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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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信念の起源

神経科学は脳の特定の状態と宗教的体験を含む特定の精神的体験との相関性を見事に示してくれたが,一部の者はこれを神秘体験や魂の不死に関する伝統的信念を文字どおり覆すものと考えてきた。こうした懐疑主義的立場によれば,一個の体験は脳によって引き起こされるか,非物質的存在(神あるいは魂)によって引き起こされるかのどちらかであり,その両方の関与によるものではない。体験の神経科学的説明は,超自然的あるいは宗教的説明を排除する。科学は超自然的なものの一切を説明し切ったというのである。
 これは理に適った,十分にシンプルな説明であるように見えるかもしれない。しかしながら,これを否定する哲学者,科学者,神学者は大勢いる。人間の宗教的・道徳的信念の出所について,神経学的な,さらには進化論的な説明を行うのは,興味深い科学的試みである。それは「認知科学」と呼ばれる野心的な科学研究の一部として広く行われている。だが,この仮説によれば,宗教的,科学的,その他あらゆる信念のすべてが,まったく同じ,進化した神経科学的器官の産物ということになる。だから,こうした事実に注目しても,真実の信念と偽りの信念とを区別しようという我々の哲学的努力が前進を見ることはない。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.165-166
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創造論

「創造論」とは,進化論に対するあらゆる宗教的反論をひとまとめにした大雑把な呼び名である。そうした反論はさまざまなかたちをもって現れたし,いまも現れ続けている。あらゆる創造論者が共有する信念は「宇宙と地球上の生命は神によって直接に,超自然的に創造された」「人類と他のすべての種は,現在あるような姿をもって,それぞれ別々に創造された」というものである。言い換えると,創造論者は,あらゆる植物と動物には共通の祖先があるということを否定している。彼らはまた,進化に対する自らの抵抗を,少なくとも部分的に聖典——ユダヤの聖典,キリスト教の聖典,クルアーンなど——の権威に基礎づけている。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.131

例外が奇跡に変わる時

たとえヒュームの結論に賛同しないとしても,彼の方法の経験主義的な精神を受け容れる人は,自分自身の感覚的証拠こそが最高法廷であると考えるに違いない。物理科学や自然法則について,あるいは奇跡について他人の証言の内容について,あなたが何をどう信じようと,あなた自身の経験がそれらのすべてを凌駕するだろう。もしあなた自身が一度も奇跡を見たことがないのならば,おそらくその事実こそが,奇跡の実現可能性を信じるための最大の障害となるだろう。
 しかし逆に,あなた自身が聖アガタの傷が癒える瞬間を目撃したのであれば,あるいは溶岩流にベールを向けるや説明のつかないかたちで流れの向きが変わるのを目撃したのであれば,あなたはまさしく自分が尋常ならざるものを目撃したことを認め,ヒュームが何と言おうと,それを奇跡と見なすのではないか。
 しかしそのときでさえ,自然の通常のあり方に逆らうような出来事を観察することと,あなたが超自然的あるいは神的な出来事を目撃したと信じることとの間には,ギャップがあるはずだ。より科学的な態度を取るならば,そうした出来事を「奇跡」ではなく「説明のつかない例外的事態」として扱うべきだろう。それはちょうど,実験室での実験が理論どおりの結果を生み出さなかったときのようなものだ。そうした例外的事態は自然界の作用に関する新発見につながるかもしれないし,説明のつかない頑固な例外のままであり続けるかもしれない。しかし,それを宗教的に受け取る必要はない。説明のつかない顕著な現象を明確に宗教的な文脈において体験して初めて,例外は奇跡に変わるのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.82-83

量子力学と神

量子力学は近代科学の中核部を占めながら,物理的実在をきわめて奇妙な非決定論的なものとして描いているのだから,哲学思想家や宗教思想家の気を引いてきたのも当然である。観測者が必然的にプロセスに関与し,決定論が否定される,新しい,いっそう全体論的な自然哲学の誕生の予感は,伝統的宗教からより最近の「ニューエイジ」思想までの多彩な世界観の提唱者たちの心に訴えるものをもっている。
 量子力学のうちに,神が行為できる「隙間」のいっそう永続的な源泉を見出そうとする神学者もいるが,これは必ずしも歓迎されていないようだ。そのようなことを試みても,神がなぜある場合には行動し,別の場合には行動しないのかという懐疑論者の問いに対し,いくらかでもましな答えを出せるわけではない。まして,思うままに自然法則を覆すあるいは停止することができると信じ続けている信者たちが,こうした神学に満足することはないだろう。彼らに言わせれば,神は自然法則の造り手であってその奴隷ではないのだから,量子系のあれこれの状態をいじくりまわす必要などないのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.76

ニュートンとライプニッツ

よく知られた例を挙げよう。アイザック・ニュートンは,なぜ太陽系の惑星は,次第に速度を落として太陽に引き込まれてしまわずに,自らの軌道内に留まり続けているのか,また,なぜ太陽系外の恒星は引力によって互いにくっついてしまわないのかといった疑問に対し,それは神が時々プロセスに介入し,恒星や惑星を正しい位置に留め置いているからに違いないという仮説をもって答えた。
 ニュートンのライバルにして批判者であるドイツ人のG.W.ライプニッツは,この仮説を神学的な視点から攻撃した。彼は1715年の書簡にこう書いている。ニュートンの神は,そもそも最初の段階できちんと機能する宇宙を創造する展望を持たなかったものだから,「時々自分の時計のねじを巻きなおす」「時折掃除をする」「さらには時計屋がやるように修理する」はめに陥っているかのようだ。「自分の作った仕掛けの修理や調整に追われる者ほど,ヘボ職人であると言わねばなるまい」。ライプニッツ自身は,宇宙に対する神の関与を完璧で完結した洞察を有するものと考えるのを好んだ。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.69

信者と懐疑主義者

しるし,驚異,奇跡は,種々の宗教的伝統の中核部分を占めている。そうした現象には,あれこれの個人の特別な地位を証言する,あれこれの教理の真実性を証明する,あるいは宗教運動の世俗的・政治的大望を支援するなどの働きがある。信者の中には奇跡を神の存在と力を明示するものとして歓迎する者もいるが,別の者は困惑の色を隠さない。奇跡の報告など,まずたいてい超自然現象の結果ではなく,希望的観測,騙されやすさ,さらには詐欺などの人間的弱点の結果であるように思われるのだ。そんなものを容認すると,宗教が迷信的なもの,原始的なものに見えてしまうかもしれない。
 信者と懐疑主義者は,ともに,奇跡や超自然的存在を語る物語など,科学時代にあって本当に信じられるものだろうかと自問している。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.61-62

両極端

極端な立場においては,神学的反実在論は無神論に近くなる。しかし,いっそう正統的な,神秘主義的な「否定」神学の諸伝統というものも存在する。それは神の超越性とただの人間の限りある認知能力とのギャップを強調し,人間の手になるいかなる定式化であれ,それが神の実在を把握し得ると考えるのは僭越であると結論づける立場である。
 この立場が抱える問題の一つは,もし人間の理性が神の属性についてのいかなる真なる言明もなし得ないほどに弱いものであるとするならば,神は存在するという言明もまたたいした意味を持ち得ないように思われる点である。このため,多くの者は,見えるものを超えて見えないものを見ようと努め,現象のベールを剥がして物の真のあり方を発見しようという,不可能とも思える作業を首尾よく成し遂げることを希望し続けてきたのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.53-54

記憶の共有

人間の知覚能力には限界があるが,17世紀初頭の望遠鏡や顕微鏡の発明や,それ以降のさらに精密な装置の発明は,観測や測定の及ぶ範囲やその精度を桁違いに増大させた。だが,理性の使用抜きには,実験は構築できないし,観察が意味をなすこともない。実在の本性についての理論的仮説と,その証明・反駁に求められる実験的証拠が何であるかに関する推論とが,科学的知識の必要条件となる。
 そして最後に,専門的科学者は,自らの証言を他者に受け入れてもらうために,自らの知識の源泉がどこにあるかを明示し,自らの推論の道筋について説明しなければならない。そして論文,書物,専門誌,および今日では電子データベースにおける科学的結論を公表することで,我々は集団的でかつ文書の裏づけをもった記憶を共有することができるようになる。この記憶は個人個人の記憶に頼っていたのでは得られない広がりをもつものである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.29-30

糸を織物にする

近代科学の全プロジェクトは,個人レベルで相対的に細かいものでしかない知識の糸を織り上げて,弾力性のある織物にする試みと要約できるだろう。かくして一人の個人が感覚を通じて経験したものは,多くの他者がそれを証言し,裏づけ,反復して,初めて受け入れられるものとなる。事物の属性の単純な観察は,注意深く設計された実験によって補強される必要がある。この実験を通じて,異なる状況下における異なる振る舞いを正確にテストするのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.29

対立の代理

ある意味で,我々はここで再び混沌たる歴史的複雑性の領域に向かう。たしかにそれは,キャストを入れ替えればすべてのつじつまが合うというような単純な問題ではない。だが,話のポイントは,ここで真に対立しているのは知識の生産と普及をめぐる政治のあり方だということである。科学VS.宗教の対立は,個人VS.国家,世俗的リベラリズムVS.保守的伝統主義など,近代政治の古典的対立を代理するもののように思われるのだ。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.14

すべて経験したのか

だが,いかにあなたがこうした知識をたくさん身につけたとしても,あなたはそれを観察によって発見したわけではない。あなたはそれを他人から教えられたのである。両親,理科の先生,テレビ番組,インターネットの百科事典などを通じてそれを学んだのだ。プロの天文学者といえども,いまここに書き並べたどの言明であれ,その真偽を自分自身の経験的観察を通じてチェックしたことは,一般的に言って,ないだろう。
 なぜそうなのか。天文学者が怠慢であるとか無能であるとかということではない。そうではなくて,これは,科学の共同体が積み上げてきた権威ある観察と理論的推理を,天文学者が利用できる仕組みがあるということなのである。科学の共同体は幾世紀もかけてこれらの言明を根本的な物理学的真理として確定してきたのである。
 ポイントはこうだ。科学的知識が自然界の観察に基づき,また観察によって検証されるというのはたしかに真実ではあるものの,しかし,あなたの感覚器官を正しい方向に向けさえすればいいというものではない。むしろそこにはおそろしいほどたくさんの要素がからんでいるのだ。たとえ科学者であろうと,一人の個人が自らの観察を通じてじかに得た知識は全知識量のうち一小部分にすぎない。また,自分自身の観察でさえ,幾世紀もかけて蓄積され,発展してきたデータと理論の体型がすでにある中で,その複雑な枠組みを文脈としてようやく意味をなすものなのである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.9-10

適合性が問題

科学と宗教の論争は,とりあえず,「ある特定の宗教的信条はある特定の科学的知識と知的に両立できるのか,それともできないのか」という問題として理解することができる。死後の生への信仰は,現代の脳科学の発見と衝突するのだろうか。聖書の信仰と,人類とチンパンジーが共通の祖先から進化したとする説は両立できないのだろうか。奇跡の信仰は,物理科学が明らかにしてきたような厳格な法則のもとにある宇宙という世界観と相容れないのだろうか。あるいは逆に,量子力学の諸理論は,人間の自由意志と神の行為への信仰に支持と確証を与えるのだろうか。本書のタイトルは「宗教と科学——何が問題なのか?」であるが,この疑問に対する答えの一つは「いま挙げたような事柄の知的両立可能性(適合性)が問題なのだ」というものである。

トマス・ディクソン 中村圭志(訳) (2013). 科学と宗教 丸善株式会社 pp.5

チェスと将棋

他の雑務量も入れてカウントしてみると,しつこいようだが,欧米の大学教員は優雅に「チェス」をプレーしているのに対して,日本の大学教員はより複雑な「将棋」を指しているようなモノなのである。大学当局はそうした認識をぜひお持ちになり,入試業務を負担する教員の担当授業コマ数の軽減か手当の拡充か,どちらかを実行していただきたいと切に願う今日この頃である。
 この業界,狭い世界なので,口コミなどを中心に,いろいろな情報が流れるわ,流れるわ。繰り返しになるが,「◎◎大学は入試業務が公平で簡素化されているし,職員のサポートも手厚い」とか「○○大学では入試手当が充実していて,教員が張りきっているようだ」などのよいウワサが,ひいてはその大学を発展させることを,大学当局は肝に銘じてほしいのである。

櫻田大造 (2013). 大学入試 担当教員のぶっちゃけ話 中央公論新社 pp.238-239

上をめざすもの

アメリカではむしろ,公立短大・大学を突破して,より上位の大学・大学院へと,上をめざす「学歴ロンダ」が当たり前となっている。そもそも日本語での「学歴ロンダ」のような蔑称的なニュアンスを英語で表現すること自体が,きわめて難しい。むしろ最初に入った大学(やコミュニティ・カレッジなどの短大)はこのレベルなのに,最後はハーバード大ロースクール出身だと,大学時代によほど勉強したんだろう,苦労しているし,今後大いに期待できるということで,社会に出てからの評価が高くなるのがアメリカ社会なのである。
 有名な例としては,ナンと言っても,バラク・オバマ大統領があげられよう。オバマ大統領の最終学歴(学位)は,ハーバード大のロースクール(法科大学院)出身の法務博士(専門職[Juris Doctor = JD])であり,著名な『ハーバード・ロー・レビュー』誌の編集長を務めたことでも知られている。このオバマ大統領の卒業大(学部)は,アイビー・リーグの名門コロンビア大であるが,入学した大学はあまり知られていない。
 実はオバマ氏も,ハワイの名門高校からカリフォルニア州にある学生数2000人規模のオクシデンタル・カレッジという,教養教育系小規模私学に入学して,2年後に有名なコロンビア大に編入しているので,完全な「学歴ロンダ」組なのである。コロンビアやハーバードと比べて,はるかに知名度で劣るが,オクシデンタル・カレッジも『USニューズ&ワールド・リポート』の大学ランキング(2013年版)では,大学院を持たない小規模な私立の学士号授与大学(リベラルアーツ・カレッジ)の中では,全米第39位にランクインされるレベルで,悪くはない。

櫻田大造 (2013). 大学入試 担当教員のぶっちゃけ話 中央公論新社 pp.197-198

大学教員は関わらない

いずれにせよ,ここでのポイントは,アメリカ版センター試験というべきSATでもACTでも大学教員が直接的に関わっていない点である。センター試験のように,極秘で(独立行政法人)大学入試センターに,いろいろな大学から招集された大学専任教員が集まり,作問したり,解答を作成したりする必要はなく,College BoardやACTに雇用された専門家が作問・解答・採点に専念している。
 つまり,世界第1位の大学大国アメリカには通常,各大学の専任教員が作成・採点しなくてはならない個別大学入試問題というモノがなくて,大学教員は大学(学部)入試関連業務から完全に解放されている。
 カナダや豪州,NZなどもまったく同じである。なお,例外は音楽・美術など芸術系分野の大学専任教員である。受験生の技能を確認するために,「特例的に」入試に駆り出されることもあるようだ。

櫻田大造 (2013). 大学入試 担当教員のぶっちゃけ話 中央公論新社 pp.190-191

マークシート方式入試との共存

とは言うものの,学力把握のひとつの有力な手段として,マークシート方式テストを使用せざるを得ないのも事実だ。まず,偶然だけで高得点を取得するのは統計学的にも,かなり難しいだろう。また,何十万人(13年のセンター試験の受験者数は54万3271人である)もの受験者の答案を,場合によっては数日間で採点することは,教員の能力や人数からしても,大学によっては不可能だったりする。
 7章で見るが,世界トップの大学大国アメリカでは,大学(学部)入試業務は原則として大学職員が行い,その分,大学教員は(手当も減るだろうが)教育,研究,その他の業務に打ち込めるシステムとなっている。さらに,基礎学力の担保もアメリカではマークシート方式の統一試験のみで判定されている。
 採点業務に十分なスタッフや資金を傾注できるようなシステムを大学が持っていない限りでは,現場の教員が努力してできることはどうしても限定されてしまい,いわば「マークシート方式入試との共存」を大多数の大学教員現場は余儀なくされているのが現状であろう。

櫻田大造 (2013). 大学入試 担当教員のぶっちゃけ話 中央公論新社 pp.177-178

混乱のもと

読者諸氏の中には,「それでも,入学金は払わず,入学手続書類だけを送ることで入学申込をすればいいやんけ!」と思う方もおられるかもしれない。実は入学手続書類のみを返送する入学者確定方式になったら,新たに発生してしまう問題もあるのだ。書類だけでの入学予定者とするようなシステムを取った場合,きわめて簡単に入学予定者になることができるので,多くの受験生や保護者は,ふたつ以上の私学に入学希望を出すようになってしまうことが懸念される。
 もし入学金を納めなくてもよくて,たとえば早稲田の政経学部と慶應の経済学部に書類提出するだけで,入学予定者になり,東大の文II合格発表を待つことができたとしよう。この場合,第一志望は東大であるが,落ちた場合,早稲田にするのか,慶應にするのかは,いろいろなデータをもとにして家族会議やら受験生本人のこのみで決めることになろう。そうなると早稲田としても慶應としても,一体何人くらいが実際入学してくれるのか,入学式当日まで皆目検討もつかなくなってしまい,かなりの混乱が生じてしまう。

櫻田大造 (2013). 大学入試 担当教員のぶっちゃけ話 中央公論新社 pp.143-144

入学金=保険料

まあ,確かに受験生や保護者サイドとしては,第二志望の大学に入学金を払うか否かは大きな問題だろう。払った後に,第一志望が受かった場合,通常は「入学金はいかなる理由があっても返還されない」ことになっているからだ。
 ただし,これは大学サイドとしては,ある意味やむを得ない措置でもある。なぜなら入学金を納めることにより,まずは次年度の入学者数がだいたいどのくらいになるのか,はじめてキチンと見当がつくからだ。また,大規模学部では入学者数も1学年1学部で600人以上,ヘタすると1000人を超すし,国公立大の前期日程合格発表である3月上旬前からも,入学準備を粛々と進めておかねばならないということになる。
 少なくとも20万円を超える入学金を振り込んでもらうことで,入学予定者数とその氏名などの情報を確実に確保しておかないと,4月の入学関連行事に師匠を来しかねない。これが私学の一般的な実情であろう(また私学では入学金に加えて,3月の指定された日[遅くとも末日]までに所定の授業料を振り込むことになっており,これをもって4月の入学者を暫定的に確定するところが多い。無論,入学金は返還されないが,授業料はもしも別の大学に行く場合は返還されるのがフツーである)。
 まあ,(筆者も長男の入試で経験したが)第二志望校への入学金振り込み自体は,保険料と言うか,あるいはその大学への寄付金のようなモノだと考えておくと,保護者の立場としては精神衛生上よいだろう。

櫻田大造 (2013). 大学入試 担当教員のぶっちゃけ話 中央公論新社 pp.142-143

歩留まりは難しい

「歩留まり」をあまりに厳しく読み過ぎると,入学を希望してくれる学生の定員割れをムザムザ引き起こしてしまい,それは大学当局としては経営上もできるだけ避けたいと考えるのが,一般的だろう。かと言って,各私学の各学部には収容定員があり,収容定員8000人未満の大学で,たとえばその定員(4学年分)の1.3倍を超えた入学者を4年間で出してしまうと,文科省(日本私立学校振興・共済事業団)からの補助金がカットされてしまうこともある。
 また,より実務的な問題としては,新入生向け語学クラスやゼミなどの少人数クラスの編成,それにともなう教室の確保などに苦労する(これは主に職員サイドの問題であるが,語学や新入生用のゼミを教える教員の負担増にも最終的にはつながる)。
 なので,経営面からも私学ではキチンとした入学「歩留まり」率を読んだ上で,合格人数を決めなくてはならなくなるようだ。各種入試(付属校,協定校,提携校,姉妹校などを対象とする入試,AO入試と指定校推薦入試など)はすでに終わり,一般入試が行われる頃には,入学者もある程度決まっているので,それに比べて,一般入試の倍率をどうしたらよいのか,偏差値はどうなりそうなのかなどを勘案しつつ,「歩留まり」面でもベストな人数を入試関連委員長は(場合によっては職員サイドと一緒になって)出していかねばならないだろう。

櫻田大造 (2013). 大学入試 担当教員のぶっちゃけ話 中央公論新社 pp.132-133

ヤキソバ

オープンキャンパスは大学を体験するには有効であろうが,あくまでも大学の公式ウェブサイトと同じく,よい面しか見えないというのも事実だろう。また,教員サイドとしては,オープンキャンパスを成功させるために,高校生にウケる模擬授業をやったり,大学事情に通暁する必要もある。
 大学にもよるが,教員自らがヤキソバを作ったり,その大学のシンボルになっているいわゆる「ゆるキャラ」の着ぐるみに入って,高校生を出迎えるなど“特殊営業活動”をやらねばならない所もあるようだ(年をとってからやらされると,結構ツライと思う……)。

櫻田大造 (2013). 大学入試 担当教員のぶっちゃけ話 中央公論新社 pp.97

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