然とした青写真に従うべきものだからだ。ユートピアでは,あらゆるものに存在する理由がある。人間の場合を考えてみると,1つの集団は多種多様な人間で構成されている。なかには完璧な世界には合致しない価値観に,断固として——おそらくは本質的な意味で——固執する人もいる。共有所有を基本とする社会で起業家的な考え方に立つ人もいれば,肉体労働を柱とする社会で本ばかり読みたがる人もいる。敬虔であることに価値を置く社会で図々しく生意気であったり,調和を重視する社会で排他的だったり,自然回帰的な社会で都会的で商業主義的であったりする人もいるかもしれない。まっさらな紙に完璧な社会を設計しようというとき,こうした目障りな存在は最初から消してしまった方がいいではないか?

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.571-572

本質主義からジェノサイドへ

ジェノサイドについてのここまでの説明をまとめると,次のようになる。人間の思考のもつ本質主義という習慣によって,人を分類するというカテゴリー化が行われ,あるカテゴリーの総体に対して道徳的感情が振り向けられる。この組み合わせによって,ホッブズの言う個人または軍隊同士の争いが,民族のような集団間の争いへと変化する。だがジェノサイドには,もう1つの決定的な要因がある。ソルジェニーツィンが指摘するように,数百万人単位で人を殺害するには,イデオロギーが必要だ。個人を道徳的カテゴリーに埋もれさせるユートピア主義の信念は,強力な政治体制に根を下ろし,その破壊的な力を最大限に発揮する可能性がある。このため,ジェノサイド死者数分布に異常なほどの外れ値を生じさせるのは,イデオロギーの力にほかならない。対立を生むイデオロギーの例には,十字軍や宗教戦争(さらに,副産物としては中国での太平天国の乱)におけるキリスト教,フランス革命のポリティサイドにおける革命的ロマン主義,オスマントルコとバルカン半島のジェノサイドにおけるナショナリズム,ホロコーストにおけるナチズム,スターリン政権下の旧ソ連,毛沢東政権下の中国やポル・ポト政権下のカンボジアでの粛清,追放,大飢饉におけるマルクス主義などがあげられる。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.571

カテゴリー化の問題点

ではカテゴリー化の何が問題なのか?それは,往々にして統計という範囲を超えてしまうことにある。第1に,人はプレッシャーがかかったり,何かに気を取られたり,感情的になったりすると,カテゴリー化が大づかみなものであることを忘れ,まるでステレオタイプがすべての男女,子どもに例外なくあてはまるかのように行動してしまうことがある。また,人は自身の属するカテゴリーを道徳的に解釈しようとする傾向があり,同類には称賛に値する特性を,敵には非難すべき特性をあてがう。たとえば第二次世界大戦中,アメリカ人はドイツ人よりソ連人の国民性のほうが望ましいと考えていたが,冷戦期になると,その考えは180度逆転した。第3に,人は集団を本質的なものと見なす傾向がある。出生後すぐに親と別れた赤ん坊は,養父母と生物学上の親のどちらの言葉を話すようになると思うかを尋ねる実験がある。子どもの被験者は,生物学上の親の言葉を話すようになると考える傾向が強いが,成長するにつれ,特定の民族や宗教の集団に属する人びとは,生物学的本質に準ずるものを共有すると考えるようになる。それによって他の集団とは明確に区別できる,同質で変わることのない,予測のつく存在になるのだ,と。
 人をカテゴリーの一例とみなす認知習慣は,人と人とが衝突する場面では実に危険である。ホッブズの言う3つの暴力の誘引——利益,恐怖,抑止——が,個人間のケンカの原因から民族紛争の理由に変わってしまうのだ。ジェノサイドはこの3つの誘引に,さらに2つの“毒素”が加わって引き起こされることが歴史的研究によって明らかになっているが,これについては後述する。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.563

ステレオタイプ化

人は他者を,その帰属や慣習,外見,信念などにしたがって心理的に分類する。このように対象を型にはめ,ステレオタイプ化することは,精神的欠陥の1つだと考えたくなるところだが,カテゴリー化は知性にとってなくてはならないものだ。カテゴリーに分類することで,観察されるいくつかの資質から,観察されない多くの資質を推論することが可能になる。たとえば,ある果物を色と形からラズベリーだと分類すれば,それを甘くて空腹を満たしてくれ,毒ではないということが推論できる。政治的公正さに敏感な人は,人間の集団にも果物と同様に共通の特徴があるという考えに怒りを覚えるかもしれない。だが,もし共通の特徴がなければ,称賛すべき文化的多様性も,誇るべき民族的資質も存在しないことになってしまう。集団が結束し,まとまるのは,たとえ統計的にであれ同じ特性を共有しているからだ。したがって,カテゴリーにもとづいて人間について一般化する心理は,その事実によって欠陥だということはできない。今日,アメリカ系アフリカ人のほうが白人よりも生活保護を受けることが多く,ユダヤ人のほうがアングロサクソン系白人新教徒(WASP)より平均所得が高く,ビジネス専攻の学生のほうが芸術専攻の学生より政治的に保守的——あくまで平均的にだが——なのは事実なのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.562-563

統治機構の特質

勝者がすべての利益を独占するような統治が行われている国で,石油や金,ダイヤモンド,戦略的鉱物などの偶発利益を生む資源を政府が統制すると,内戦の起こりやすさは倍増する。こうした資源は恩恵どころかいわゆる資源の呪い,あるいは豊かさの矛盾,愚か者の金などと呼ばれるものを生み出す。再生不能で独占されやすい資源が豊富な国は,経済成長が遅々として進まず,政府は無能で,暴力が多発する傾向にある。ベネズエラの政治家ファン・ペレス・アルフォンソがいみじくも言ったように,「石油は悪魔の排泄物」なのである。こうした資源が国によっては呪いになりかねないのは,政府高官,時には地域軍閥など,それを独占する者の手に権力と富を集中させるからだ。指導者は金のなる木を独占するためにライバルを蹴落とすことに躍起となり,社会全体を潤して相互義務で結ぶような商業ネットワークを促進する動機も意欲もない。コリアーは経済学者ダンビサ・モヨや他の政治評論家とともに,これに関連するパラドクスに注意を換気している。善意の有名人が大好きな海外援助もまた,第二の呪いになりかねない。援助をしても,持続可能な経済インフラの構築に役立つどころか,窓口となる指導者の富と権力を増すだけだからだ。さらに,コカイン,アヘン,ダイヤモンドなどの高価な禁制品は,冷酷な政治家や軍閥に不法な飛び地や流通経路を確保する隙を与えるので,第三の呪いになる。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.541-542

地下資源と平和

また,貴重な地下資源があるからといって富や平和を享受できるわけではない。アフリカには,金,石油,ダイヤモンド,その他の戦略的金属をふんだんに保有しているにもかかわらず,戦争で荒廃した貧しい国々が少なくない一方,ベルギーやシンガポール,香港のように,これといった天然資源はなくても豊かで平和な国もある。とすれば富を生み,平和も生み出すような第3の変数——おそらくは洗練された産業社会の規範とスキル——があるにちがいない。仮に世相の原因が貧困にあるとしても,それはわずかな資源をめぐって争うからではなく,少々の富があれば得られる最も重要なもの,つまり国内の治安を維持する有能な警察や軍隊が存在しないからだ。経済が発展すれば,その成果の大部分はゲリラではなく政府へ流れる。発展途上世界のなかで急成長している国々が比較的,平穏な理由の1つはそこにある。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.535

嫌悪感

ヒトの心は,生物的因子による汚染から身を守る手段を進化させてきた——それが嫌悪という感情だ。通常,体からの分泌物や,動物の身体の一部,寄生虫,病原体を媒介する動物などが引き金となって人は嫌悪感を覚え,汚染源となる物質やそれに似たもの,それと接触したものをすべて排除せずにいられなくなる。嫌悪感は道徳的な解釈が容易であり,一方の極に精神性や清廉,貞節,浄化,他方の極に獣性,戯れ,肉欲,汚染を置く連続体として既定される。こうして人は,嫌悪すべきものを物質的に不快なだけでなく,道徳的に卑しむべきものと見なすのだ。人を裏切る危険人物の隠喩には,英語では病原体の媒介動物——ネズミ,シラミ,虫けら,ゴキブリ——を用いることが多い。1990年代に強制退去やジェノサイドを表すのに使われた悪名高い言葉が,「民族浄化」である。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.568-569

大量破壊兵器

化学兵器のタブーと核兵器のタブーの類似性は十分に明らかだ。今日,この2種類の兵器は,核兵器のほうが比較にならないほど破壊的なのにもかかわらず,「大量破壊兵器」としてひとまとめにされている。一緒にすることで,2つのタブーが互いに強化されるからだ。2つの兵器はともに,健康を損なうことで緩慢な死を引き起こすことと,戦場と市民生活との境界がなくなることを特徴としており,それが恐怖をいっそう増幅するのだ。
 化学兵器に関して世界が経験してきたことは,少なくとも核時代の空恐ろしい基準からすれば,多少なりとも希望のもてる教訓を提示している。必ずしもすべての致死的な技術が軍のツールキットに恒久的に収まるわけではないこと,瓶から出てきた魔物のなかには,中に戻せるものもいること,道徳的感情が国際規範として確立され,戦争遂行に影響を与える場合もあること。さらにそれらの規範は,たまに生じる例外には揺るがない堅固さをもちうるし,そのような例外は必ずしも制御不能な戦争拡大を誘発するわけではない。この点は,とりわけ希望のもてる発見ではあるのだが,あまり多くの人が気づかないほうが世界にとってはいいのかもしれない。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.487-488

この理由を説明できない

最後にもう1つ,核による平和説では,実際に起きた戦争では,非核武装国が核武装国を挑発した(あるいは,核武装国に譲歩しなかった)ケースが多々ある理由を説明できない。これこそまさに,核の脅威で抑止されるはずの対立ではないか。北朝鮮,北ベトナム,イラン,イラク,パナマ,ユーゴスラビアはいずれもアメリカに公然と逆らい,アフガニスタンやチェチェンの反政府武装勢力はソ連に逆らった。エジプトはイギリスとフランスに,エジプトとシリアはイスラエルに,ベトナムは中国に,そしてアルゼンチンはイギリスに反旗を翻した。さらにいえば,ソ連がヨーロッパに支配体制を築いたのも,アメリカが核兵器を保有し,ソ連は持っていなかった時期(1945〜49年)なのだ。核を持つ優位国を挑発した国は,自殺行為に走ったわけではない。存在そのものの危機にさらされないかぎり,核攻撃という暗黙の脅迫はこけおどしでしかないということを,正しく予想していたのだ。アルゼンチン政府がフォークランド諸島への侵攻を命じたのは,イギリスが報復としてブエノスアイレスを放射能で焼きつくすことはないという絶対的な確信があってのことだった。同様にイスラエルも,1967年(第三次中東戦争)に続き1973年(第四次中東戦争)にも,エジプト政府はもとよりエジプト軍に対しても,確かな脅威を与えることはできなかった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.476-477

見通しによって抑制される

一方,超大国自身はなぜ互いに戦争するのを避けたのかについては,ミューラーがもっと単純な説明をしている。超大国は通常戦争が起きる見通しによって,戦争を回避したというのである。第二次世界大戦で明らかになったのは,何千万という人間を殺し,都市を瓦礫の山にする能力のある戦車や大砲,爆撃機は,工場で大量生産できるということだった。この点はとりわけソ連において明白だった。第二次大戦で最大の損害を被ったのはこの国だったのだ。核戦争でもたらされる想像を絶する損害と,通常戦争でもたらされる,想像はつくがやはり甚大な被害とのほんのわずかな差が,超大国が戦争を思いとどまったおもな要因だとは考えにくい。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.476

「核の平和」は幻想

そうならないことを願おう。もし「長い平和」が核による平和であるなら,それは愚か者の楽園だ。なぜならアクシデントや通信ミス,あるいは血に飢えた空軍将官の手によって,この世の終末が始まってしまう可能性があるからだ。けれどもありがたいことに,よく調べてみると,核による人類全滅の脅威は「長い平和」に大して貢献していないことがわかってくる。
 理由の1つは,大量破壊兵器が戦争に向かう動きに歯止めをかけたことは,かつて1度もなかったということだ。ノーベル平和賞の創設者は1860年代に,自らが発明したダイナマイトについてこう書いている。「千回の世界会議よりも早く平和をもたらす。一瞬のうちに全軍が完全に破壊されうるとわかれば,人間の黄金の平和を持続させるにちがいないからだ」。同様の予測は,潜水艦,大砲,無煙火薬,機関銃についてもなされてきた。1930年代には,航空機から投下される毒ガスが,文明と人類に終焉をもたらすのではないかとの不安が広がったが,この恐怖も戦争を終結させるには遠く及ばなかった。ルアードが言うように,「歴史をふり返ってみれば,極度に破壊的な兵器が存在するだけで戦争を抑止できるという証拠はほとんどない。細菌兵器や毒ガス,神経ガス,その他の化学兵器が開発されたことが1939年の戦争勃発を抑止できなかったとすれば,いま,核兵器にそれができるといえる理由は容易に見当たらない」のである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.474

消えた名誉

ナショナリズムや征服と並んで,第二次大戦後の数十年間に消えていったもう1つの理想,それは名誉だ。ルアードは控え目な調子でこう書いている。「おそらく今日では一般に,人間の命にはかつてより高い価値が置かれ,国の威信(あるいは『名誉』)に置かれる価値は低くなっている」。冷戦が最も深刻な時期にソ連の指導者だったニキータ・フルシチョフは,この新しい意識を次のように表現した。「私は仮面舞踏会で屁をこいたら自害しなきゃならんような帝政時代の役人ではない。戦争をするより引き下がったほうがましだ」。少なからぬ国の指導者がこれに同意し,かつての時代なら戦争に走ったであろうような挑発を受けても,引き下がって武器を収めるようになっている。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.462

大戦争を防ぐべき

2つの世界大戦による死者は,130年間に起きたすべての戦争の死者の77パーセントを占めるというのは,驚くべき発見である。戦争は,べき分布によく見られる80:20の法則にさえしたがわず,80:2の法則にしたがう——死者のうち約80パーセントが,たった2パーセントの戦争で命を落としているのだ。この著しく偏った比率が教えているのは,世界が戦争による死をなくそうとするなら,まず大戦争を防ぐべきということである。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.399

戦争のプロセス

戦争がなぜべき分布になるのか,その理由は正確にはわからなくても,べき分布の特徴(スケールフリーとファットテール)が意味するのは,戦争には規模に関係のない,なんらかの根源的プロセスが存在するということである。もともとの規模の大小にかかわらず,武装した連合体はつねに少しだけ大きくなり,戦争はつねに少しだけ長くなり,損失はつねに少しだけ増大する可能性があるのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.397

戦争被害はべき分布

このようにべき分布では,規模をグンと大きくしても頻度は急には下がらず,ゆるやかに減る。言いかえれば,極地が出現する確率はきわめて低いが,天文学的な低さではない。この違いは重要だ。身長6メートルの人に出会う可能性は天文学的確率であり,ないと命を賭けて言ってもいい。けれども人口2000万人の都市や,20年間連続のベストセラーが出現する可能性はきわめて小さくはあるが,それが現実になると想像することは十分できる。戦争の場合,それが何を意味するかは改めて指摘するまでもないだろう。1億人の犠牲者を出す戦争が起きる可能性はきわめてまれだし,10億人となればさらに可能性は低い。しかしこの核兵器の時代には,身の毛もよだつような想像と,べき分布の数学は同じ結論を指している——その可能性は決して天文学的に低いわけではないのだと。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.389

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