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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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HOWとWHAT

文系・理工系の違いだけではない。理工系のカルチャーも,千差万別である。数物(数学・物理)系と生物系はまったく違うし,数物系でも工学系と理学系,実験系と理論系の間にはかなりの違いがある。
 まず工学系の研究者(エンジニア)の特徴は,短期的視点で仕事をすることである。彼らは,自分が現役である間には解決されそうもない研究テーマには手を出さない。具体的に言えば,長くても5年先のことしか考えない。
 ある東大工学部教授は,“一流エンジニアは,与えられた問題を如何にうまく解くか,つまりHOWだけを考えればいい。君のようにWHATを考えるエンジニアは二流だ”と言い放って,ヒラノ助教授に衝撃を与えた。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.47
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必要以上に厳しい

トムソン・ロイター社が,2013年に“日本の経済学者は,アメリカの経済学者に比べて論文数が少ない”というレポートを発表したとき,東大経済学部長を務めていた国友直人教授は,“日本の大学には,ほとんど論文を書かない教授が大勢いる”とコメントしている。実際,エンジニアのように論文を量産するのは,アメリカ帰りを中心とする一部の人だけのようである。
 なぜ彼らは論文を書かないのか。それは,経済学者は他人が書いた論文に対して“必要以上に”厳しい審査を行うため,論文の投稿を諦めてしまう研究者が多いからではなかろうか。
 1年かけて書いた論文を酷評された時のショックは,大学入試に失敗した時のショックに匹敵する。3回続けて拒絶査定を受けると,3浪したような気分になるらしい。3浪すると4回目にトライする気になれなくても不思議はない。
 彼らが論文を書かないもう1つの理由は,(日本には)レフェリー付きジャーナルが少ないことである。工学系の分野には,A級からC級までさまざまなジャーナルがあるが,経済系の論文は,ひとたび拒絶査定を受けると行き場がないので,“霊安室”送りになってしまうのである。
 どの分野でも審査は厳しいものだが,ヒラノ教授が知る範囲では,経済学者の厳しさは突出している。厳しい審査を受けた研究者は,審査員になった時に厳しい審査をする傾向がある。この結果,厳しい審査は自己増殖していくのである。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.44-45

売れない本を書いても

後に“工学部ヒラノ教授シリーズ”などの一般書を書いたヒラノ教授は,一流出版社の場合は,一般書についても編集者による厳格な審査があることを知った。しかしその審査基準の中で最も大きなウェイトを占めるのは,論文の場合と違って,内容よりも“売り上げ”である。内容が優れていても,売れそうもない本は出してもらえないのである。
 江藤淳教授(東工大)が,専門書を(自費)出版する哲学者を,“売れない本を書いても意味がない”と切り捨てたことを知ったヒラノ教授は,文系の研究者とはそういうものかと深く心に刻んだ。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.43

論文数

数で競争するカルチャーは,“質は量についてくる”という工学部の言い伝えを反映したものである。作家の場合と同様,たくさん書く人の論文の中には,質がいいものが含まれているのである。
 1990年代はじめに有力国立大学を定年退職した某教授は,数百人の後輩が集まった最終講義の際に,それまでに発表した500編に及ぶ論文数を時系列的に表すグラフを指し示しながら,“論文の数で競争するのはバカげたことです。しかし,それをバカげていると言えるためには,たくさん書かなくてはならないのです”と発言して,後輩たちを卒倒させた。つまり“論文数が少ない諸君は,発言する資格がない”ということである。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.27-28

宝探し

学生時代のヒラノ青年は,研究者として成功するためには,才能が70パーセント,努力が20パーセント,運が10%だと思っていた。しかし年齢を重ねるに従って,運が占める割合が増大し,現役生活を終えた今では,才能が30%,努力が30%,そして運が40%だと思うようになった。友人の中には,90%は運だと言う人もいる。
 “研究”はギャンブルである。ギャンブルではイメージが悪いというなら,宝探しと言いかえよう。どこに埋まっているとも知れない宝石を掘り出す仕事,それが研究である。

今野 浩 (2013). ヒラノ教授の論文必勝法:教科書が教えてくれない裏事情 中央公論新社 pp.20

時間ではなく結果

仕事とは,時間ではなく結果です。
 最終的にどれだけの業績をあげたのかが問題であって,それに費やした時間はすくないに越したことはありません。深夜までだらだら残業する社員より,集中して仕事を片付けて定時に帰る社員の方が優秀です。
 ところが経営者や上司の多くは,定時に帰る社員を評価しません。ひとりで先に帰ろうとすれば,同僚たちも白い目をむけてきます。

福澤徹三 (2013). もうブラック企業しか入れない:会社に殺されないための発想 幻冬舎 pp.82-83

勝手に送っていいんですか

講師をしていた頃,授業の際にこうした話をすると,
 「手紙とか封筒とか勝手に送っていいんですか」
 そんな質問が何人かの学生からかえってきました。
 わたしは即座に,勝手に手紙や返信用の封筒を送ってはいけない,と応募要領に書いてあるのかと学生に訊きました。勝手に送ってきたから不採用というなら,そんな融通のきかない会社に入らないほうがいいと答えました。
 こういう学生たちは常識に縛られている典型です。まずなにかをやってみようではなく,なにをしたらいけないかという発想になるのは,学校教育の弊害だと思います。

福澤徹三 (2013). もうブラック企業しか入れない:会社に殺されないための発想 幻冬舎 pp.62-63

なんでもやれば

仕事に決まったルールはありません。ほんとうに入りたいと思う会社なら,たとえ求人していなくても,社長に直接手紙をだすなり,行きつけの店を調べて顔見知りになるなり,考えられることはなんでもやればいい。
 そこまでするのは面倒だとか,怒られたらどうしようとか,行動をためらうのは,その会社に入りたい気持もその程度だということです。
 履歴書ひとつとっても,ただ郵送するだけの学生がほとんどです。これから書類選考をしてもらうのに,なぜ手紙のひとつもつけないのでしょう。
 先方は役所ではなく,自分がこれから働こうとしている会社です。ただ履歴書を送りつけるのではなく,ひとことくらい添えるのが社会人としてのマナーです。
 ちょっとした便せんに,はじめましてのあいさつと,お手数をおかけしますがよろしくお願いしますと書くだけで人事担当者の印象が変わります。なぜ変わるかといえば,そのくらいのことさえ誰もやらないからです。

福澤徹三 (2013). もうブラック企業しか入れない:会社に殺されないための発想 幻冬舎 pp.61-62

まずは正社員

ブラック企業を恐れるあまり疑心暗鬼になって,就職をためらう若者も大勢います。
 ただ会社は人間の集まりだけに相性があります。難関をくぐり抜けて一流企業に入っても,上司や同僚と性格があわなくて退職するケースはすくなくありません。
 新卒での就職は一度きりのチャンスですから悩むのは当然ですが,特に目的もないのに無職のまま卒業してしまうのはもったいない。いったん就職してから会社を辞めようと,何年かフリーターですごそうと,新卒でないというハンデがつくのはおなじです。
 正社員を経験できるだけでも,ひとまず就職したほうが得です。そのまま腰を落ちつけられたらいうことはないし,仕事になじめなかったとしても,社会経験を積んだことで,ほんとうにやりたいことが見えてくるかもしれません。

福澤徹三 (2013). もうブラック企業しか入れない:会社に殺されないための発想 幻冬舎 pp.48-49

様々な要素

ここでいったん整理しておくと,年功序列と終身雇用制度の崩壊,市場のグローバル化にともなう成果主義の台頭,商品やサービスのコモディティ化,会社を私物化する経営者とそれにともなう富の寡占化,長引く就職市場の低迷がブラック企業を生み出しているといえます。
 さまざまな要素がからみあっているだけに,会社の責任だけを追求しても問題は解決しません。厳密な意味でのブラック企業は,労働法に抵触する行為が常態化している会社ですが,そこまでいかなくても社員は十分に苦しんでいます。
 低賃金の長時間労働で,昇進昇給もないのに結果だけ求められる。
 何年働いても転職できるようなスキルは身につかず,なんの成長も実感できない。
 すなわちワーキングプアの状態で,そうした日々が果てしなく続きます。ストレスと疲労は癒やされぬまま蓄積し,将来への不安が重くのしかかってきます。
 そのせいで体調を崩して深刻な病気にかかってしまうことも珍しくありませんが,ブラック企業で休職を申しでるのは,辞めるのとおなじです。なんのかんのと理由をつけて自己都合で退職させられます。といって無理を続ければ,過労死が待っています。

福澤徹三 (2013). もうブラック企業しか入れない:会社に殺されないための発想 幻冬舎 pp.34-35

フラット型とピラミッド型

フラット型というと,いかにも平等のようで聞こえがいい。社員の声がじかに届くとか,みんなと一緒に汗を流すとか,経営者もきれいごとをいいます。しかしフラットなのは末端だけで社長は雲の上ですから,正確には中間のないピラミッドです。
 中間のないピラミッドは物理的には存在し得ないのに,組織としては実在する。たとえるなら経営者が神で,末端が人間でしょうか。そうした会社では神のひと声で大勢の人間たちが動くわけですが,神が判断を誤ったら経営は大きく傾きます。ましてや神が行方をくらまそうものなら,一巻の終わりです。
 ピラミッドはたちまち崩壊し,社員は路頭に迷います。ピラミッドを建てなおそうにも,中間がないだけに作業は極めて困難です。神を失った社員たちは,旧約聖書の出エジプト記さながら,格差社会の荒野をさまようしかないのです。

福澤徹三 (2013). もうブラック企業しか入れない:会社に殺されないための発想 幻冬舎 pp.16-17

別の山に登る

動物の知性や心の獲得過程は永い物語であろう。しかし,その物語に登場する知性に至る山は1つではなく,地球という星の中には別の山があった。人知れずその別の山を登っていたのがイカだったのではないだろうか。違う山を登るだけあり,彼らの姿形は本家の霊長類とはずいぶん異なる。しかし,そのなせる業はどこか似ている。大きな脳を基板に学習し,記憶し,ときに仲間と社会をつくり,それらをもとに生き延びる。彼らはまた別の知的世界をつくり出しているとはいえないだろうか。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.312

別の見方

永い生物学的歴史で考えた場合,知性がより洗練され,突出していったのは,魚類,爬虫類,両生類,鳥類,哺乳類の出現という脊椎動物の歴史に呼応し,霊長類の真猿類から類人猿に至る流れの中にこそ読み取ることができる。そして,その一連の道程を通じてぼくたちヒトの心が獲得された。これが知性や心についての大枠でのとらえ方かもしれない。そもそも,脊椎動物と無脊椎動物という家系の相違からしてその歩みは異なったもので,霊長類以外の面々,とりわけ無脊椎動物の一群に「霊長類」ということばを称号的に与えることなどナンセンスである。「海の霊長類」への違和感にはこのような見方が根ざしている。なるほど,これは首肯できる見方ではある。
 しかし,別の見方も可能ではないだろうか。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.309-310

マークテスト

ここで1つ説明しておかねばならない。チンパンジーやオランウータンなどの類人猿では,おでこなどにつけられた染料を実験個体が鏡を見つつ手でさわればマークテストに合格,つまりは鏡像自己認識があると判断される。しかし,考えてみれば,これはヒトと体制が似ている動物だからこそできる所作だ。というのも,たとえばハンドウイルカには手がない。仮に,彼らは自分の体にマークがつけられていることを鏡により「発見」しても,マークにさわることはできない。そもそもさわる手を持っていないからだ。この場合は,マークをつけられたイルカが,マークがついていないときよりもより長く鏡を見ていたとか,マークを見るために体の向きを鏡の前で変えたとか,そういうことをマークテストの合格の判定に用いる。つまり,個々の動物の行動特性に合った判定の仕方をするのである。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.238

鏡のインパクト

隔離飼育したアオリイカは,鏡を水槽の中に入れるとすぐにそれに気付いたが,やがて鏡の前で鏡面と自身の体を平行にして定位した。アオリイカは,その体側にわたる鰭をひらひらと動かすことで1つの場所にとどまることができる。ホバーリングと呼ばれる行動だ。体を鏡面に平行にして,じっと水中の同じ箇所にとどまり続けている。つまり,このイカは鏡の前で固まってしまったのだ。英語でいうところの“フリーズ”である。
 ここで,体を鏡面に対して平行にするということは,鏡面に向いている片方の目で鏡面に映る自分自身を見ることができるということである。実際に,このイカは,じっと同じ姿勢を保持して片方の目で盗み見るようにして自身の鏡像を見続けていたのである。なんだか,張りつめたような空気が流れている気がした。こんな行動をこのイカが示すのは初めてのことで,隔離期間中も集団飼育の個体と特段に変わることなく,狭いとはいっても水槽の中をごく普通に泳いでいた。明らかに,長い隔離期間のあとに鏡を見たことにより引き起こされた特異な行動である。
 鏡を示した翌日に,いつものように餌をやろうとして隔離水槽の蓋を開けたぼくは一瞬息をのんだ。件の隔離個体のイカは水槽底に横たわり死亡していたのだ。隔離期間を通じてこのイカが衰弱していたわけではない。毎日,ごく普通に餌を食べ,鏡提示当日もいつも通り餌を食べ,遊泳していた。つまり,この個体はきわめて正常であったのだ。死亡個体をすぐさま解剖してみると,成熟したオスであり,胃の中に大量の海水が入り込み大きく膨れていたことを除いて,特段の所見はなかった。隔離個体のフリーズとその死は,衝撃的な結果であった。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.226

真相は

繰り返し,繰り返し鏡面に近づいてさわる行動。それは,アオリイカが鏡に映る自身の像の動きとそれを見ている自分自身の動きとを何度も何度も照らし合わせて確認する自己指向性行動の現れともとらえることができるように思う。仮にそうであれば,それはアオリイカが鏡像を自分だと認識していることを強く示唆するものとなる。さて,真相はどうであろうか。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.222

イカのなかでも

改めて考えると,鏡像自己認識を探るというのは,イカが自分と他者とを見わけることができているのかと問いかけでもある。なぜそのような問いかけをするかといえば,イカが自分をわかっているかもしれないというそれ自体の興味に加え,もしもイカが自分のことを認識できているならば,それは彼らがもつ社会(あるいは,もつかもしれない社会)について何かしら物語ると考えられるからだ。つまり,自己を認識し他者を認識できるという能力は,複雑で発達した社会をつくる上での強力な土台となり,それ自体が彼らの社会のもつ特性のいくつかを雄弁に語ることができる,イカの社会を知る重要な手がかりになる,と考えられるからだ。
 この考え方にしたがえば,鏡像認識をもつと想定されるのは社会性が発達しているイカにおいてだ。それは,鏡像自己認識と社会性とに強い相互関係を想定していることからすれば自明のことでもある。この点からすれば,先に登場したヨーロッパコウイカが属するコウイカ目の仲間は,単独で底生性,まれにごくわずかの個体で群れをつくることがあるということから「半社会性」と区分されているので,鏡像自己認識を調べる対象としてはあまりふさわしくはない。むしろ,ここでは「社会性」と区別されるイカをこそ対象とすべきである。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.214

社会性と大きな脳から

ここで,この仮説をもう一度よく考えてみる。同種に属する他者とうまくやり合う,自分に都合がよくなるように交渉する,ときには相手を操作する,ということを行うためには,そもそも他者と自分とを厳然と区別できていなければならないだろう。「己を知らずして何事かなさん」である。ということは,「自分という存在」をわかっていることが前提となる。自分を自分であると認識する能力。つまりは自己認識である。
 こういった考えから,自己認識という能力は「発達した社会性」とそれを可能にする身体的な基盤の「大きな脳」という2つの要素がベースになる,と考えることができる。なるほど,ハンドウイルカもこういった2つの要素をもっている。ここで,鏡像自己認識が確認された6種の動物を改めて眺めてみると,いずれも大きな脳を持っており,その内容は個々に違うものの6種の動物とも発達した社会性をもっている。
 さて,本書の主人公のイカである。鏡像自己認識が確認された動物たちは互いにずいぶん異なるとはいえ,全員が脊椎動物というグループに属している。対して,イカは無脊椎動物。そこには越えがたい厳然とした出自の違いがある。しかし,よく考えてみてもらいたい。その脳の大きさにおいて,あるいは,その社会性の発達度合いにおいて,そして,その賢さにおいて,イカはさっと素通りされるような連中であったろうか。彼らは,無脊椎動物では例外的ともいえる「巨大脳」をもち,そのことを反映するかのように群れという集団にのいて,あるいは繁殖や摂餌といった場面において「発達した社会性」をうかがわせてくれた。つまり,鏡像自己認識の前提となる2つの要素をそのうちに備えているただならぬ連中なのである。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.205-206

ゾウの鏡像自己認識

エモリー大学のフランス・ドゥ・ヴァールらは,アジアゾウでマークテストを行い,実験個体がこのテストにパスしたことを報告した。ゾウでも鏡像自己認識が認められたのである。ゾウというと,体が大きくてなんとなく温和でのんびりしたイメージであるが,実は彼らの記憶と学習に関する能力は高く,ゾウは知性的な動物として動物行動学者には認識されている。そういう意味では,ゾウの鏡像自己認識はあり得る結果であった。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.203

鏡像自己認識できるのか

哺乳類という意味では,ハンドウイルカはチンパンジーやオランウータンとも同じ仲間といえる。しかし,もう少し分類を細かくみれば,イルカと類人猿はずいぶんと違っている。ハンドウイルカは鯨類という分類群に属している。鯨類,つまりクジラの仲間である。クジラというと,あの潮を噴く大きなクジラを即座に思い浮かべるかもしれないが,実際にはイルカもクジラであり,クジラは歯があるハクジラと,歯がなくて髭でプランクトンを漉して食べるヒゲクジラの仲間に二分できる。イルカはハクジラの仲間で,体のサイズでわけると小型鯨類ということになる。いずれにしても,類人猿とは分類も系統も大きく異なるものである。そもそも,イルカは海という,類人猿から見ればまったくの別世界に暮らしている。そのイルカが,鏡に映る自分を自分だと認識できるというのだ。
 このことは何を意味するのか。鏡像自己認識という能力は,一部の類人猿だけがもつ特殊な能力ではなく,分類群を越えていろいろな動物に認めることができる能力,ということを意味しているのだ。実際に,ハンドウイルカに続きほかの動物でも鏡像自己認識が報告されるようになってきた。

池田 譲 (2011). イカの心を探る:知の世界に生きる海の霊長類 NHK出版 pp.202-203

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