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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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べき分布に注目する理由

科学者がべき分布に興味をもつ理由は2つある。第1に,なんの共通性もないと思われる事象の測定結果に,べき分布が頻繁にあらわれるということだ。最も初期に発見されたべき分布の1つは,1930年代に言語学者G.K.ジップが作成した,英語の語の使用頻度に関するグラフである。大きなコーパス(言語資料)を使って語の使用回数を調べると,10余りの語がきわめて頻繁に(1パーセント以上,つまり100語に1語以上の頻度で)使用されている。the(7パーセント),be(4パーセント),of(4パーセント),and(3パーセント),a(2パーセント)などがこれにあたる。次に約3000語(confidence, junior, afraidなど)が中程度の頻度で(1万語に1回程度)使われ,1万語(embitter, memorialize, titularなど)が100万語に1回使用される。そして100万語に1回をはるかに下回る頻度で使われる語が数十万語ある(kankedort, apotropaic, deliquensceなど)。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.386
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確率は視点の問題

確率とは視点の問題だ。十分近いところまでズームインすれば,個々の事象には決定的要因がある。コイン投げでさえ,初期条件や物理法則によって結果が予測できるし,熟練したマジシャンならその法則を利用して毎回,表を出すこともできる。だが多くの事象が視野に入るようにズームアウトすると,膨大な数の要因が時に相殺し,ときに同一方向に向かった結果を見ることになる。物理学者で哲学者のアンリ・ポワンカレの説明によれば,私たちが決定論的な世界に偶然の作用を見るのは,ささいな原因がたくさん積み重なって重大な結果をもたらすが,誰も気づかない小さな原因が誰の目にも明らかな重大な結果をもたらすか,いずれかの場合だという。組織的暴力を例にとれば,まず戦争をしたい人間がいて,その人間は好機がくるのを待つ。好機はやってくることもあれば,こないこともある。敵の側が交戦を決断することもあれば,撤退を決断することもある。弾丸が飛び,爆弾が破裂する。人が死ぬ……。これらの事象は個別に見れば,神経科学や物理学や生理学の法則で決まるかもしれない。だが総体としてみると,そこに関わる多数の原因がシャッフルされて,時として極端な組み合わせを生むことがある。20世紀前半,世界はあらゆるイデオロギー的・政治的・社会的潮流によって危機にさらされたうえに,一連の極度の悪運にも見舞われたのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.379-380

ランダムに始まりランダムに終わる

では,もし戦争がランダムに始まりランダムに終わるのなら,その歴史的傾向を追求することは無意味なのだろうか。そんなことはない。ポワソン過程における「ランダムネス」は,連続的な事象のあいだにはなんら関係は存在しないことを示している。事象発生器はサイコロと同様,記憶をもたないのだ。だがこれは,大きな時間の流れのなかで,確率はつねに一定であることを意味するわけではない。軍神マースの気が変わって,1のぞろ目が出たときではなく,サイコロの目の合計が3や6,あるいは7になったときに戦争を起こすようにするかもしれない。だが長い年月の間にこうした確率の変化があったとしても,ランダムであることに変わりはない——すなわち,ある戦争の勃発が,ほかの戦争の勃発する可能性を高くしたり,低くしたりはしないという事実は変わらないのだ。そのように確率の変化するポワソン過程を,非定常的ポワソン過程と呼ぶ。したがって,戦争の起きる確率が一定の歴史的な時間をへて減少するという可能性はあるのだ。それは,変数が減少する非定常的ポワソン過程で生じる。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.375

戦争はポワソン分布

戦争がポワソン的傾向をもつことは,錯覚上のクラスターに星座を見出そうとする物語としての歴史観を揺るがし,人類の歴史に壮大なパターンや周期や弁証法を読み取ろうとする仮設を混乱させる。凄惨な戦争があったからといって,世界が戦争にうんざりして平和な休息期間が訪れるわけではないけれど,好戦的な2つの国が咳をすると,たちまち伝染病のように戦争が地球全体に広がるというわけでもない。また,平和が長く続くと戦争への欲望が増大し,やがて突然,激しく爆発するということもない。軍神マースはただひたすらサイコロを振り続けるだけなのだ。ほかにもリチャードソンと同時代またはその後に,戦争のデータについての研究が6つほど行われたが,結論はすべて同じだった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.374

次の雷の確率

たとえばあなたの住んでいる場所では,1年中いつでも落雷の可能性があるとしよう。落雷はランダムにどの日でも同じ確率で発生し,その頻度は1ヵ月に1度の割合だとする。さて月曜日の今日,あなたの家に雷が落ちた。次に落雷がある可能性が最も高いのはいつだろうか?
 答えは「明日」の火曜日である。たしかに確率はさほど高くはない。およそ0.03(月に1回)だ。では次の落雷が明後日の水曜日になる確率はどうだろうか。そうなるためには2つの条件が必要だ。まず水曜日に雷が落ちることで,確率は0.03。もう1つは前日の火曜日に雷が落ちないこと——さもないと「次」は水曜日ではなく火曜になってしまう。この確率の計算式は,火曜日に雷が落ちない確率(0.97つまり1マイナス0.03)×水曜日に雷が落ちる確率(0.03)となり,計算結果は0.0291で火曜日に落ちる可能性より少し低くなる。では木曜日ならどうだろうか。それには火曜にも水曜にも雷は落ちず,木曜に落ちることが必要だ。すると0.97×0.97×0.03で,確率は0.0282となる。金曜日はどうか。0.97×0.97×0.97×0.03で0.274。このように1日進むごとに,確率は下がっていく。「次に落雷がある日」になるには,それまで雷の落ちない日がずっと続く必要があり,日数が多くなるほど,その可能性は低くなるからだ。厳密な言い方をすれば,確率は指数関数的に低下する。次の落雷が今日から30日後に起きる確率は,0.97の29乗×0.03で,1パーセントをほんの少し上回るだけだ。
 だが,これを正しく理解している人はほとんどいない。私はインターネットで100人にこれとおなじ質問を——「次に」の文字を見落とさないように,わざわざイタリック体にして——してみた。結果は,「どの日も確率は変わらない」と答えた人が67人だった。これは直観的には正しいように見えるが,誤っている。もし次に落雷がある日になる確率がどの日でも同じなら,1000年後でも1ヵ月後でも変わらないということになる。つまり落雷がない日が1000年続く可能性と,1ヵ月続く可能性が同じということになってしまう。残りの回答者のうち19人は,最も確率が高いのは1ヵ月後と答えた。「明日」と正しく推測できたのは,100人中たった5人だった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.368-369

20世紀の暴力という神話

またこのリストを見ると,19世紀は平和だったが,20世紀には組織的暴力が飛躍的にエスカレートしたという,これまでの一般通念が誤りであることがわかる。第1に,それが成り立つには,19世紀初頭に甚大な被害を出したナポレオン戦争を除外しなければならない。第2に,ナポレオン戦争後に一時的な平和が続いたのはヨーロッパだけの話であり,ほかの地域に目を向ければ,いたるところでヘモクリズムがあった。中国の太平天国の乱(おそらく史上最悪の内戦である宗教的反乱),アフリカの奴隷貿易,アジア・アフリカ・南太平洋における帝国主義戦争,そしてリスト入りしていない2つの大虐殺——アメリカの南北戦争(死者65万人),1816年から1827年にかけて100万から200万人の死者を出したズールー王国のヒトラー,シャカ王によるアフリカ南部征服など。まだ忘れている大陸があるだろうか。そう,南米大陸だ。南米大陸でも数多くの戦争が起こったが,なかでも死者40万人を出し,パラグアイの人口の60パーセント以上が失われた三国同盟戦争は,比率からいえば近代における最も破壊的な戦争である。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.360

ハンの人生の快楽

モンゴル帝国初代皇帝チンギス・ハンにとって,人生の快楽とは次のようなものだった。「男にとって最大の歓びは,敵を征服し駆逐することだ。彼らの馬に乗り,財産を奪い,彼らの愛する者が涙を流すのを見ること,彼らの妻や娘を抱くことだ」。それがただの大言壮語ではなかったことを,現代の遺伝学は証明している。今日,かつてのモンゴル帝国の版図に住む男性の8パーセントは,チンギス・ハンの時代にまで遡る同一のY染色体をもっており,このことは,それらの男性がチンギス・ハンやその息子たち,そして彼らに抱かれた多数の女性たちの子孫であることを示している可能性が高い。これに勝る手柄をあげるのはかなりむずかしそうだが,モンゴル帝国の再興を試みたテュルク人のティムール(別称タメルラン)は健闘している。ティムールは西アジアの都市を征服するたびに何万人もの捕虜を殺害し,記念として頭蓋骨で尖塔を立てた。あるシリア人は,1500個の頭蓋骨でできた塔を28も目撃したという。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.359-360

アイデアの伝播

十分な時間とそれを広める人があれば,アイデアの市場はただ単にアイデアを広めるだけでなく,その構成を変えることもできる。大きな価値のあることをゼロから考え出せる人というのはまずいない。ニュートン(謙虚とはほど遠かった)は1675年,ライバルの科学者のロバート・フックに宛てた手紙でこう書いた。「私が遠くまで見ることができたのは,巨人の肩の上に乗ったからだ」。人間の頭脳は,複雑なアイデアをひとつの塊にまとめたり,別のアイデアと組み合わせてもっと複雑な集合にしたり,その集合をもさらに大きな装置へとまとめて,それをさらに別のアイデアと組み合わせたり……ということは得意なのだ。だがそれをするには,途切れなくプラグインや部分組立品が供給されることが必要であり,それは他の頭脳とのネットワークなしにはありえない。
 地球規模のキャンパスは,単にアイデアの複雑性を増すだけでなく,その質を高めもする。周囲から遮断され,閉ざされた状態では,異様なアイデアや有毒なアイデアは腐敗する可能性がある。それには日光に当てて殺菌消毒するのが一番だ。他の頭脳による批判的な光線を浴びせかければ,悪しきアイデアを少なくともしおれさせ,枯れさせることができるかもしれない。文芸共和国においては,当然ながら迷信や教義(ドグマ),伝説などの寿命は短くなり,犯罪のコントロールや国家の運営についてのまずいアイデアも短命に終わる。生きた人間に火をつけて,その燃え方で有罪かどうかを確かめるのは愚かな方法だし,悪魔と交わり,その悪魔を猫に変えたとして女性を処刑するのも同じように馬鹿げている。そして,自分が世襲による絶対君主でないかぎり,世襲による絶対君主制が最高の国家体制だと信じる人はまずいないだろう。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.328-329

理性の時代と啓蒙の時代

平和主義もまた,一国の内部では軍国主義勢力に対してきわめて脆弱だ。ある国が戦争に巻き込まれたり,戦争突入の瀬戸際にあるとき,国の指導者はとかく平和主義者を臆病者や裏切り者と同一視しがちである。再洗礼派(アナパプティスト)をはじめ,平和主義を掲げた宗派が迫害された例は歴史を通じて枚挙にいとまがない。
 反戦感情が勢いを増すためには,同時に多くの有権者の間に伝播しなければならない。また,反戦的な考え方が単に個人の道徳的な決意や努力に左右されないためには,政治・経済制度に基づくものでなければならない。平和主義が高潔ではあっても実効性をもたない感情から,実行可能な課題をもつ運動へと進化したのは,理性の時代と啓蒙主義の時代においてだった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.302-303

債務奴隷

奴隷制と近い関係にあるのが債務奴隷である。聖書の時代や古代以降,借りた金を返済できなかった者は奴隷にされたり,投獄されたり,処刑されたりしてきた。「厳格な」「苛酷な」という意味の形容詞 draconian の語源は古代ギリシアの立法官ドラコンだが,ドラコンは紀元前621年に債務返済不能になった者を奴隷とする法を制定した人物だ。『ヴェニスの商人』で,借金を期日までに返せなかったアントニオがシャイロックに肉を切り取られそうになるのもこの債務奴隷と関連する。16世紀には債務不履行に陥っても奴隷にされたり処刑されることはなくなったが,債務者監獄は大勢の人であふれていた。無一文であるにもかかわらず食べ物は有料の場合もあり,債務者たちは監獄の窓から通行人に物乞いをして何とか生き延びるしかなかった。19世紀初頭のアメリカでも,女性を含む何千人もの人びとが債務者監獄で悲惨な生活を送っていたが,その半数の借金は10ドルにも満たなかった。1830年代になると,債務奴隷に反対する改革運動が起こり,奴隷制廃止運動がそうだったように人びとの理性と感情の両方に訴えた。議会の委員会では,「たとえどんな場合であれ,債権者に債務者の身体を支配する権力を与えること」は正義の原則に反するとの見解が出された。委員会はこうも表明している。「もしあらゆる弾圧の犠牲者が,その破滅的運命に関わった妻や子,友人たちとともに1つの集合体としてわれわれの目の前にあらわれたとしたら,それは全人類が恐怖で身震いするほどの光景となるだろう」。債務奴隷は1820年から40年の間にほとんどすべての南北アメリカの国家で,1860年から70年の間にほとんどのヨーロッパの国家で廃止された。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.290-291

奴隷貿易

アフリカの奴隷貿易の残酷さは,人類史のなかでも際立っている。16世紀から19世紀にかけて,少なくとも150万人のアフリカ人が大西洋を航海する奴隷船で死亡した。奴隷たちは鎖でつながれ,息が詰まるような悪臭と汚物の充満する船倉に押し込められていた。ある記録によれば,「港に着くまで生き延びた者は言語を絶するほどの悲惨な姿を呈していた」という。さらにジャングルや砂漠を歩いて沿岸部や中東の奴隷市場に連れて行かれるまでの間にも,何百万人もの奴隷が死亡した。奴隷業者はさながら氷の売買のように奴隷を扱い,輸送の途中で商品の一部が失われることは織り込み済みだった。奴隷貿易では少なくとも1700万人,最大で5600万人ものアフリカ人が死亡したと考えられる。奴隷貿易は輸送中に奴隷の命を奪っただけでなく,途切れることなく奴隷を供給することによって,奴隷所有者が奴隷を死ぬまで酷使し,足りなくなれば新しい奴隷を補充できるようにした。たとえ比較的良好な健康状態を保つことができた場合でも,奴隷たちは鞭打たれての労働やレイプ,四肢切断,家族との離別,簡易死刑などの恐怖に怯えながら生活しなければならなかった。
 奴隷所有者が奴隷に対して個人的に親密な感情を抱くようになり,自らの意志で奴隷を解放することも少なくなかった。また中世ヨーロッパのように,奴隷制が農奴制や小作制度へと移行する場合もあった。奴隷を拘束状態に置いておくより税金を課した方が安上がりだったり,弱小の国家では奴隷所有者の財産権を行使できなかったりしたからだ。だが制度としての奴隷制に反対する大衆運動が起きたのは18世紀になってからであり,その後奴隷制は急速にほぼ消滅に近い状態へと追いやられた。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.286-287

死刑に対して

今日,死刑は人権侵害であるという見方は広く定着している。2007年,国連総会は死刑の執行停止を求める議決(法的拘束力はもたない)を賛成105,反対54,棄権29で採択した。1994年,1999年にも同様の決議案が出されたが採択にはいたらなかった。決議に反対した国の1つは合衆国である。他のほとんどの暴力の形態と同様,合衆国は西側先進国のなかで「異常値」的な位置を占めている(もっとも全50州のうち北部を中心とする17州では死刑は廃止され——うち2州では過去2年以内に廃止——,18州は過去45年間死刑が執行されていない)。だが悪名高いアメリカの死刑でさえ,現実的というより象徴的な意味合いが強い。図4−4に示されたように,合衆国の人口に対する死刑執行数の比率は植民地時代以降大幅に減っており,西洋社会全体で他の多くの制度化された暴力が減少した時期にあたる17世紀から18世紀にかけて,最も急激に減っているのだ。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.282-283

拷問から収監へ

16世紀末までに,イングランドとオランダでは軽微な犯罪の罰として,拷問や四肢切断に代わって刑務所への収監が行われるようになった。だが,状況はさほど大きく改善されたわけではない。囚人は自分の食べ物や服,藁を自分で買わねばならず,もし本人にも家族にも払う能力がなければそれらは支給されない。また金を出さないと,内側にトゲの付いた鉄の首輪や,足を床に固定する鉄の棒を外してもらえないという慣行もあった。ネズミなどの害獣や害虫,暑さと寒さ,排泄物,腐った食べ物……これらは単に獄中生活を悲惨なものにしただけでなく,疫病を蔓延させ,刑務所を事実上の死の収容所にした。ろくに食べ物を与えられていない囚人たちが,起きている時間のほとんどを木のやすりがけや石割り,踏み車を踏むなどの労働を強制される刑務所も少なくなかった。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.275-276

文明化

オランダの社会学者カス・ヴァウタースは晩年のノルベルト・エリアスとの対話からヒントを得て,現代は文明化のプロセスの新段階にあると示唆している。これは,前述した長期にわたる脱形式化のプロセスのことであり,最終的にはエリアスの言う「感情のコントロールをコントロールされたかたちで解除すること」,ボウタースの言う第3の天性へといたるものだ。人間の第一の天性が自然状態で生きる上での進化した動機から成り,第2の天性は文明化社会に根づいた習慣から成るとすれば,第3の天性はそうした習慣に対する意識的な内省——つまり,文化規範のどの側面が守る価値があり,どの側面がもはや無用であるかを見きわめる作業だといえよう。何世紀も前,私たちの祖先は自分たちを「文明化」するために,自然さや個性を示すものをすべて押さえ込もうとしたのかもしれない。だが非暴力の規範が定着した現在,もはや時代遅れとなった抑制もある。この考えでいけば,女性が肌を露出したり,男性が公の場で口汚い言葉を発することは文化的退廃の兆候ではない。それは,いまの社会が十分文明化されていて,そんなことで嫌がらせを受けたり,相手に攻撃される心配がないことのあらわれなのだ。作家のロバート・ハワードはこう書いた。「文明化された男性は野蛮人より無礼である。なぜなら彼らは,不作法な態度をとっても頭を割られる心配はないとわかっているからだ」。ひょっとすると,ナイフでグリーンピースをフォークに載せてもいい時代が到来したのかもしれない。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.243-244

お手上げ

最終的には,1990年代の犯罪率低下を理解するためには,規範の変化——これは,その30年前の犯罪率の上昇を説明するのにも有効だった——に注目しなければらないということだ。警察改革がアメリカ,とりわけニューヨークの暴力犯罪の急減に寄与したことはほぼ間違いないとはいえ,刑務所や警察をアメリカのように増強したわけではないカナダや西ヨーロッパでも,犯罪は(度合いこそ異なるが)減少した。頭の固い犯罪統計学者のなかにも,お手上げ状態となり,犯罪減少の主要な理由は数量化が困難な文化的・心理学的変化にあるとの結論に至った者もある。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.237

刑務所収容の副作用

大量の犯罪者を刑務所に収容することには——たとえ暴力犯罪の減少に役立ったとしても——それ自体が引き起こす問題がある。最も暴力的な人たちが収監されてしまえば,さらに多くの犯罪者を刑務所に入れることは急速に収穫逓減のポイントに到達する。あとから収監される犯罪者の危険度はしだいに低くなり,そういう人たちが刑務所に入っても,犯罪率はさほど大きく低減しなくなるからだ。また人間は通常,年を取るにつれて暴力性が低くなるので,ある時点を越えて犯罪者を収監しつづけることは,犯罪率の減少にはほとんど寄与しない。これらの理由から,収監率には最適な数値というものがある。だがアメリカの刑事司法制度がそれを見つけ出す可能性は低い。なぜなら選挙政治によって,厳罰化の流れは将来にわたってずっと続くからだ。判事が指名ではなく選挙で選ばれる地区ではなおさらである。候補者が刑務所送りになる人を減らし,刑期を減らすことを主張しようものなら,たちまち対立陣営から「犯罪に甘い」候補者というネガティブキャンペーンをテレビで流され,当選できない。その結果,合衆国の刑務所には本来収容すべき数をはるかに超えた人数が収監され,アフリカ系アメリカ人社会には,多数の男性が奪われるという過度の損害がもたらされている。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.234

文明化のプロセス

では最近の犯罪率低下は,どう説明できるのだろうか?多くの社会科学者が説明を試みているが,せいぜいそれには複数の原因があるという結論にとどまっている。しかもあまりにも多くのことが同時に起きたため,それらが具体的に何なのかは誰も明確にしていない。しかし私は2つの包括的な説明が可能だと考えている。第1に,リヴァイアサンがより大きく,賢明で効率的になったこと。第2に,1960年代のカウンターカルチャーが逆転させようとした文明化のプロセスが,ふたたび前向きに進みはじめたことだ。それどころか,文明化のプロセスは新しい段階に入ったように見える。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.231

その説を信じている人は多い

1990年代の暴力犯罪の減少は,暴力研究における奇妙な仮説の1つが生まれるきっかけをつくった。本書の執筆中,暴力の歴史的減少についての本を書いているという話をすると,何人もの人から,そのことはすでに説明がついていると指摘された。彼らによれば,暴力事件の発生件数が減ったのは,1973年にアメリカ最高裁が下した「ロー対ウェイド」裁判の判決によって妊娠中絶が合法化されたからだという。これにより,望まない妊娠をした女性や母親としての適性を欠く女性が中絶するようになったため,成長して犯罪を犯すような子どもが生まれずにすむようになったというのだ。2001年に経済学者のジョン・ドノヒューとスティーブン・レヴィットがこの仮説を提唱した時の私の反応は,あまりに話ができすぎているというものだった。見過ごされていた単一の事象が大きな社会動向を説明するという仮説が降ってわいたように出てきて,その当時は一定のデータによって裏づけられたとしても,そうした仮説はほぼ確実に間違っている。だがレヴィットは,ジャーナリストのスティーブン・ダブナーとの共著『フリーコノミクス』(邦訳『ヤバい経済学』)のなかでこの説を紹介し,同書がベストセラーになったおかげで,いまやかなりのアメリカ人が,1990年代に犯罪率が低下したのは,1970年代に犯罪者になることを運命づけられた胎児が中絶されたからだと信じている。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.228

失業より格差

数ある経済尺度のなかで,一般に犯罪と関係の深いのは失業より格差である。だが所得分配の不平等さの指標であるジニ係数は,犯罪率が低下した1990年から2000年までの間に上昇しており,犯罪が急増していた1968年には,反対に最低の数字を記録している。暴力犯罪の発生件数の変化を経済格差で説明することの問題は,それが異なる州や国の間での比較には有効である一方,1つの州や国のなかでの時間的変化には適合しないことだ。おそらく国や統治や文化のもつ固定的な特性にあり,それが格差と暴力の両方に影響を与えるのだと考えられる(たとえば貧富の差の大きい社会では,貧困地区に警察の保護が行き渡らないため,暴力事件の巣窟となる可能性があるなど)。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.227

そもそも正しくない

犯罪の動向の説明に使われるもう1つの有力な要因——経済——も,この場合にはほとんど役に立たない。たしかにアメリカの失業率は1990年代に下がったが,カナダでは逆に上がっており,それでも暴力犯罪の発生件数はカナダでも減少しているからだ。フランスとドイツでも失業率が上がったのに暴力犯罪が減少したが,アイルランドとイギリスでは失業率が下がったのにもかかわらず暴力犯罪が上昇した。これは,一見して思うほど驚くことではない。犯罪学者のあいだでは,失業率と暴力犯罪のあいだには明確な相関関係は存在しないことは長く知られている(失業率と窃盗犯罪にはなんらかの相関関係がある)。それどころか,2008年の世界金融危機から3年間,大恐慌以来最悪の景気後退が起きたときも,アメリカの殺人発生率は14パーセント減少したのだ。これを受けて犯罪学者のデイヴィッド・ケネディは,取材に応えてこう述べている。「誰の頭にも刷り込まれている考え——経済が悪くなれば,犯罪率が上がる——は間違っている。そもそもそれが正しかったことなどないのだ」。

スティーブン・ピンカー 幾島幸子・塩原通緒(訳) (2015). 暴力の人類史 上巻 青土社 pp.226-227

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