忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

デビルフィッシュ

タコは自分の目そのものを隠そうとすることもある。体色をコントロールする神経の大部分は目のまわりの皮膚に集中しているから,悪くない戦法だ。ウッズホール海洋生物研究所のロジャー・ハンロンによれば,目のカモフラージュだけに500万個の色素胞を使える。目の周辺に黒い横筋を入れて,目の形をぼやかすこともできる。目の上の皮膚を動かして,小さな角を生やし,目だとわからないようにすることも可能だ。体の色を燃えるような真紅に変えられるうえに,こんな変装をしていては“デビルフィッシュ”という異名をとったのも不思議ではない。

キャサリン・ハーモン・カレッジ 高瀬素子(訳) (2014). タコの才能:いちばん賢い無脊椎動物 太田出版 pp.99
PR

タコの皮膚

液晶ディスプレイといった先端技術の恩恵を受けなくても,タコの皮膚には生まれながらに何百万個もの色素胞という高解像度ディスプレイが取り付けられている。色素胞は色素の入った小さな袋だ。脳からの指令に基づいて周囲の筋肉を伸縮させ,袋を伸ばしたり縮めたりして色を表現する。そのあたりの仕組みは液晶ディスプレイと大差ない。こうした無数の色素胞の作用が組み合わさって,タコの全身の色合いや柄が決まる。これまでの研究で,タコが偏光にも反応できることがわかっている。人間は特殊な眼鏡をかけないと感知できないタイプの振動方向の光だが,海洋生物の多くははっきり見える。
 タコの皮膚にはほかにも体色変化に関わる細胞がある。光を選択的に反射してメタリックな輝きを放つ虹色素胞と,すべての光を散乱してしまうので白く見える白色素胞だ。どちらも色素胞の一種だが色素を持たず,光の反射や散乱で色を作り出している。さらに,こうした細胞の下には筋肉が細かく張りめぐらされ,力をゆるめたり入れたりすることで,立体的な質感をこしらえている。

キャサリン・ハーモン・カレッジ 高瀬素子(訳) (2014). タコの才能:いちばん賢い無脊椎動物 太田出版 pp.96-97

最大のタコ

最大のタコの記録としてたしかなものは,生きているミズダコの例で,体重が70キロほどもあった。2002年にはニュージーランド沖の海底から,“7本腕のタコ”の死骸が引き揚げられている(カンテンダコのことだが,オスの交接腕はたいてい袋に入っていて見えないので,そう呼ばれている)。死骸であるうえに,無傷のままでもなかったが,体重は60キロ,外套膜から腕の先まで広げると,2.9メートルもあった。

キャサリン・ハーモン・カレッジ 高瀬素子(訳) (2014). タコの才能:いちばん賢い無脊椎動物 太田出版 pp.83

青い血

中学校の生物の教科書か,教室の壁に貼られていた色鮮やかな人体解剖図をちょっと思い浮かべてほしい。人間の循環器系の正面図と背面図が両方載っているものだ。赤い動脈は酸素をたっぷり含んだ血液を全身に運び,青い静脈は酸素を使い果たした血液をまた心臓や肺に戻して補充する役目を果たしている。そのため,手の甲にある青く浮き出た静脈を切っても,大気中の酸素に触れたとたんに,血は真っ赤になる。
 タコがからんでくると,もっと話は複雑だ。タコの血は酸素を含んでいる場合は青く,酸素が欠乏してくるとだんだん色味が薄れて透き通ってくる。人間の血が赤いのは(ほかの動物をはじめ,ほかの哺乳類でも)鉄分を含んでいるからだ。酸素を運ぶのに役立つヘモグロビンの生成には,血液中の鉄分が欠かせない。ところが,高知のように酸素濃度が低いところでは,このシステムでは効率が悪い。カブトガニやほかの軟体動物をはじめ,海底で生活するタコのような生物は,血液中の酸素運搬物質としてまったくちがう手段を利用することで,低酸素問題を解決している。鉄ではなく銅を含むタンパク質,ヘモシアニンだ。
 だが,ウッズホール海洋生物研究所の研究主幹ロジャー・ハンロンに言わせれば,ヘモシアニンを採用して“ろくでもない青い血”になったせいで,タコは海の酸性化に弱くなってしまった。タコの場合,酸素運搬能力はpH値に対して過敏に反応する。つまり,少しでもpH値が低下して酸性に傾くと,血中のヘモシアニンの酸素運搬能力は大幅にダウンしてしまうのだ。pH値が低いと,タコは十分な酸素を末端の組織まで行き渡らせることができず,酸欠死することになる。魚のようにヘモグロビンを利用している動物と比べると,タコや頭足類はこうした変化にうまく対処できないのだそうだ。気候変動で海の酸性化に直面している現在,それはかなり致命的な欠点となりかねない。

キャサリン・ハーモン・カレッジ 高瀬素子(訳) (2014). タコの才能:いちばん賢い無脊椎動物 太田出版 pp.78-79

たこつぼ心筋症

いくつもの心臓を持った生物だからか,タコは人間の心臓病の名前にまで借り出されている。“タコつぼ心筋症”という一過性の病気で,心臓の左心室が肥大し,タコつぼに似た形になるところからそう呼ばれている。欧米では“傷心症候群”という名称のほうが一般的だろう。タコが失恋するかどうかは知る由もないけれど。

キャサリン・ハーモン・カレッジ 高瀬素子(訳) (2014). タコの才能:いちばん賢い無脊椎動物 太田出版 pp.78

日本の場合

日本では,1960年から1980年にかけてタコの漁獲量がピーク時の半分にまで落ち込んだ。そこで,国を挙げて長期的なプロジェクトを立ち上げ,タコの産卵エリアを改善して個体数を増やそうとした。毎年,1万2000から1万7000個のタコ壺や岩を海に沈めて,タコの隠れ家や産卵場所を増やし,おかげでタコにとってはるかに住みやすい環境になった。

キャサリン・ハーモン・カレッジ 高瀬素子(訳) (2014). タコの才能:いちばん賢い無脊椎動物 太田出版 pp.45

タコの生存確率

生息域が広範囲に及ぶのは,効率の悪い繁殖方法のおかげだ。一般的に,タコのメスは小さな卵を何千個も産む。孵化しても,いばらくは泳ぐ力も弱くて潮の流れに身をまかせるしかなく,ほかのプランクトンの群れといっしょに海面近くを浮遊して過ごす。タコの稚仔の大半は魚の餌食になるか,過酷な環境に適応できず,海の藻屑と消えてしまう。それでも少数ながら,運良く生き延びて海底にたどり着く稚仔もいて,そこで成長して何千もの自分の子孫を世に送り出すようになる。
 遺伝子情報の解読が進めば,孵化したばかりの微粒子サイズの頭足類の浮遊範囲もくわしく調べられるようになるだろう。だが,いまのところタコの生息域はまだはっきり解明されていない。スペインで出会った若手の漁業生物学者ハイメ・オテロによれば,個体数のサンプリングのためにタコの稚仔を採取するのは,かなりの徒労なのだそうだ。「網にかかるタコの稚仔はせいぜい100匹くらいだから」と,彼は言う。統計学的に妥当なサンプルを得るには膨大な数が必要な場合,こうした採取は大いなるネックとなる。

キャサリン・ハーモン・カレッジ 高瀬素子(訳) (2014). タコの才能:いちばん賢い無脊椎動物 太田出版 pp.21

たくさん書いても

論文や本をたくさん書いても,いい人になれるわけでも,優れた心理学者や科学者になれるわけでもない。心理学者には,文章をひたすら量産する人もいるが,人によっては,同じ発想をひたすら使い回す人もいて,実験や観察にもとづく論文を何本か書き,次に,レビュー論文を書き,さらにそのレビュー論文を温め直して書籍の一部に利用し,それをもとに,今度は教科書の一部やニュースレターの記事を書くというような具合だったりする。多産な研究者は文章の数は多い。でもだからといって,他の研究者より発想が豊かだったり優れていたりするとは限らない。執筆は競争ではない。論文数を1つ増やすというだけのために論文を書かないこと。自分の論文や著作の数を数えないこと。投稿をとりやめたために,フィルムキャビネットに眠ることになった原稿,つまり,別の雑誌になら出せるけれど,どの雑誌でもよいというわけではない原稿にも誇りを持つこと。自分が業績数ばかり気にしていることに気づいたら,執筆時間を使って,動機や目標について考えてみた方が良い。

ポール・J・シルヴィア 髙橋さきの(訳) (2015). できる研究者の論文生産術:どうすれば「たくさん」書けるのか 講談社 pp.156-157

世界は不公平だ

リジェクトというのは,えてして,不公平で,悪意があって,説明が足りなかったりするものだ。エディターや査読者が,原稿を雑にしか読んでいないのがバレバレのこともある。しかし,エディターに文句を言うのは我慢しよう。エディターに怒りの手紙を書いて,査読者が怠惰で不適格だと非難した人の話も聞いたことがある。でも,エディターというのは,たいてい,査読者と友人だったりもするわけで,こうした手紙で事態が改善されることはまずない。怒りをぶちまける手紙を書くだけ書いて送らないという方法を薦める人もいるけれど,イライラがつのるだけだろう。「決まった執筆時間」をガス抜きに使うのはもったいなさすぎる。同じ時間を使うなら,論文の修正に使おう。世界は不公平だ(p < 0.001)。ということで,査読からは,生かせる部分を生かそう。論文を修正したら,別の雑誌に投稿すればよい。

ポール・J・シルヴィア 髙橋さきの(訳) (2015). できる研究者の論文生産術:どうすれば「たくさん」書けるのか 講談社 pp.122-123

スランプは

スランプというのは自己撞着のよい例だろう。行動を描写しても,描写された行動の説明にはならない。スランプというのは,書かないという行動以外の何ものでもない。スランプだから書けないというのは,単に,書いていないから書けていないと言っているにすぎない。それだけ。スランプという言い訳の治療がもし可能だとすれば,治療としては,書くことしかありえない。

ポール・J・シルヴィア 髙橋さきの(訳) (2015). できる研究者の論文生産術:どうすれば「たくさん」書けるのか 講談社 pp.52

書くべきことは山ほど

優先順位の話をすると,「でも,何も書くことがないときにはどうすればよいのでしょうか」とよく聞かれる。大学教員の場合,何も書くことがないという状態はまずありえないはずだ。実際,僕の知っている教員は,たいていは未発表データを山のように抱えている。データを集めるのは簡単だが,データについて書くのは難しい。10年前に行った未発表の実験データがあるなら,「何も書くことがない」状態になるまでにしばらく時間がかる。それどころか,書けば書くほど,書いておく必要のあることが増える。

ポール・J・シルヴィア 髙橋さきの(訳) (2015). できる研究者の論文生産術:どうすれば「たくさん」書けるのか 講談社 pp.43-44

煙草の理由と似ている

この最後の言い訳が,一番滑稽で,理屈が通らない言い訳だと思う。ありとあらゆる理解不能な理由ゆえに執筆スケジュールを立てたくない人たちからよく耳にするのが,この言い訳だ。「内からあふれてくるものがあるときに,一番よいものが書ける」「気がのらないときに執筆しようとしてもしょうがない。書く気にならないと」と彼らは言う。現に執筆できていない人がこれを言うのは,なんとも妙な話だ。喫煙常習者が,煙草を擁護して,煙草を吸うとリラックスできるというのにとても似ているかもしれない。実際には,ニコチンが切れると,緊張感が増すことが知られている(Parrott, 1999)。執筆できなくて困っている人がスケジュールへの嫌悪感を吐露するというのは,要するに,執筆ができない原因に固執しているということだ。書きたいと思った時にのみ書くべきだと考えるなら,まず,以下の点について自問してみるというのはどうだろう。「これまで,その方法で執筆できてきたか」「自分が執筆している量に満足しているか」「執筆時間を捻出したり,やりかけのプロジェクトを完成させたりするのにストレスを感じていないか」「夕方や週末の時間帯を執筆の犠牲にしていないか」。

ポール・J・シルヴィア 髙橋さきの(訳) (2015). できる研究者の論文生産術:どうすれば「たくさん」書けるのか 講談社 pp.25-26

一気書きはダメ

たいていの人は,気の向いたときに一気に執筆する「一気書き」(binge writing)という無駄で生産的な方法をとる(Kellogg, 1994)。書くのを先延ばしにして不安にかられ,ようやくやってきた土用を執筆だけに費やしたりする。それでも,文章はある程度書ける。焦燥感も解消される。けれども,「一気書き」のサイクルはそのまま次週に持ち越される。「一気書き」派が,執筆が進んでいないことで焦燥感や不安にかられている時間は,スケジュール派が実際に文章を執筆している時間より長い。スケジュール通りに執筆していれば,書けていないことに思い悩む必要はない。書く時間を見つけられないと愚痴る必要もないし,夏休みになったらどれほどの文章を書けるだろうと夢想する必要もなくなる。ということで,決めた時間に文章を書いて,文章のことなどさっさと忘れてしまおう。そう,心配すべきことなら,もっと他にいくらでもある——コーヒーを飲み過ぎていないだろうか,犬が裏庭のきたない池の水を飲んでいないだろうか…,とか。でも,いつ文章を書けばよいのかについては心配しなくてよい。そう,明日の朝8時には,机に向かって執筆にとりかかっているだろう。

ポール・J・シルヴィア 髙橋さきの(訳) (2015). できる研究者の論文生産術:どうすれば「たくさん」書けるのか 講談社 pp.15-16

研究者になる困難さ

悪いことに,執筆をめぐる基準は,かつてなく高いものとなっている。心理学者が投稿する論文数や雑誌数はうなぎ上りだし,減る一方の研究助成金をめざす研究者の数も増えるばかりだ。学部長や学科長からも,論文数を期待される。古き良き時代の陽気な大学運営人は,教員が研究助成金を申請すると喜んでくれたものだが,今どきの陰気な経営陣は,新しい教員は研究助成金を申請して当然だと思っている。学科によっては,教員が研究助成金を受け取ることを,テニュアのポジションを得たり,昇進したりする際の条件にしている所さえある。研究志向の大学では,論文数の少ないことが,テニュアになれなかったり昇進できなかったりする理由になっているし,小規模教育志向の大学でさえ,学術論文執筆圧力が高まっている。心理学のキャリアをアカデミズムの現場で開始するには難しい時代になっているということだ。

ポール・J・シルヴィア 髙橋さきの(訳) (2015). できる研究者の論文生産術:どうすれば「たくさん」書けるのか 講談社 pp.4

囚人の独房

しかし論文を書いたところで,教授になれるのは早くても10年後である。助教授であっても,研究が出来ないわけではないが,助教授はやはり教授の補佐役に過ぎない。30代はじめに助教授になった新進助教授は,50過ぎまで助教授を務めているうちに,輝きをなくしてしまうのである。
 京都大学の助教授ポストを射止めた白貝博士が,「次の目的は,1日も早く教授になることだ」と言ったことには,それなりの理由があるのだ。
 研究者として暮らすアメリカは,学生として暮らすアメリカと全く違っていた。研究者として負け組に入りこんだ男が見た,業績のない研究者の惨めさは,日本の比ではなかった。
 准教授に昇進できなかったある若手助教授は,死刑が確定した囚人が独房に移されるように,窓なし部屋に移動させられる。窓がない部屋の圧迫感は,そこに暮らした者でなければわからない。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ助教授の敗戦:日本のソフトウェアはなぜ敗れたのか 青土社 pp.169-170

昇進カレンダー

講座制大学の場合,上司である教授の年齢を考えれば,自分がいつ教授になれるか見当がつくものである。たとえば,東京大学電気工学科では,学科長のオフィスに“昇進カレンダー”なるものがかかっていて,助手に採用された時点で,おおよそ何年後に教授に昇進するかが分かるという。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ助教授の敗戦:日本のソフトウェアはなぜ敗れたのか 青土社 pp.136

一般教育担当教員

“一般教育担当教員”という言葉が,国立大学で何を意味するかは,ポッと出の助教授でも良く知っていた。当時の国立大学では,専門家を育成するための専門教育担当教員と,専門以外の一般教育を行う教員は,研究費・設備・学生指導の面で厳しく差別されていた。研究費は3分の1,設備も3分の1,そして大学院生と卒研生はゼロである。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ助教授の敗戦:日本のソフトウェアはなぜ敗れたのか 青土社 pp.89

筑波大学

筑波大学は,政府手動の下に作られた“新構想大学”である。東京教育大学の理学部と文学部を改組した「第一学群」,教育学部と農学部を合体した「第二学群」,それぞれ体育学部と芸術学部を拡大した「体育学群」と「芸術学群」,および新設の「第三学群(工学部)」と「医学群(医学部)」の6学群で構成される総合大学である。
 教育大学にはなかった,工学部と医学部を設置することによって,総合大学のラベルを手に入れ,単科大学である東京工業大学と一橋大学を抜き去って,旧帝大並みもしくはそれを上回る“国際A級大学”を目指して,スタートを切ったのである。
 ではこの大学が,新構想大学と呼ばれる理由は何か?その第一は,研究と教育を切り離したことである。教員は「学系」という研究者組織に所属し,教育組織である「学類」に出向いて教育を行うというシステムである(従来の国立大学で用いられていた教官にかわってこの大学では教員という用語が使われていた)。
 教員の任務は研究と教育であって,大学運営に関わる雑用は,アメリカの大学のように,特別な権限を与えられた“学系長”と“学類長”が一手に引受ける。この結果,一般教員は雑事から開放され,研究・教育に専念できるという仕組みである。研究者にとって,このような素晴らしい環境は,わが国では他に例がない。
 新構想の第二は,講座制の廃止である。教授ー助教授ー助手という閉鎖された組織,すなわち“講座制”の弊害については,学生時代に大体のことは知っていた。教授は絶対的権力の座にあぐらをかき,助教授・助手の研究だけでなく,場合によっては人格までも支配する封建的な制度を廃止して,組織の柔軟化・民主化を図ろうというのである。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ助教授の敗戦:日本のソフトウェアはなぜ敗れたのか 青土社 pp.43-44

NP困難問題

計算機科学者の間で“うまく解ける”問題とは,問題の規模が10倍になっても,100倍ないし1000倍程度の時間をかければ解ける問題のことをいう。このような問題は,規模が100倍になれば計算量は1万倍以上になるが,計算機が10万倍速くなればたちどころに解ける。
 ところが,ごく当たり前の問題の中に,問題の規模が10倍になると,どのように工夫しても,2^10倍=1000倍の計算量が必要になると思われる,厄介な問題が存在することが明らかになったのである。
 規模が100倍なら計算量は2^100倍,すなわち10^30倍になる。計算機が100万(10^6)倍速くなっても,このような問題を普通のやり方で解こうとすると何兆年もかかる。しかも世の中は,このような“うまく解けない問題”,すなわち「NP困難問題」が溢れているというのである。
 この結果,わが国でも70年代に入ると,難しい問題を解くためのアルゴリズムや,ソフトウェア研究の重要性が認識されるようになった。京都大学,大阪大学,東京工業大学などの有力大学に,情報科学科・情報工学科・計算機科学科が出来たのはこの頃である。
 しかしどの大学も,その規模は一学科分(教官定員15人,学生定員40人程度)で,米国の有力大学に匹敵する“ソフトウェア中心の”計算機科学科は,どこにもなかった。政府・産業界・学界は,依然としてソフトウェアを軽視していたのである。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ助教授の敗戦:日本のソフトウェアはなぜ敗れたのか 青土社 pp.16-17

二元論と創発

神経科学が宗教的信念に挑戦を突きつけていると感じる者たちが採用してきたもう1つの防衛的理論は,「二元論」である。つまり,この世界には精神的と物理的という2つの異なる種類の実体あるいは属性が存在し,それらがとくに人間において相互作用を起こしているという主張である。二元論者は,神経科学者が発見した密接な相関性を,精神が単なる脳の活動にすぎないことを証するものととらえずに,精神が脳と相互作用している,もしくは脳を道具として用いていることの証拠と考える。17世紀にルネ・デカルトが提唱したのも,同様の二元論哲学である。これは学問的に最も注目された議論の1つであるが,現代でもこの見解を受け継ぐ論者が,哲学の世界にも,より広い分野においても,大勢いる。
 こうした二元論が意味をなすためには,物理的なものと非物理的なものが因果的な相互作用をどう引き起こせるのかを説明しなければならない。また,二元論がそれよりもシンプルなものに思われる物理主義よりも優れていることも説明しなければならない。後者によれば,精神は脳の属性的機能なのである。
 あらゆる精神的体験が,何らかの意味で物理的なものであるとしても,だからといってその意味が何であるかがただちに明らかになるわけではない。なぜこの特別なわずかな物質(我々の知る限り,動物生体の脳内の神経細胞の複雑なネットワークのみである)は意識という属性を持ち,他の物質(岩石,野菜,さらにはコンピュータ)はそれを持たないのだろうか。この問題に関心を抱く哲学者や神学者は,近年,「創発(emergence)」「付随性(supervenience)」「非還元的物理主義」といった概念について論じてきた。いずれも,精神的実在が物理的なものに依拠しつつもなお自律的であるのはどのようにしたら可能であるかを論じようとするものである。精神が「創発」的ないし「付随」的であるとは精神の自律性を示唆する言い方であるが,精神が脳とは独立に存在できると言っているのではない。そうではなく,精神が神経学的レベルに体系的に還元できないような特性や規則性を示すという意味において,自律的であるというのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.166-168

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]