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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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アンナ・フロイト

ナチスに逮捕されたとき,アンナ・フロイトは42歳であった。ちょうど数年前に撮られた写真には情熱的で魅力的なとてもユダヤ人らしい顔つきの女性が写っている。彼女はベレー帽をかぶるのが好きだったが,そのためにおてんば娘のように見えた。その頃までに出世していたフロイトの子どもはアンナだけであり,優れた子どもの療法家として認識されていた。彼女がなんとか成功したのは父親との関係のおかげでもあったが,またそれにもかかわらず成功したともいえる。彼らは愛し,尊敬し,互いに依存しあっていた。フロイトは彼女に対してやましい気持ちになる理由がいくぶんあったのであり,たとえ彼がそれを言わなかったとしても,彼女が一度も結婚しなかったのは一部には父親への献身的愛情のためであることはわかっていた。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.264-265
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追い出すことだった

現在,私たちは600万ものユダヤ人が皆殺しにあったことに言葉を失っているために,忘れがちなことであるのだが,最終的解決を決めたヴァンゼー会議の前までは,ナチスの計画というのはユダヤ人を怖がらせ,その財産を奪い,ヨーロッパから追い出すというものだったのである。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.254

名付け規則

1937年12月20日にフロイトはシュテファン・ツヴァイクに手紙を書いている。「ここの政府は違いますが,人々はドイツ帝国の同胞と同じです。今のところはまだ完全に窒息しているわけではありませんが,私たちの喉はますます締めつけられています」。ナチの「規則」の中にはフロイトを驚かせたものがあったが,なかでもドイツ系ユダヤ人が子どもにドイツ的な名前をつけることを禁じたものがそうであった。お返しにドイツ人がヨーゼフなどユダヤ人の名前をつけるのを禁じるべきだとフロイトはほのめかした。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.238

フロイトの誕生日

フロイトは50歳になった時に誕生パーティの1つを取りやめた。「誰も死から逃れられないという事実をごまかすために,還暦や古稀や傘寿といった記念の地点を祝って騒いだりするだけなのです」。そのため彼は祝う気分にはならなかったし,パーティがないことを確認していた。パウラ・フィヒトゥルはたくさんの花束や他の贈り物を受け取るはめになった。
 アインシュタインがお祝いを言ってきてくれたことは,フロイトを喜ばせた。分析的な考え方の真理がよりわかるようになったと言ってくれたことは特にうれしいことであった。フロイトはアインシュタインがかつてフロイト理論にあまり納得しておらず,「儀礼上」賞讃してくれたにすぎないことを知っていると返事に書いた。いまではアインシュタインも精神分析に対して肯定的になっているようなので,フロイトはとても嬉しかった。アインシュタインはもちろんずっと若かったので,彼が80歳になるまでにフロイトの信奉者の1人になっているだろうと期待するほどだった。そこで巧みにフロイトはゲーテを引用しながら,自身の望みを茶化して,期待する「無上の幸福」について書いた。これはすてきな手紙で,新聞にはフロイトとアインシュタインの風刺画が載るほどであった。スイスの精神科医のルートヴィッヒ・ビンスヴァンガーはフロイトに宛てて「よく知られているように,誉めことばはどれほどあっても耐えられます」と書いた。
 1936年5月6日にフロイトは80歳になった。オーストリアの文部大臣がお祝いを言ってきたが,政府はナチスを刺激しないように,その優しい言葉を新聞に報告しないよう指示を出した。フロイトはアーノルト・ツヴァイクに,彼がもらった古代美術品の贈り物の数は「さほど多くもない」が,とくにツヴァイクの贈った印象の付いた指輪は気に入ったと述べた。賢いが気落ちした子どものように,フロイトはこうした多くの誕生日の贈り物にも「私は以前と変りありません」と書いている。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.221-222

言い換え

新しい研究所は1936年5月26日に始まり,すぐにゲーリング研究所として知られるようになった。マティアスはそれに対して何も邪魔するようなことはせず,10月の開所式の演説では,新しいドイツの精神療法は非フロイト的,親ナチ的,反ユダヤ主義の基盤の上に栄えるであろうと聴衆に語り,分析家として訓練を受けたい学生諸君は,洞察力のある心理学の書である『わが闘争』を読むべきであると語った。この研究所の秘書として働いていたエレン・バルテンスによれば,「フロイトの名前は決して口にされず,彼の本は鍵付き書庫の中に置かれていた」という。フロイト派の用語は呼び換えられ,たとえばエディプス・コンプレックスは「家族コンプレックス」となった。しかし用語こそ違っていたものの,概念はほとんど同じであった。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.208-209

復讐心ではない

フロイトが英国王立医学会から名誉号を授与されたのとちょうど同じころ,カール・ユング(彼はドイツ系スイス人なので,半分ドイツ人とみなせるだろう)は面倒を引き起こすことを選んでいた。ユングの行動については多くの論争があり,彼が密かにナチであったとか,ナチであると公言していたとか,反ユダヤ主義であったといって糾弾されることもよくあったが,明らかなことは彼がその状況をうまく利用したことである。いまや彼は主導的な精神分析学雑誌の編集者の任にあり,ドイツ医学精神療法学会の会長になっていた。ユングはまたドイツの精神分析を引き受ける計画にも関わっていたが,復讐心からそうしたのではないと後になって主張している。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.204

優生学的断種

ドイツのユダヤ人はまだ強制的に断種させられるところまでは行っていなかったものの,この恥ずべき政策についてはゲーリングの研究所にいた分析家たちが協力したこともあるので,説明しておく必要がある。政権を掌握してから7か月後にヒトラーは「遺伝的に欠陥のある子孫を予防する法律」を強行可決し,統合失調症,てんかん,<痴愚>,慢性アルコール中毒の症状をもつ者は誰でも断種させられることとなった。内務省は特別な遺伝保健裁判所を設立し,療養所,精神病院,刑務所,養老院の収容者を調べ,約36万人もの障害者たちが断種させられた。医師の第一の義務は害を加えないことだとするヒポクラテスの宣誓をドイツの医師の多くが軽率にも忘れたのである。
 ヒトラーは「生活に値しない」と彼が考えた者たちのことを激しく嫌った。彼の医師であるカール・ブラントと第三帝国の首相官房長官であったハンス・ラマースは,断種は第一段階にすぎないとヒトラーが彼らに言ったと述べている。不治の病を持つものを殺すほうがより賢明なのだが,平時には世論がこれを受け入れないであろう。「こうした問題は戦時のほうがよりスムーズに容易に実行されうる」とヒトラーは判断し,「戦争の際には精神病院の問題を根本的に解決する」つもりであった。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.190

エスカレート

1934年2月19日にフロイトはマリー・ボナパルトに「ナチスがここへ来て,ドイツにおけるのと同じように無法地帯になったら,もちろん出ていかねばなりません」と書いている。翌日には息子のエルンストに「できるだけ大きな騒音をかきたてるというあらゆるジャーナリズム報道の指導原則により,発砲されたこの町の中でなにが起こったのかを新聞から読み取ることは,たしかに容易ではない。われわれにいちばん痛切に感じられたのは,ほとんど24時間電気がつかなかったということだ」と書いているが,少なくともマッチがまだついたということは慰めだ,とジョークを飛ばしている。勝者は「このような状況において犯されがちな過ちをする」ものであると。
 こうした騒動ののちに,ドルフースは半独裁政権を樹立したが,彼は敬虔なカトリックであり,教会を攻撃するつもりはなかった。しかしながら,ドイツではナチスはユダヤ人に対して規制の手を緩めることなく,次々に法令を成立させ,どんどん規制をかけ,次々に暴力的行為に及んだ。律法に適った肉屋は非合法となり,ユダヤ人は第1次世界対戦で著しい功績を残したものであっても軍隊から除外された。新しい法律ではユダヤ人と非ユダヤ人の間の性行為も非合法的なものとされた。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.189-190

ライヒ

『ファシズムの大衆心理』はナチスからもフロイトからも嫌われた点で格別な本であった。アンナ・フロイトは大方の人々よりもライヒとうまくやっていたが,それは「彼を怒らせたりせずに,うまく扱おうとしていたからです。それで少しはうまくいきましたが,彼が正気の人だったらなおうまくいったことでしょう。でも彼はそうではありませんでした」と言っている。
 しかしライヒの犯している危険から判断すると,彼は狂気というにはほど遠かった。そうした問題について以前には書かなかったのは,「単に結果が怖かったのです。何度も自分の考えを紙に書きとめることを躊躇してきました」と言っている。いったんナチスが勢力を握れば,「現在の状況からみて,とてつもなく危険な可能性を秘めている」ので,彼はこの本が出版される前にドイツを去った。今日ではこの本を古典として見るものもいる。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.140

フロイトのアメリカ嫌い

イーストマンはフロイトがなぜそんなにアメリカを毛嫌いするのか尋ねてみた。フロイトの本を訳したことのあるA.A.ブリルは,1909年の訪米の際にあまり歓迎されていないとフロイトが感じていたと言っている。
 「アメリカが嫌いかどうかですか。アメリカが嫌いなわけではありません……残念に思っているのです」とフロイトはイーストマンに言い,頭を後ろにもたげて面白そうに笑った。「コロンブスが見つけなければよかったのにと後悔しているのです」
 イーストマンはフロイトとともに笑ったが,これは「むしろ彼をそそのかした」ジャーナリストとしていい手であった。フロイトは続けて,アメリカはうまく行かなかった1つの実験であると言った。
 「どんなふうにうまくいかなかったのですか」イーストマンが尋ねた。
 「それは上品ぶったところ,偽善,国家的な独立心の欠如とか」
 イーストマンはそれに対して若者たちはもっと気概のあるところを見せていると反論した。
 「ほとんどはユダヤ人の間でのことではないですか」フロイトが言った。
 「ユダヤ人が上品さや偽善を免れているとはとてもいえませんよ」とイーストマンが答えた。
 それに対して,フロイトは返答をせずに,話題を変えた。
 フロイトは行動主義の創始者であるジョン・ワトソンの名前を試すようなこともした。「ひょっとするとあなたは行動主義者なのですか。あなた方のジョン・B・ワトソンによれば,意識さえ存在しないそうです。でもそれはおかしいでしょう。意識はきわめて明白に存在しているのです。どこにでも,おそらくアメリカ以外なら」

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.106-107

ダジャレ好き

フロイトは冗談やだじゃれが好きだった。冗談について書いた本を72歳になってから改定しているほどである。彼の関心はただ表層的なものではなかった。夢がそうであるように,冗談も危険な禁忌の材料を意識の中に噴出させることを可能にしており,ユーモアは道を爆破して切り開くブローランプのようなものであった。あらゆるフロイトの肖像や写真が彼を厳格な賢人として,目に面白がった輝きや笑いなど伴わないような人物として描いていたが,そのような写真が1枚も記録されずに後世に残るのは残念なことである。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.106

絶え間ない拷問の生活

手術後にフロイトは口の中に義歯をつけねばならなくなった。これは痛みを伴ったが,つけないときちんと話したり食べたりできなかった。ずっとつけていると痛かったが,しかし長い時間はずしていると縮んできちんとつけられなくなるという重大なリスクがあった。アパートには小さな消毒室があって,旅行でもしていないかぎりアンナは義歯をはずしてきれいに洗い,口に戻すことを毎日行っていた。フロイトは常に誰かがもっとよい義歯を作ってくれることを望んでいた。しばらくフロイトはペンで書きものをすることができなかったので,続く半年間の彼の手紙はタイプ打ちであり,「うまく話ができないかもしれませんが,家族や患者はわかると言ってくれます」とサムに書いている。
 しかしフロイトは喫煙を辞めなかった。続く16年の間にフロイトは前ガン状態の病変を切除する手術を30回も行わねばならなかったのだが,最新の技法を常に心得た優秀で献身的な外科医に恵まれていた。それでも「その結果は,たえまのない拷問の生活であった」とフロイトの最後の主治医であったマックス・シュールは『フロイト 生と死』で記している。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.100-101

口唇期固着?

フロイトはよく1日に20本もの葉巻を吸っていたが,その日のニコチン量が足りないと気分が良くなかった。
 顎のガンと診断されたあとでさえも喫煙を続けた。葉巻なしでは著述が進まなかったことであろうし,禁煙しようと努力したこともなかった。
 ジョーンズはフロイトになぜ喫煙するのかと尋ねたことがない。伝統的な分析的解釈では葉巻やタバコは「乳首の代用品」ということになるだろう。それなしで済ますことのできない人は口唇期——もっとも幼児期の段階——の発達段階で固着している。フロイトは娘のアンナと一緒にいる時の快感は良い葉巻を吸ったときの快感と同じだと書いている。葉巻はどちらかといえば乳首の代用品というよりも明らかに男根の象徴であるが,この文は父親としては実に奇妙な発言である。しかしながら,ジョーンズはこのことにコメントせず,分析的解釈も一切行わなかった。もし分析していたならば,ある種の象徴的レベルでフロイトが自分の娘を乳首として見ていたのかどうかについて奇妙な問題が生じていたことだろう!

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.93-94

フロイトの揶揄

その少しあとにジェイムズ・サーバーとE.B.ホワイトが『セックスの代用としての6日間自転車旅行』という素晴らしい風刺文を発表したが,このタイトルが言わんとしているのは,ペダルをこぐことは自慰よりもはるかにましだということだ。サーバーはその後20年以上もの間,フロイトを揶揄し続けた。馬鹿げた治療的助言に満ちた本をかつぐような書評を書いたりしていたが,特に嘲りの標的としていたのが『神経症を喜べ』『成功する悩み方』『人生での成長』といった本であった。何百万というアメリカ人が心理的に抑制をかけられていて,幸福の科学を理解できないでいた。サーバーは分析の専門用語を知っていたので,多くの奥さんにとって,旦那さんの潜在的内容は十分明白である——とくに朝食の時には,などとジョークをとばしていた。彼はルイス・E・ビッシュという分析家のことをからかっていた。車に轢かれた「C氏」のような人々は無意識の動機を持っていて,性的飢餓が「C氏」を車の前に飛び出させてしまったのだとビッシュは示唆したのだが,そのことをサーバーは「疑いもなく性的重要性がある」といって揶揄したのである。『ザ・ニューヨーカー』誌に掲載された彼の風刺文は,1920年代や1930年代において精神分析がいかに影響力を持っていたかということを物語っている。
 サーバーがフロイトの喫煙癖を知っていたならどんな文章を書いただろうかというのは,想像すると楽しいものである。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.92

有名ですが

手紙の中でフロイトは自分の名声についてもよく引き合いに出しており,「ご存じのように私は有名人でたくさんの著作もあるのですが,しかしそれでも十分には稼げず,自分の蓄えを食べ尽くしてしまっています」と書いている。ウィーンの経済状況は「かなり悪く」,フロイトの最初期の支援者の1人が亡くなってからは精神分析の経済的な見通しはさらに悪くなった。オーストリア人には治療が必要であったが,しかし治療代を払う方法がなかったのである。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.88

袂を分かつ

ジョーンズがいう見事に成熟した状態からはかけ離れているが,ユングによるとフロイトは自分の権威に対するいかなる挑戦に対しても神経症的に反応した。それ以降,2人の医師は戦争状態となった。フロイトはユングの不適切な行いについての謝罪を期待していたが,ユングにすれば謝罪するような理由は何もなかった。セックスの重要性に関する見解の相違が緊張をさらに高めた。ユングにはフロイトが神経症の原因としてセックスを強調しすぎると思われ,フロイトにとってみればユングはセックスの重要性を認めることができない抑圧的なスイス人プロテスタントである。というのも,キリスト教の伝統が身体を悪いものとみなしてしまったからである。結婚におけるセックスはユダヤ人にとってみれば神からの贈り物であるが,しかしキリスト教の聖者のなかには,何年もの間,柱の上で過ごした聖シメオンの例のように,女性との接触を極端に避けようとするものもいた。フロイトとユングの間の書簡はしだいに形式ばった辛辣なものになっていった。
 1914年5月にユングは国際精神分析協会の会長を辞任した。2人は二度と話をすることなく,手紙を交わすこともなかった。この亀裂は20年後にナチスが勢力を握ったとき,重大な帰結をもたらすこととなった。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.70-71

後継ぎの息子

1906年,ユングは自分の研究論文をフロイトに送ったが,お返しにフロイトは彼の最近の小論を収めた本をユングに送ってきた。こうしたやりとりはその後の密な文通および協力の始まりを記していた。ユングとフロイトは多くの点で意見を同じくしていた。どちらも意識的な心の下には別の領域があると思っており,この精神の部分を2人とも無意識と呼んでいた。
 1907年までにフロイトはユングが自分の後継者となることを決めており,彼のことを自分の「後継ぎの息子」とまで呼んでいた。フロイトはユングが約束の地——モーセが許されなかった特権であるが——へ入ろうとしたヨシュアであると語った。この両者の精神分析家はともに自分たちを預言者であると見なしていたが,どちらも低い自尊感情に苛まれていたというわけではなかった。結局のところ,彼らの関係は運命づけられていたのであり,ただ一方の自我だけが生き残ることができたのである。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.68-69

ユダヤ人批判

フロイトはユダヤ人が誇り高いことも非難した。『創世記』および『出エジプト記』では神と選ばれた民であるイスラエルの人々とのあいだの契約が常に強調されている。つまり,ユダヤ人は無意識の去勢恐怖を引き起こすだけでなく,父なる神と特権的な関係をもっていると主張するずうずうしさも持ち合わせていることになるが,この時点ではフロイトはそのことについてあまり語っていない。
 「私はあえて言明するが,おのれを父なる神の長子にして優先的に寵愛を受ける子であると自称する民族に対する嫉妬が,こんにちなお他の民族のあいだでは克服されていない。それゆえ,まるで他の民族はユダヤ人の自負の正しさを信じてしまっているかのようなのだ」——フロイトはナチスが勢力を持つ以前からこのことを考えてきたが,何年ものあいだこうした考えを表明しようとはしなかった。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.60-61

同僚にも

最も激しい反ユダヤ主義者のなかには専門家がおり,フロイトの同僚の精神科医さえもいた。ハンス・ビューラーの『ユダヤ的なものの分離』ではユダヤ人は望むか否かに関わらず社会から「分離」すべきだと論じており,別の精神科医ヴィルヘルム・ドレスはユダヤ教徒とキリスト教徒はあまりに異なった心理的類型であるので,混じろうとしないようにすべきだと主張した。
 私が思うに,自己嫌悪的なユダヤ人はともかくとして,フロイトはユダヤ人であることについて両価的だったとは思えない。彼はこの部族の確固たる一員であったが,神を信じてはいなかった。神は人の創り出した妄想であり,ユダヤ教は他のあらゆる宗教と同様に神経症的なネアンデルタール人が必要としていた幻想であり,人類がさらに進化するために必要としていた幻想だった。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.50-51

シャルコーの息子

若き医師としてフロイトは努力したものの,大学に正規の職を得ることはできなかった。1885年に彼は当時最も劇的な「精神科医(マインド・ドクター)」だったパリのジャン=マルタン・シャルコーのもとで研修するという奨学金に応募した。シャルコーはほとんど音楽会の催し物のように自分の患者を弟子たちに見せていたが,そのなかにはさまざまな形態の狂気を示したオギュスティーヌのような花形患者もいた。シャルコーの息子はこの狂気から逃れるように,南極圏の探検家になった。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.42-43

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