忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

探偵小説好きなフロイト

フロイトはアガサ・クリスティーなど探偵小説が好きだった。彼女のミステリの中には考古学の発掘をめぐって事件が起こるものがあるが,フロイトもまた考古学に魅了されていた。フロイトとクリスティーはどちらも発掘者であった。小説においても病歴においても,過去は掘り起こして明らかにされなければならない。そうすることでのみ私たちは真実を知ることができ,安らかでいられる。フロイトは彼が明らかにしなかったことが私たちみんなのなかに「探偵的本能」を刺激していることについて驚かなかったことだろう。書類が秘密のままにされてきたのであれば,立派なものだろうと恥ずべきものだろうと陰謀や失敗だろうと,また両価性の産物だろうと,そこには理由があるのだろう。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.22
PR

永久に封印される書簡

米国議会図書館には,フロイトとその家族や友人や患者との間の書簡,ならびに臨床記録や他の論文に関する文書が153箱あるが,このうちすべてが読めるわけではない。うち20箱は2020年,2050年,2057年のいずれかまでは開封できず,8箱は「永久に」封印される。
 フロイトが自分の患者の秘密を,たとえ彼らの死後50年たっても守ろうとするのは自然なことである。しかしながら,実際の制限はこれをはるかに超えており,封印された文書すべてが秘密の医学的事項を扱ったものであるかどうかも明らかではない。対照的に,人間性心理療法の創始者であるカール・ロジャーズは自身の文書をすべて議会図書館に制限なしで譲っている。

デヴィッド・コーエン 高砂美樹(訳) (2014). フロイトの脱出 みすず書房 pp.11

四季から三季

日本では自国を紹介する時,キーワードとして「四季がある」という言葉がよく使われます。しかし,山では杉植林が,町では枝落としが,国土から「秋」をほぼ抹消したので,そろそろキーワードをアップデートしないといけませんね。これからは「日本には三季がある」ことを誇りにしていくべきでしょう。

アレックス・カー (2014). ニッポン景観論 集英社 pp.124

補助金→杉→公共事業

杉は木材として品質の低いチープなものですから,市場で人気がありません。植林事業が進められた時,杉だけではなく,桜,欅,栗,栃など,多様な樹木を用いていれば,世界で売れる木を育てられたのに,そうはなりませんでした。
 私は古民家再生の仕事でインテリアのプロデュースも行っています。その仕事を通して,「日本はこんなに山が多いのに,使える木がない」ということに気付きました。エルム(楡)やウォルナット(胡桃)のダイニングセットは世界中で人気ですが,杉のダイニングセットを喜んで買いたがる人は,ほとんどいません。
 こうした状況下で,杉の使い道として唯一残るのは公共工事です。最近では売れない杉をどうにかしなければいけないことから,駅や学校など公共施設に杉を使わせる行政指導が進んでいます。木造建築が増えるのはよいことですが,結局,補助金で植えた杉を補助金で建てる建造物に使う,という補助金サイクルに迷い込んでいます。

アレックス・カー (2014). ニッポン景観論 集英社 pp.120-121

工業モードへの慣れ

文化財修理の時に文化的でない仮設を作ってしまう背景には,精神的な問題もあるように思えます。つまり,大きな工場を思わせる「トタンハウス」の方が,木や瓦でできた元の寺院より立派で,技術的に進んでいて,文明的だ,という思い込みです。
 一般の観光客は日常から「工業モード」に慣れているせいか,神聖な場所,あるいは歴史的な空間に,どんなにみすぼらしい建造物ができても違和感を覚えないようです。例えば伊勢神宮は,あれほど自然素材と伝統的な宮大工の技術を大切にしているにもかかわらず,最近行われた式年遷宮の際には,やはりプレハブの鉄筋ハウスを仮設して作業を行いました。

アレックス・カー (2014). ニッポン景観論 集英社 pp.112

建設業依存

インフラの建設や看板の設置が必要な場所は当然あります。ただし,それには適切な整理と管理が欠かせません。
 社会が必要とする施設を作る,そうでないものは作らない,施設を作る場合には,周辺の環境に与える影響や経済効果を調査して,きちんと分析する。また,老朽化した不要な施設は取り壊して撤去する。それらの仕事を,国内での慣習的な発注工事だけに頼るのではなく,諸外国の技術も巧みに取り入れて行っていく。それこそが先進国のあり方です。
 公共事業にお金をばらまくと,経済効果は確実に出ます。その意味で,私は公共工事を減らすよりは,増やすほうがいいと思っています。
 良し悪しは別として,日本の経済が建設業に依存してしまっている現状がある以上,急に補助金付きの公共事業をやめれば,致命的ともいえる社会混乱に陥ることでしょう。
 ただし,公共事業はもう50年来「自動操縦」になっていて,何かを作るなら,高速道路,林道,ダム,新幹線,護岸工事,といった決まりきったパターンに固まっています。それより社会が本当に必要とするものにお金を投じ,「中身」を変えることが重要です。
 これからの公共事業で大きな課題となるのは,「足し算」より「引き算」です。その観点で見れば,電線の埋設も,不要な施設の取り壊し・撤去も,巨額の費用が必要で,かつ,たくさんの雇用を生む事業となります。
 実際,アメリカでは,この数10年で数百の不要なダムを取り壊しました。しかし日本では取り壊し作業はほとんど顧みられず,その結果,各地に醜い構造物,錆びた看板,閉鎖した工場などが溜まり,実に殺伐とした汚らしい光景が広がっています。日本は戦後の約70年で,見事なまでに国土を汚してしまいました。

アレックス・カー (2014). ニッポン景観論 集英社 pp.89-90

看板は複数ないと!

日本には看板が1つでは足りないという原則もあるようです。その理由を私なりに考えました。

 1 理解力:人間は頭が悪く,繰り返して言わなければ理解できない。
 2 感覚の麻痺:看板が氾濫し過ぎて麻痺が起きている。メッセージの重複が目に入らない。
 3 移設・撤去のタブー:看板を設置した後は,二度と人の手が触れてはいけない。
 4 献納精神:看板の設置は献納を意味しており,春日大社の灯籠や,伏見稲荷の鳥居にも見られるように,より多くを設置することが徳を得ることにつながる。
 5 シンメトリーの美学:右近の橘,左近の桜……ひな飾りにも受け継がれているように,昔からシンメトリー(左右対称)の美学が大事にされている。

 柵の中に絶対に入らないでほしい時は「柵の中に入らないでください」を左右対称に配置します。紅葉で美しい公園のベンチにも,左右対称に張り紙が貼ってあります。「神話」とともにもう1つ,日本ならではの「美意識」が看板にも反映されていることには感心すら覚えます。

アレックス・カー (2014). ニッポン景観論 集英社 pp.45-48

看板自体が

「消費税完納推進の町」——これは,一種のプロパガンダです。「人権尊重の町」「交通安全宣言の町」……などもその類です。
 中国の毛沢東やソ連のスターリン時代の共産党を見ても分かるように,スローガンや呼びかけに囲まれても,人間はそれを本能的に無視します。つまり,こうした看板は空回りに過ぎず,何の効果もありません。
 「きれいにしましょう!」という看板にいたっては,この看板自体が町を汚くしています。
 ここにも日本における「神話」が作用していますね。

アレックス・カー (2014). ニッポン景観論 集英社 pp.37

「神話」

そもそも,この神話の前提としてあるのは「日本の国土は外国と違うから,できない」という思い込みです。それは「日本人の胃はアメリカ人と違うから,アメリカの牛肉は食べられない」「日本の雪はヨーロッパと性質が違うから,フランスのスキー板は危ない」など,一時期,お役所が輸入を制限した時の,笑い話に近い理不尽な理由付けと同じです。
 「日本は独自の……」と始まる話は大抵,「従来のやり方は変えられない」という結論で終わります。そして,その途中に述べられている理由も,大抵はこじつけです。

アレックス・カー (2014). ニッポン景観論 集英社 pp.27

ごく普通

「事情を聞いても,本当のことを話しているかどうかわからない。本人でさえ,わからないんだ。自分の気持ちも整理がつかない。自分がやったわけではないのに,やりましたと言ってしまう。愛しているのに,殺してしまうこともある。こんなことをしてはいけないとわかっていても,やらずにはいられない」
 「そうですね。そういうのって,普通のことなんですよね」
 「そう。ごく普通だね。異常な人間だけが,そんな変な行動をとる,とみんな思っているけれど,そうじゃない。みんな普通の人間だ。普通の人間というのが,もうだいぶ変なんだよ。変だからこそ,変じゃないように,理屈とか道徳とか,そういうものを考えて,それになるべく添った思考や行動を選択しようと努力をしている,といった感じかな」

森博嗣 (2014). サイタ×サイタ 講談社 pp.180

複雑な眺め

日本でも景観工学に関する学術的な研究は盛んです。ただし,欧米と異なるのは,その適用においてです。日本では条件がそれぞれに異なる場所でも,全国一律の規制で縛り,その単純で融通がきかない運用を景観工学と,とらえがちなのです。その結果,何が日本に出現しているかと言うと,こと細かな規制とは正反対の,煩雑な眺めです。

アレックス・カー (2014). ニッポン景観論 集英社 pp.18

公表

「うん,だから,犯人を捕まえたらね,ただ,犯行を立証するだけにして,動機とか,そういう感情面のことはきいても,公表しない方が良いと思う。じゃないと,社会のみんなに理解してもらえるという,一種のご褒美を与えるようなものでしょう?」
 「そういう考えもあるわね」小川は頷いた。「だけど,それじゃあ,裁判にもならないでしょう?あと,犯罪者であっても,人権はあるし,その人を更生させなきゃいけないわけだし,その責任が社会にあるわけ。となると,やっぱり事情を聞いて,理解してあげないと」
 「そうか,そうですね」真鍋は頷いた。「そういう優しさが,必要とされているんでしょうね。だけど,連続殺人犯とか,凶悪犯になると,更生させるわけじゃなくて,死刑とか無期懲役とかになるわけですから,やっぱり,犯人を満足させてしまってはいけないんじゃないですか。そうしないと,同じことをする人間があとから出てきますよね。ああすれば,自分のことをみんなに聞いてもらえるんだって考えて,真似をする人が現れます。ありましたよね,そういうの」

森博嗣 (2014). サイタ×サイタ 講談社 pp.63

民主主義についての思い込み

民主主義についての思い込みは,科学についての思い込みと密接な関係がある。人々は科学が自然の謎を解き明かす的確な方法を提供し,取調官の個人的な偏見を排除してくれると思い込んでいる。嘘発見器に関しては,この思い込みは20世紀の新しい思想と対になっている。自然の生物である人間は,その考えや感情が身体に表れるという思想である。これに基づき,嘘発見器の提唱者たちはみずからの技術を組み合わせて機械仕掛けの預言者を作り,嘘の隠れた証拠を身体から読み取ることができるとした——が,こうした主張をするときに科学者ならふつう要求される詳細な検討作業は避けた。嘘発見器とその流れを汲む装置は,正統派の科学から繰り返し批判された。しかし,正統派の科学から批判されているからといって,何百万ものアメリカ人が何かを信じるのをやめたことがあるだろうか。しかも,マスコミはその力を盛んにほめそやしているのである。迅速かつ確実な裁きを求める国民にとって,嘘発見器の力がはったりであるかどうかなどたいした問題ではない。嘘発見器が「役に立つ」のであれば,それでかまわない。事件を解決し,自白を引き出し,忠誠心を確保し,信頼性を確認してくれるのだから。ひとことで言えば,嘘発見器は答を与えてくれる機械であって,これほどありがたいものはない。嘘発見器は「真実を教える技術」というより,「真実らしいものを教える技術」なのである。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.363

重要なプロジェクト

嘘をつくのは人間の性である。正直な社会など存在した試しがないし,これからもありえない。そして,嘘や偽善の程度をはかる方法はないのだから,どこかの社会がほかより不正直だと見なす根拠もない。むしろ,文化のちがいが表れるのは,嘘にどう対処するかであり,どのような嘘を批判し,どのような制度を作って嘘を暴くかである。嘘を暴くために科学技術に目を向けたのはアメリカだけである。ポリグラフは医療技術を利用した平凡な機械にすぎず,使われている生理学機器はどの先進国でも1世紀前から入手できた。にもかかわらず,それに尋問という新た目的を与えた国はアメリカ以外にない。
 嘘発見器がアメリカで歓迎されたのは,この装置が20世紀の重要なプロジェクトのひとつで一定の役割を果たせると期待されたからである。そのプロジェクトとは,集団生活の根幹にかかわる道徳的な問題を——どうやって公正な社会を実現するかという問題を——法的に解決することが目的だった。これを実現するにあたって,われわれの市民生活に関するふたつの高尚な真実が——しかし一部しか真実ではない思い込みが——プロジェクトの正当化に使われた。民主主義には社会生活の透明性が欠かせず,正義には万人に対する平等な扱いが欠かせないとする思い込みである。共通の歴史や民俗的な近似性ではなく,明確な政治的契約によって誕生したアメリカという国の人々は,人々の対立も明確な公的ルールによって解決したいと——裏では汚い手が使われるにせよ——願ってきた。そしてこのルール自体が公正ではないと抗議されないよう,最も客観的で最も透明性に富む形でルールを決めてくれるはずの科学によってそれを正当化しようとした。社会契約の原罪たる嘘を,アメリカ人が科学という薬を大量に用いることで治療したがるのは,ここから来ていると言える。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.362-363

実際には

さらに,どんな嘘発見技術にもつきものの問題もある。薬物を使用する,精神的な訓練を受けておくといった対抗手段を用いれば,新しい検査法もあざむけるかもしれない。被験者の記憶ちがいや思い込みや事件への個人的なかかわりも判定の妨げになる。そのうえ,新しい方法も古い尋問のソフトウェアをそのまま使っている。刺激試験,有罪知識検査などである。つまり最新の技術も,手品の古典的なテクニックである「ミスディレクション」を再利用しているのであって,仰々しい最先端機器に被験者の注意を引きつけつつ,実際には昔ながらの尋問技術を使って成果をあげているだけだと言えるかもしれない。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.359

本当に測定しているのか

しかしながら,こういった新しい検査法はいかにも最新式で信頼できそうだが,古いポリグラフ技術の悩みの種であるあいまいさの問題を解決できたわけではない。新しい技術の研究者も,嘘と身体反応には関係があると——両者の間に何か介在しているものがあるにせよ——見なしている。もちろん,ここでいう「身体」とは内臓ではなく脳のことだが,研究者はあたかも脳の「感情」が下等な心臓や腹部よりも信頼でき,偽りにくいものであるかのように考えている(ただし,下等な器官が完全に無視されているわけではなく,腹筋の無意識の反応に注目する嘘発見技術もある)。具体的に言うと,ほとんどのfMRI研究者は,有罪知識を検査するとき,脳の前頭葉で何か特別な反応が出ていないかを探す。平静さを保とうとするのは,この部位の働きだと考えられているからである。この際に前提となっているのは,ありのままに記憶を思い出すのが人間の正常の状態であって,嘘はそれをごまかそうとする病的な行動にほかならないという考え方である。しかし,1世紀前にマーストンがミュンスターバークの言語連想検査をおこなっていて気づいたように,好んで嘘をつく者もいるし,意識しなくても平静さを保てる者もいる。実際,別のfMRI研究者は,モンテーニュが4世紀前に嘆いた事実を発見している。嘘は何十万もの形をとり,とっさにつく嘘もあれば,前もって周到に用意していた嘘もある。そのため,記憶や想像の産物がごた混ぜになっており,脳のさまざまな部位の働きが関係しているらしいのである。それに,罪悪感を感じやすい被験者もいれば,ふてぶてしい被験者もいる。20ドルの報酬で実験者の「興味深いシナリオ」に協力するのを被験者が拒んだら?記憶を勝手に作り出したり,とりたてて理由もないのに罪悪感を感じたり,平然と嘘を繰り返したりするのが人間の精神なのでは?進化の過程で動物が天敵を(無意識のうちに)あざむくすべを身につけたように,われわれも嘘をつくすべを身につけたのではないのか?

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.358-359

科学で抹殺できない

嘘発見器は科学から生まれたものではないから,科学では抹殺できない。嘘発見器のすみかは研究室でもなければ法廷でもなく,新聞印刷用紙であり,映画であり,テレビであり,それからもちろん大衆紙やコミックやSFである。経済学のもっと仰々しいことばを借りれば,嘘発見器は需要に主導されている。80年以上にわたり,脈動するホースと収縮する膜からなるポリグラフは,需要に応える「科学」を提供してきた。いまようやくポリグラフの時代は幕をおろそうとしているように見えるが,それは科学が変わったからではなく——それなら何十年も前に起きていた——人々が別の科学を信じるようになったからである。現状は混沌としている。職場での嘘発見器の使用ははっきり退けられたが,法廷はポリグラフの検査結果を証拠採用するよう圧力をかけられているし,アメリカの政府機関の多くは新しい嘘発見技術を進んで取り入れようとしている。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.341-342

晩年

ある施設で働いていた若い心理学者は,自分の上司が嘘発見器の開発者として有名なあのジョン・オーガスタス・ラーソン博士であると知って驚いた。威厳のようなものがまるでなかったからだった。脚は不自由で,耳はほとんど聞こえず,目も悪く,呑み込みも遅かった。この心理学者は,ラーソンのことをとっくに80歳は超えていると思ったが,実際は67歳だった。それでもラーソンは「日に15時間から20時間」働き,牧師はラーソンが患者ひとりひとりに向ける思いやりに満ちた態度を賞賛した。「ラーソンは,その理想主義と,経済的な利益のために妥協するのを拒む性格のせいで,多くの人から誤解されている。自分の信念を守るときは躍起になる」。不正との激しい戦いを長年にわたって繰り広げた結果,ラーソンはまわりから変わり者として見られるようになり,映画『ドクター・ディッピーの療養所』に出てくる,自分の患者と同じくらい異常な精神科医に近い人物になっていた。
 ラーソンは,精神科医としての最後の数年間を,各地の精神病治療施設の院長として過ごした。モンタナで10カ月,アイオワで2年,サウスダコタで1年働いたのち,70歳になった1963年からナッシュビルで隠退生活に入り,社会保障手当と月200ドルの年金で暮らしはじめた。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.335-336

精神支配競争

冷戦期には核軍拡競争と平行して「精神支配競争」が起きていた。もし嘘発見器がアメリカの恐怖を映し出す鏡であるならば,冷戦期の政治家がそこに見いだしていたのはソ連によるマインドコントロールだった。CIAは全職員にポリグラフ検査を義務づけていたが,アメリカが開発しているのと瓜ふたつの科学的尋問技術を敵国も開発していると考えていた。嘘発見器,アモバルビタール,LSD,催眠術,電気ショック,ロボトミーなどである。
 1950年代はじめ,CIAはブルーバード計画とアーティチョーク計画を秘密裏に実施したが,このとき敵国の工作員と思われる人物をポリグラフで徹底的に検査し,その結果を「口実」にしてもっと強引な尋問手段を用いた。これはもともとCIAの諜報員を守る目的で許可された計画だったが,すぐにその内容は拡大され,守りより攻めに適した手段の開発も組み込まれた。ポリグラフ検査技師は催眠術師も兼ねており,LSDやその他の薬物の自白剤としての効果を観察した。CIAはこうした計画を名目に使い,嘘発見器のさらに上を行く極秘の新しい尋問技術を——どれも嘘発見器と関係の深い技術だったが——開発し,被験者に強烈な心理的圧力を加えようとした。感覚を遮断する,つらい姿勢をとらせる,断眠を強制するなどの方法である。被験者の意思を打ち砕き,自尊心を奪って服従させるために編み出されたこのような心理的拷問は,冷戦期のCIAできわめて重要な尋問手段になり,今日の「テロとの戦い」にもさっそく利用されている。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.294-295

DISC理論

それでもめげなかったマーストンは,1930年代末には一般大衆に取り入る新たな手段を見つけ,女性誌に「大衆向け心理学」の記事を書いて自分の理論を売り込み,向上と適応を説く科学者兼伝道師になった。「人生に挑戦しよう」がキャッチフレーズだった。マーストンが開発し,いまも根強く残っているものに,誌上心理検査がある。マーストンの検査は,支配欲と服従欲を分析し,読者が家庭や職場にうまく順応できるようにするためのものだった。今日,それはDISC理論と呼ばれており(主導[ドミナンス]のD,感化[インフルエンス]のI,安定[ステディネス]のS,慎重[コンシエンシャスネス]のC),販売元はいまでもこんなふうに大々的に宣伝している。「世界で最も長い歴史を持つ最も信頼性に富む独自のアセスメントツールで,5000万人以上が利用し,生活や人間関係や仕事の能率やチームワークやコミュニケーションを改善するのに役立てられています」。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.263-264

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]