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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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決断の5段階

幸い,社会心理学者は,どのような条件があれば,私たちが他人を助けようとするのかを細かく分析しています。私たちが,偶然居合わせた困っている見ず知らずの他人を助けようと決断するまでには,次の5つの段階があることがわかっています。

 他人を助けようという決断をするまでの5段階
 (1)出来事を認識する。
 (2)緊急事態であることを理解する。
 (3)自分に問題に対処する責任があると感じる。
 (4)問題に対処するための方法がわかる。
 (5)行動を決断する。

ロバート・ビスワス=ディーナー 児島 修(訳) 2014). 「勇気」の科学:一歩踏み出すための集中講義 大和書房 pp.199-200
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幸運のお守り

そう,私たちは儀式的な方法で幸運を祈ったり,お守りやラッキーアイテムを使うことで,記憶ゲームのような認知的タスクや,ゴルフのようなスポーツで,パフォーマンスを改善することができるのです。だとすれば,あなたが考えることは,自分にとって幸運のお守りとは何かということだけなはずです。

ロバート・ビスワス=ディーナー 児島 修(訳) 2014). 「勇気」の科学:一歩踏み出すための集中講義 大和書房 pp.148

魔術的思考

心理学者のジェーン・リーセンらは,一連の研究によって,神意に逆らうような状況に置かれた被験者は,否定的な結果を予測する傾向が高いことを明らかにしています。
 たとえば,ある若者がスタンフォード大学に願書を提出したとします。すると,孫を応援する祖母から,スタンフォード大学のロゴが描かれたTシャツが送られてきます。
 当然ながら,このTシャツと,彼がスタンフォード大学に合格するかどうかとはまったく関係ありません。彼はそのTシャツを大切に身につけることもできれば,汚れた衣服がいっぱいのクローゼットにしわくちゃにして放り込むこともできます。前に述べたとおり,若者が大学に合格するかどうかは,彼がTシャツをどう扱うかとは無関係です。
 それでも私たちは,Tシャツを大切にしなかった場合,彼が大学に受かる確率が低くなるのではないかという,魔術的な考えを頭に思い浮かべずにはいられません。実際,リーセンらの実験の被験者も,このような状況で警戒心を高め,良くない結果を予想しました。

ロバート・ビスワス=ディーナー 児島 修(訳) 2014). 「勇気」の科学:一歩踏み出すための集中講義 大和書房 pp.130

自己中心的偏見

このような自己中心的な偏見によって,私たちは実際以上に物事が自分の思い通りになると考えてしまいます。そしてそれによって,問題や,ときとして悲劇を招いてしまうのです。少しばかり乱暴に言えば,私たちは世界が自分を中心にして回っていると考えています。そのため,人前でのスピーチを前にして緊張している人は,自分の服装やしゃべり方などを実際以上に注目されると勘違いし,飛行機恐怖症の人は,1秒間でもエンジン音が聞こえなくなったら飛行機が墜落してしまうのではないかと思い込みます。
 仕事探しに不安を覚えている人は,間違った判断をすることで最悪の結果が生じるのではないかという考えにとりつかれています。
 どのケースでも,私たちは恐怖によって現実の正しい姿が見えにくくなり,自分自身の狭い世界だけを見てしまうようになるのです。このように,恐怖には,私たちを自己中心的にさせてしまう性質があります。

ロバート・ビスワス=ディーナー 児島 修(訳) 2014). 「勇気」の科学:一歩踏み出すための集中講義 大和書房 pp.104

尊厳・名誉・面子

アメリカやカナダなどの尊厳の文化に属する人々は,どの人間にも,他者によって奪うことのできない尊厳があると信じています。
 尊厳の文化では,平等な立場での他者との関わり合いが尊重され,個人を自発性と自律性を持つ存在だとみなします。
 対照的に,名誉の文化では他者からの評価に敏感です。特に,他者の行動によって名誉が傷つけられることに対しては過敏に反応します。また,自らの名誉を保つことと,それが貶められた場合に,回復させる責任があるとも信じています。
 面子の文化は,日本や韓国に見られるもので,他者からの評価が主な関心事になります。この文化では,日々の暮らしのなかで,自分が他者の目にどう映るかが重要であり,その評価を自らの行動の指針とします。
 面子の文化では,階層的な組織が形成されやすく,その「序列」が人間関係に影響を与えます。これら3つの文化を1つの連続体で表すとすれば,その両端は,個人への重視(尊厳の文化)と社会的状況における個人のポジションへの重視(面子の文化)になります。

ロバート・ビスワス=ディーナー 児島 修(訳) 2014). 「勇気」の科学:一歩踏み出すための集中講義 大和書房 pp.78-79

勇気の要素

シンシア・プリーらは,勇気を「一般的勇気」と「個人的勇気」の2つに分類しています。一般的勇気とは,私たちが一般的に勇気について想像するものです。それは,人々を驚かせ感銘を与える,劇的かつ大胆な行為です。たとえば,負傷した仲間を救うために銃弾の嵐の中に飛び込んでいく兵隊,子どもを救うために凍るように冷たい川の中に飛び込む親,会社の不正を内部告発する従業員,熊に向かって叫び声をあげ,キャンプ場から追い払おうとするキャンパーなどです。
 対照的に,個人的勇気は,「その個人にとって恐怖を感じる行為」を指します。他者が同じ行為をしても,必ずしも勇敢だと受け止められるとは限りません。
 典型例が,飛行機に乗ることの恐怖です。飛行機恐怖症の人は,飛行機に乗り込む際,他の人がまったく苦にしない行為をするために,必死に自分を奮い立たせなくてはなりません。
 個人的勇気とは,必ずしも他者のためにある必要はなく,自分自身にとって勇敢な方法で行動することです。人から見れば恐怖ではないことも,自分にとっての「個人的な恐怖に打ち勝つこと」を意味するのです。

ロバート・ビスワス=ディーナー 児島 修(訳) 2014). 「勇気」の科学:一歩踏み出すための集中講義 大和書房 pp.46-47

勇気とは

勇気について,これまでに見てきたすべての概念を考慮することで,さらに明確な定義が可能になります。

 「勇気とは,危険,不確実性,恐怖があるにもかかわらず,道義的で価値ある目的に向かっていく行動意志である」

 この定義を注意深く見てみると,要素の一部は個人の外側にあることがわかります。結果の不確実性と危険は,たいていは外的な要因によって生じます。
 一方,行動意志と恐怖の存在は,個人の内側で生じる要素であるため,外的な要因に比べてコントロールしやすいものだといえます。

ロバート・ビスワス=ディーナー 児島 修(訳) 2014). 「勇気」の科学:一歩踏み出すための集中講義 大和書房 pp.40

アドミッション・オフィス

日本の大学教官が最も緊張する雑務は,入学試験というスーパー雑務である。2日にわたるセンター試験と,それに続く学科入試で,日本の大学はアメリカの大学に毎年1週間分の後れを取っているはずだ。
 アメリカの大学では,博士号をもつスタッフを擁するアドミッション・オフィスが,書類選考で学生を選抜し,ヒラ教授ごときが首を突っ込む機会はないし,その必要もない。日本では,いい学生を集めるうえで,入試は必須な業務だということになっている。ところがアメリカの有力大学は,全国共通資格試験(SAT)と書類選考,そして最終面接だけで,十分いい学生を集めている。
 一定レベル以上の学力をもつ学生を集めさえすれば,入学後の教育によって,大学の質を維持することは十分可能だ,というヒラノ助教授の主張の正しさは,アメリカの有力大学によって証明済みである。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち 技術評論社 pp.51

講座制

明治以来,日本の国立大学はドイツをお手本として,「講座制」を採用してきた。大学の基本単位は,教授を中心とする「講座」で,いくつかの講座からなる「学科」,いくつかの学科からなる「学部」,そしていくつかの学部からなるのが「大学」,という構造である。
 講座制の大学では,教授は誰の干渉も受けずに,研究・教育活動を行うことができる。しかしその一方で,大学は社会の要請を無視した独善的な組織に堕する危険性をはらんでいる。
 また,人事や予算などすべての権限を握る教授と,それ以外のメンバー,特に教授に生殺与奪の権限を握られた助手の間には,様々なトラブルが発生していた。60年代に日本中で吹き荒れたキャンパス騒動は,医学部の(無給)助手の待遇改善運動がきっかけで起きたものである。講座制の矛盾は日本中に満ち満ちていた。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち 技術評論社 pp.45

天才の弟子

問題を発掘して,たちどころに自分で解いてしまうと言われた,20世紀最高の(応用)数学者ジョン・フォン・ノイマンが,すぐれた弟子を育てたという話は聞かない。なんでもすぐに分かってしまう天才の下では,すぐれた弟子は育ちにくいのである。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち 技術評論社 pp.21

研究スタイル

すぐに役立つことは,概してすぐに古くなってしまうものである。また研究者が大成するためには,好・不調の波を乗り越えて,粘り強く問題に取組むことが重要である。そして,その時の支えになるのが,優れた研究者から盗み取った“研究スタイル”なのである。

今野 浩 (2012). 工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち 技術評論社 pp.21

何時の時代も同じ

政府やマスメディアへの不信は,こうしたオカルトや陰謀論に結びつきやすく,それはいつの時代でもある種の人々を強烈に惹きつける。ネット時代には,それらの情報にさらに接続しやすくなっているはずだ。そして,現在を終末に見立てるための道具も揃っている。震災,原発事故などをもって,現代文明やテクノロジーの限界を人は語りがちである。
 これは繰り返し語られることだが,日本人は歴史に学ぶことが苦手である。そして,何事も忘れやすい。いまの時代でもオウム事件的なものは十分起こり得るだろう。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.206

ウィンドウズ95

1995年11月に発売されたウィンドウズ95を手に入れようと,深夜の日付が変わる瞬間に行列ができたことは,よく知られている。ウィンドウズ95の発売は,歴史的な出来事として扱われる。だが,当時の状況を改めて眺めてみると,これがつくられた話題,いまどきの言葉でいうと「ステマ」でしかなかったという事実が浮かび上がる。
 ウィンドウズ95の騒ぎとは,つまるところ50億円が投じられた手の込んだ広告キャンペーンだった。その一環として行われた秋葉原での深夜の一斉発売が,予想以上に反響を集めたのだ。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.96-97

パソコンの売り上げ

『東京人』の記事は,1994年に秋葉原ではパソコンの売り上げが家電を超えたことを伝えている。翌年の1995年はパソコンの出荷台数が,初めて500万代を超えた年だった。これ以降,パソコンの出荷台数は順調に増え,2000年には国内出荷台数が1000万台を突破し,2010年以降は毎年1500万台に届いている。各個人のデスクに1台のコンピュータが置かれているオフィスの光景は,いまでは当たり前のものだが,1995年はまだそうではなかったのだ。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.93-94

団塊ジュニア世代

1980年代末のいわゆるバブル期が,日本人の生活の中心に消費が置かれた時代のように考えられている。だが,本格的な消費時代は,団塊ジュニア世代が社会に出始めた95年以降と考えるべきだろう。ビールの出荷数ピークは94年だったが,出版や音楽業界などの売上高のピークは,96〜98年くらいに集中している。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.68

成人人口とビール

1995年の前年は,日本でのビール系飲料の出荷が5億7321万2000箱とピークを迎えた年だ。それもそのはず,この年は,日本の20歳人口がピークを迎えた時期でもあった。
 1994年に満20歳を迎えた新成人は207万人,95年はほぼ変わらない201万人だった。つまり,団塊ジュニア世代という厚みのある世代が20歳を迎え,アルコールの消費者として加わっていった時期が,91〜95年である。ビール会社にとっては,新規の顧客が大量になだれ込んできた“入れ喰い”の時代だった。ちなみに,20歳を迎える新成人の人口は,その後は減り続け,2013年に20歳を迎えた人口は122万人まで減少している。1人の女性が一生に産む子供の平均数を示した合計特殊出生率でいうと,95年は1.42。ちなみに,団塊ジュニア世代でもっとも出生数の多かった73年は,2.14である。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.62

税制と焼酎

1998年には,税率アップの影響で前年よりも出荷量を減らしたものの,翌99年から出荷量は上向きとなった。そして,ウィスキー・ブランデー類が日本で消費量を減らすなか,「本格焼酎ブーム」を巻き起こすことになった。ついに2003年には,約50年ぶりに日本酒の出荷量を焼酎が超えるという快挙まで達成するのである。
 税率という国内の壁に守られていた日本の焼酎は,グローバルな自由貿易の時代に競争という波にもまれることで,はじめてその真価を発揮したのだ。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.59

ポピュリズム

タレント政治家が登場すると「ポピュリズム(大衆迎合主義)」という言葉が頻繁に使われることがあるが,これは間違いである。ポピュリズムとは,民衆に受け入れられやすい政策を打ち出した候補者が選挙に勝つ事態を指す。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.37

危険の存在

不眠や鬱を誘発するストレスは,人生のなかにいくらでもある。どんな人にも,基本的にはぼくと同じような「思いがけない」外側からの攻撃によって,精神のバランスをめちゃくちゃにされてしまう危険が存在する。

椎名誠 (2014). ぼくは眠れない 新潮社 pp.73

確証バイアス

20世紀のはじめにオーストリア人哲学者のサー・カール・ポパーが書いたところによれば,本来,科学的な理論とは決して実証できるものではない。ある理論の妥当性を調べる唯一の方法は,それがまちがっていると証明することである。このプロセスをポパーは反証と呼んだ。この考え方は認知科学の分野に広がっていき,科学理論だけでなく日常生活においても反証の下手な人は非常に多いことがわかった。ことの大小を問わず何かの理論を実証しようとするときに,人はその理論に反する証拠を探そうとはせずに,どうしても自分が正しいことを証明するデータを探してしまう。「確証バイアス」として知られる傾向である。

ポール・タフ 高山真由美(訳) (2013). 成功する子 失敗する子:何が「その後の人生」を決めるのか 英治出版 pp.211

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