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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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嘘発見器の登場

19世紀のアメリカ人が見知らぬ者と市場で取引するとき,売り手や買い手が信頼できるかを判断するために使われたのは,観相術や骨相学や筆跡学といった性格学だった。つまり,相手の容貌や頭の形や手描きの文字から信頼できるかどうかを見定めようとした。しかし,そもそもこうした学問自体が信頼性に乏しかったため,19世紀の人々はだまされた場合の損失額を取引額に上乗せしておくことも忘れなかった。経済学者たちは,20世紀はじめに企業資本主義が生まれたのは,もっぱらこのような詐欺などの「取引コスト」の回避策になったからだと主張している。事業主たちは,自由市場で怪しげな品を買うよりは,経営者を雇って自分たち専用の供給元を直営させたほうが経済的だと考えるようになった。こうして階層構造を持つ企業体が誕生した。しかし,規模が大きくなり,従業員の入れ替わりが激しくなるにしたがい,事業主は従業員の人となりを把握できなくなっていった。20世紀の経営者にとって,祖父母の時代のイカさま商人と,自分のところの従業員のどちらが信頼できるかは知れたものではなかった。
 そこに嘘発見器が登場した。この装置は,従業員の信頼性を調べることができるだけでなく,不正行為の抑止力になると期待された。キーラーが銀行のためにしたことは,どんな大組織にも応用できた。かつて人びとに正直であることを義務づけていた宗教的・道徳的規範が,アノミー化した近代都市文明のために力を失っているいま,この機械はそのかわりを果たしてくれると歓迎する社会学者もいた。社会学の草分けであるアーネスト・バージェスは,嘘発見器を「社会統制の科学的補助手段」と呼んではばからず,金品を管理する立場にある者が「誘惑に屈する」のを防ぐ力があると主張した。嘘発見器は,根無し草の国民の,科学でできた良心になるはずだった。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.231-232
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筆跡鑑定士

筆跡鑑定士は法廷ではじめて「専門家」という輝かしい称号で呼ばれた証人であり——それはルネサンス期にさかのぼる——嘘発見器の研究者を含め,のちの法科学者の原型になった。どんな法科学者も,人間の身体活動は特定の痕跡を残すという考えを基本的な前提にしている。たとえば,筆跡鑑定士によれば,文字の書き方には書き手の性格がはっきり表れる(性格[キャラクター]ということばは,刻印に用いる先のとがった棒を意味するギリシャ語が語源である)。やがてこの癖は——先天的なものであれ後天的なものであれ——体に深く染み込み,完全に隠したりまねしたりするのは不可能になる。実際,近代初期の筆跡鑑定士たちは,この深く染み込んだ癖こそ文章の偽造を防ぐ最良の武器であると忠告していた。つまり筆跡鑑定士は,逆説的な言い方になるが,書き手の無意識の癖に頼って,最も意識的な行動であるはずの署名を本物かどうか確認するのである。これはポリグラフの検査技師が,無意識の生理的反応によって,意図的に発したことばの真偽を見極めるのとよく似ている。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.203

正義の問題

これは科学のみならず,正義の問題でもあった。司法システムは医療と同じく,被験者を個別に扱うよう求めている。腸チフスの患者の90パーセントが死ぬとわかっていても,医者は患者ひとりひとりに生き抜く力があると考えなければならない。それと同じで,たとえ10パーセントの確率でも,無実の人間を誤って犯罪者としてしまう可能性があるのなら,嘘発見器で有罪かどうかを決めてはならない。アドルフ・マイヤーのもとで研鑽を積んだとき,ラーソンは人間がだれしも同じではなく,それぞれが自然の実験装置であると教えられた。「われわれはこれまでも誤りを犯しましたし,きっとこれからも犯しつづけるでしょう」とヴォルマーへの手紙に書いている。嘘発見器も陪審団に誤った情報を伝えてしまうかもしれず,誤審を招きかねなかった。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.192-193

自白させるコツ

これは大きな意味を持っている。心理学の研究によれば,たとえ空の箱であっても,その装置にかかれば自分の感情が見抜かれると思い込んだ被験者は,反社会的な考えを持っていることを認めてしまうという。これはどんな取調官の手引きでもすすめられている方法である。相手に告白させるためには,何をしたかこちらがすでに知っていると思わせ,非難を控えることによって,抵抗感をやわらげてやるといい。ローマ・カトリック教会が聴罪師に匿名での懺悔を認めているのもそれが理由だし,信者は神が自分のおこないを知っていて,すべての罪をお許しになると教えられる。容疑者も同じように,嘘発見器の前で自白するのは,人に対してではなく,すべてを知り理解している科学に対して自白するのだと信じるように仕向けられる。もちろん,裁判官と陪審団はそこまで親身になってくれないと思い込まされる。
 だからといって,すべてのアメリカ人が嘘発見器に全幅の信頼を置いていたわけではないし,否定派もけっして少なくはなかった。キーラーやその支持者の努力にもかかわらず,装置をいんちき呼ばわりする声は早くもバークレーの時代からつねにつきまとった。しかし,どれだけ強く疑おうと,疑うという行為そのものを疑う余地は残る——興行師のP.T.バーナムはこの手の自己不信につけ込むのが実に巧みだった。ひょっとしたらこんな機械でもほんとうに役に立つのかもしれない。後ろめたいことがあると顔が赤くなって鼓動が早まるというのはありえる話では?椅子に縛りつけられたら,だれでも動揺するのでは?そして検査技師にいきなりカードをあてられたら……。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.187

予言の自己成就

1930年代末,キーラーは嘘発見器を使っている警察署に対し,非公式にアンケートをとった。回答したのは13の地域の警察で,イーストクリーブランド,トレド,インディアナポリス,カンザスシティ,バッファロー,ホノルル,マジソン,セントルイス,シンシナティ,ウィチタの市警察と,ミシガン,インディアナ,ノースダコタの州警察である。概算によれば,9000名近くの被験者のうち,97パーセントが「自発的に」検査を受け,1パーセントのみが拒み,2パーセントは検査の前に罪を告白した。被験者の3分の1が「疑わしい」反応を示し,うち60パーセントが自白に応じた。罪を認めなかった被験者の半分はあとになって自白し,残りの半分は疑いを晴らした。疑わしい反応を示さなかった3分の2の被験者のうち,裁判で有罪判決をくだされたのは0.3パーセントにすぎなかった。
 このアンケート結果は,キーラーの個人的なファイルの中に長いあいだ埋もれていたものだが,部外者が見ていないときに嘘発見器がどう使われるかを浮き彫りにしているといえる。アンケートの結果を額面どおりに受け取るべきではない。何かが起きるかもしれないと思っていると実際にそうなってしまうことを「予言の自己成就」というが,嘘発見器もそれと同じで,警察や検察が容疑者を選別する手段になりかねない。自白させてすみやかに事件を解決するのか,起訴して徹底的にやり込めるのか,釈放するのかを嘘発見器があらかじめ決めてしまうのである。カンザスシティの刑事部長は,「嘘発見器と刑事の一団のどちらかを選ばなければならないとしたら,嘘発見器を選ぶ」と述べている。ミシガン州警察の警官は,自分の嘘発見器がいくつも事件を解決したので,これ1台だけで1938年に2万5000ドルの訴訟費用が節減できたと試算している。
 もちろん,このような効率主義は犠牲をともなった。ウィスコンシン州マディソンの検査技師は,嘘発見器で脅したとたん,4人が犯罪を自白したと誇らしげに回答している。そして,自殺した者も入れれば5人だと余白に書き込んだ。自白が真実でない場合は1パーセントにも満たないと警察は考えていた。アメリカ人は糾問主義的な裁判は過去の話だと思いたがるが,自白があてにならないことはよく知られているにもかかわらず,いまもなおそれは「証拠の女王」でありつづけている。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.184-185

金魚部屋

表向き,イリノイ州で逮捕された者はただちに裁判官の前で弁明する権利があった。暴力による脅しも禁じられていたし,自白の強要が明らかになれば有罪判決も覆された。だが実際には,警察は過酷な取り調べを繰り返して自白を引き出した。容疑者を眠らせず,「金魚」部屋に連れて行って腹をゴムホースで打ち,顔を水に漬け,すねを蹴り,金魚が見えてくるまでシカゴの電話帳で頭を殴りつづけた。報告書には,シカゴの電話帳は「分厚い本である」とわざわざ記されている。
 国際警察署長協会の面々は,自分たちの行状への非難に憤った。報告書は「警察職務に対する過去半世紀で最大の攻撃」であるとし,言われているような第三度(サード・ディグリー)の存在を否定した。ただし第三度なしでは職務を果たせないとも主張している。痛めつけるのは罪を犯したのが明らかな者のみであって,警察署の断固たる正義が犯罪を抑止し,容疑者から自白を引き出して犯罪者が法の網から逃れるのを防いでいるのだと訴えた。シカゴのある警官は,第三度なしでは署の仕事の95パーセントが無駄になるだろうと述べた。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.162-163

客観的な測定方法のひとつ

嘘発見器も,同じアメリカの流れに属するものであり,個人の主観的な判断にかわりに客観的な方法を持ち込み,政治的対立を科学で解消しようとする啓蒙運動の一種だった。知能検査が「G因子」という単純なことばで知能をとらえなおし,テイラー・システムが労働を一連の動作としてとらえなおしたのとちょうど同じように,嘘発見器は尋問をイエスかノーのどちらかで答えさせて嘘を追求する作業だととらえなおした。アメリカ人は,人間の優劣や労使の対立をめぐる問題に客観的な機械が答を出してくれるのではないかと夢見ていたが,ヴォルマーらも嘘発見器が公平な機械として正義の裁きをもたらしてくれるだろうと考えていた。実際,アフリカ系アメリカ人のコミュニティーには,嘘発見器が刑事裁判での偏見をなくす手段になるとして歓迎する向きもあった。アメリカで嘘発見器が期待を集めたのはそれが大きな理由だった。実情はともかく,被験者の信頼性を評価するのは検査機器であって検査技師ではないとされたからである。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.159-160

精神生物学

1927年,医学博士のジョン・A・ラーソンはシカゴという悪の巣を離れ,ジョンズ・ホプキンス大学医学部の特別研究員として精神医学を学ぶことになった。同大学のフィップス・クリニックの院長をつとめるアドルフ・マイヤーは,アメリカで最も影響力のある精神医学者だった。スイスで神経科学を学び,近代的な臨床技術を新大陸に導入した人物で,ウィリアム・ジェームズとジョン・デューイの影響を受け,「人間の新しい概念」に「真にアメリカらしい進歩」がもたらされる可能性を見いだしていた。ラーソンが特別研究員になれたのは,またしてもヴォルマーの人脈のおかげだった。ヴォルマーの執務室で,マイヤーはラーソンに引き合わされていた。マイヤーは自分の理論を「精神生物学」と名づけ,1926年にラーソンら青少年研究所の職員の前でその原理を説明している。
 精神生物学は,競合する各学派をひとつの旗印のもとにまとめる学問だった。動的心理学を強調するフロイト学派,目に見える具体的な行動を重視する行動主義心理学,分類にこだわる精神医学,脳の機能に注目する神経科学,身体と感情の相関関係を研究する生理学,さらには環境の働きを探る社会学までも取り入れていた。この寄せ集めの各派を統合する軸となるのが,個々の患者——マイヤーは「人」というあっさりした呼び方をしている——に対する強い関心であり,人間はみな「自然の実験装置」であるとされた。動物は環境に適応しなければ淘汰されるしかないが,精神生物学者は生活環境に適応するのを手助けする。マイヤーの理論は単純であり,人道にかなったものだった。しかしあまりに単純化されすぎていて,道徳主義的にすぎると批判する向きもあった。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.153-154

キーラー・ポリグラフ

解決しなければならない重要問題がもうひとつだけあった。装置の名称である。新聞記者たちは「嘘発見器」の呼び名をすでに使っていたが,装置は嘘そのものを発見するわけではないので(実際にはまさにそのために使われていたのだが),専門家たちはこの呼び名をきらっていた。キーラーが代案を求めると,チャールズが単純明快な名称として「感情(エモト)グラフ」という名称を提案した。キーラー自身はずっと前から,いろいろな意味合いを読みとれる「反応(レスポンド)グラフ」という名称に愛着を持っていた。最終的には「キーラー・ポリグラフ」に落ち着いた。「ポリグラフ」はこれまでも,体のさまざまな反応を記録する装置にたびたび使われてきた名称である。のちにラーソンは,この決定が転落のはじまりだと考えるようになった。人間の精神の健常な状態と病的な状態を探る研究が,「金儲けをねらった,機械を作るだけの」ベンチャー事業に成り果てた瞬間だったからである。ラーソンがやがて述べるように,「多くを記録する装置」という意味のごくありふれた名称は「なんら特別な意味を連想させない」巧妙なもので,キーラーの個人的な技量を際立たせるだけだった。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.130

開かれた科学とノウハウの独占

「開かれた科学」は,客観的な知識が科学者の「無欲」から生まれるという考え方を前提としている。科学者は金銭よりも研究成果の公開を優先しなければならない。そのためには——近代科学の歴史の中でときどきそういった主張がされてきたのだが——実力のみに基づいて科学者を評価する機関が,研究をつづけるのにじゅうぶんな資金を提供して報いる必要がある。こうしたシステムのもとでは,評判が科学者にとって最大の財産になる。しかし,そうした知識のためになぜ社会が金を出さなければならない?君主制国家や私立大学なら,みずからの威信のためにスポンサーになるかもしれないが,これではアメリカが物理学のために金とバレエのために出す金で,どうしてここまで差があるかを説明できない。実際のところ,これほど差がある大きな理由は,開かれた科学が人びとに知識を提供できれば,いますぐは無理でも長い目で見ればだれかの役に立つと(しばしば科学者自身によって)説明されてきたからである。こういう事情があるため,以前から科学者たちは,いずれはスポンサーの利益になるような研究を選んできた。
 これに対し「ノウハウの独占」は,社会に有益なものを生み出すのが第一の使命であり,製品やサービスの形で知識から利益を得るのを目的としている。しかしながら,そのためには知識を秘密にして,市場価格を損なったり競争相手を利したりするのを避けなければならない場合が多い。中世のギルドやコカ・コーラやマンハッタン計画などはその典型例だろう。問題は,知識を秘密にするのがたやすくなく,特にそのノウハウの実用性を他人に証明するとなれば,なおさら秘密にしにくいことである。社会もまた,貴重な秘密が発明者とともに失われ,新しい知識につながらずに終わってしまうのではと懸念する。近代社会が特許制度を編み出したのはこうした事情からであり,これは期限つきで知識の独占利用を許すと同時に,発明者に公表の責任を負わせる制度である。この場合,発明者にとってはタイミングが重要になる。つまり,いつまで情報を秘密にし,いつ特許を出願するか決めなければならない。知識の独占によって利益を得ているために,知識を切り売りする者たちが「無欲」とは見なされにくいという問題もある。
 もちろん,知識を得るための方法が,いま説明したようなふたつのアプローチのどちらかにきれいに分けられることはまずない。近代の民主社会では,両者が渾然一体となっており,一方が決定的な主導権を握っているわけではない。開かれた科学をめざす発明者でも,その多くは研究成果を社会問題の解決に役立てたいと考えている——みずからの研究が正しいと認めてもらうためにも。ノウハウの独占を追求する者でも,その多くは評判を非常に気にかける——みずからの発見や技術の商品価値をあげるためにも。開かれた科学とノウハウの独占は,仇敵同士でありながら,どちらが欠けても立ちゆかないものなのである。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.125-126

リンチとサード・ディグリー

法が頼りにならない場合,アメリカの伝統的な解決策はふたつあり,1920年代のロサンゼルスではそのふたつが——群衆によるリンチと第三度(サード・ディグリー)が——ともにおこなわれていた。リンチは南部の奴隷監視員の遺産で,人々は当然の報いを受けさせるために集まり,みずからの正義に酔いしれながら犠牲者を殺害した。第三度は北部の都市の警察官が使いはじめたもので,専門家がもっと計画的に容疑者を痛めつけ,首に自白調書をくくりつけて方の正式な手続きの場に送り込むのを目的としていた。1920年代前半にクー・クラックス・クランがアメリカで第二の絶頂期を迎えるにつれ,都市でもリンチが見られるようになり,第三度はリンチの代替手段として警察署内でおこなわれた。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.111

心理学者の態度

簡単に言うと,こうした正統派の心理学者たちが否定的な見解を示したのは,嘘発見器が最近になって認められた心理学の科学的権威に挑戦すると同時に,それを利用していたからである。この権威の源となっていたのは,教養のある実験者のほうが素人の被験者よりも優位にあり,物理学や化学や生物学の研究者と同じく,精神の性質を自然の物体のように扱えるという考えだった。行動主義心理学研究の中心だったワトソンの学派などは,この考えをさらに推し進め,研究に値するのは被験者の行動であって意識ではないとまで見なしていた。そのため,嘘発見器の根本的な前提を受け入れるのは——被験者の中には意図的に嘘をつく者もいるという前提を受け入れるのは——心理学の研究がほかの科学研究とはちがうものであると認めることにほかならない。つまり,被験者には被験者の思惑があって,実験者を出し抜いてしまう場合もあるということを受け入れなければならなかったのである。すでにハーヴァード大学の研究者は,実験の目的を被験者が知っていると,嘘を見抜けないときがあることを発見していた。賢い被験者だと,「嘘を見抜かれまいと妨害する」ときまであるという。妻と協同で研究していたマーストン自身も,嘘つきにはさまざまなタイプがいることに——男と女,黒人と白人,嘘が上手な者と下手な者といった具合に——気づきはじめていたが,どんな人物が検査するかによって被験者の反応がちがってくるという衝撃的な事実も発表していた。たとえば,実験者が男(マーストン本人)か女(マーストンの若い妻)かによって,結果が左右されるのである。これは容易ならない報告だった。マーストンは認めていたが,心理学がほかの科学と別物だということになってしまうからである。
 今日のわれわれは,この「発見」を聞いても当たり前すぎて別に驚かないし,むしろこれを認めようとしなかった心理学者たちの態度に驚かされる。だがよく考えれば,このような心理学者の態度も理解できないわけではない。被験者が実験者をあざむくということを認めれば,実験者も被験者をあざむくことで対抗しなければならなくなる。被験者から正直な答えを引き出すために,心理学者が実験で嘘を言うことも辞さなくなるのは,30年も先のことである。当時はまだ,嘘発見器を否定することと,心理学者たちが科学にとって最も大切だと見なしているものを肯定することは同じだった——研究者は正直であらねばならなかった。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.96-97

賛成・反対

3年後,高名な法学教授であるチャールズ・マコーミックは,「しかるべき」科学の専門家ということばに最もふさわしいと思える正統派の心理学研究者らを対象に,意見調査を実際におこなった。質問に回答を寄せた38名の科学者のうち,18名が嘘発見器の検査結果を裁判官と陪審員に示すことに一定の賛意を示し,13名が反対した。残りの7名は「どちらとも言えない」考えを持っていた。熱心な賛成派にはウィリアム・マーストン,ロバート・マーンズ・ヤーキーズ,そしてノースウェスタン大学学長の産業心理学者ウォルター・ディル・スコットらが名を連ねた。反対派には,嘘発見の技術は「あと25年は研究室の中にとどまるべきものだ」と述べた行動主義心理学者ジョン・B・ワトソンらの権威がおり,その中にはマーストンとラーソンの成功は個人的能力によるものであって,心理学そのものの成果ではないと主張する者もいた。また,嘘発見器のいかにも科学を感じさせる大がかりな装置が,陪審団に過大な信頼をいだかせてしまうのではないかと懸念する心理学者もいた。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.96

科学的尋問法

厄介だったのは,検察側も弁護側も,相手側と対立する考えを持った専門家をうまいこと見つけてきては,まったく反対の主張をさせたことである。19世紀後半には,法廷での専門家の言い争いが人々の物笑いの種になった。ある法律ジョークはそれをこんなふうに描き出している。「世の中には3種類の嘘つきがいる。ふつうの嘘つきと,悪質な嘘つきと,科学の専門家である」。新しい科学の専門家たちが証人に採用してくれとやかましく騒いだところで,まったく無駄だった。どの証人を採用すべきか,どうして法に決められる?確実な事実に基づく裁きという理想は捨てがたいのである。
 20世紀はじめ,改革精神に富んだアメリカ人たちは,裁きの場に新しい段階をもたらした。容疑者やその他の証人に対する科学的な尋問法である。こうした改革派は,いまこそ人間が正直かどうかを判断するために法律の世界で使われてきた古くさい方法を捨て,心理学という新しい科学を取り入れるべきだと主張した。エックス線の発見によって放射線科医が患者の肉体を透かし見ることができるようになったのとちょうど同じように——心の中まで見られるかもしれないと考えた医者もいたが——新しい科学装置を使えば,心理学者は証人の肉体を透かし見て,罪悪感をいだいていないか推測できる。科学的な尋問法の研究者は,人間の肉体が精神状態を物語る一種の情況証拠としての役割を果たすと考えていた。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.85

嘘発見器の発明

ほんの数週間前にラーソンは,法律家にして心理学者のウィリアム・モールトン・マーストンが著した『生理学に基づく嘘の判定可能性について』という題の論文を読んだばかりだった。マーストンはハーヴァード大学にあるフーゴー・ミュンスターバークの有名な情動研究室で実験をおこない,どの学生が作り話を語り,どの学生が正直に話しているか見分ける方法を発見した。話が山場になったとき,被験者の血圧がどれくらい上昇するかをはかるだけでいい。これを読んだラーソンはこう考えた。この方法は,警察の尋問という汚れ仕事にも使えるのではないか?
 しかし,熟練の生理学者であるラーソンは,マーストンの方法に改善の余地があるのに気づき,まず検査手順に大幅な変更を加えた。マーストンは被験者が作り話を語っているときに血圧を断続的に測定したが,ラーソンは被験者がひとつひとつの質問に答えているあいだじゅう,血圧を連続的に測定することにした。研究室の技師の手を借りて作った装置は,被験者の最高血圧と呼吸の深度を測定し,そのデータをカーボン紙のロールに絶えず記録できる仕組みになっていた。この装置はマーストンの加圧帯を使った方法と異なり,水銀血圧計の変化のみを記録するものであって,血圧の数値そのものを記録する機能はなかった。だが,装置が自動化されているために,測定結果が実験者の主観によって左右される可能性を最小限に抑えられるという大きな利点があった。これなら,「可能なかぎり個人的要因を排除する」という科学的方法の原則を満たすことができる。思い込みから実験者が誤った判断をくだしかねない場合,この利点は非常に大きな意味を持つ。
 とはいえ,ラーソンの方法はけっして新しいものではなかった。半世紀以上も前から,生理学者たちはこの手の自動記録装置を使い,人間の肌の下で起きている身体変化を測定してきた。体内の反応と被験者の感情との関係を探った学者もいた。すでに1858年には,フランスの生理学者エティエンヌ—ジュール・マレーが,血圧と呼吸と心拍の変化を同時に測定できる装置を開発し,被験者が不快感を覚えたり耳障りな音を聞いたり「ストレス」を感じたりしたときの反応を調べている。19世紀後半には,アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズが,情動とは刺激の認知によって引き起こされる身体の変化であると定義している。ラーソンは,体に表れる感情から,嘘をついたときの徴候も,読みとれるのではないかと考えたにすぎない。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.39-40

嘘を見破れるか

しかし,嘘の専門家たちによれば——嘘をついてくれと被験者にしょっちゅう頼んでいるアメリカの心理学者のことだが——大部分の人は,本人の自信とは裏腹に,嘘を見破るのがすこぶる下手らしい。これまでの研究を分析した専門家は,人が正直者と嘘つきをうまく見分けられる率は54パーセントにすぎず,当てずっぽうとさして変わらない結果だったと2006年に結論している。意外な話だが,嘘をついている相手と親しければ親しいほど,ますます嘘を見抜けなくなるという。警官,判事,心理学者といった,嘘と真を区別するのが仕事の人々でさえ,成功率が50パーセントを大きくうわまわることはないらしい。

ケン・オールダー 青木 創(訳) (2008). 嘘発見器よ永遠なれ:「正義の機械」に取り憑かれた人々 早川書房 pp.31

事実の巧妙な歪曲

“重要な言葉を伝えずに嘘をつく”方法は,マニピュレーターがよく使う手であり,きわめて見破りにくい。同じように,“事実をねじまげて嘘をつく”方法がある。真相の大半をわざと伝えず,あるいは肝心の部分をゆがめて伝え,相手には事の真相を秘密のままにしておく。はなはだしい例では,事実だけを並べたて,嘘をでっちあげた強者がいた。真実だけを口にしてどうやって嘘をつくことができるのかといえば,話のポイントや全体像の理解に不可欠な事実を“言い忘れる”ことで相手をだましていたのだ。
 事実を巧妙に歪曲する方法のひとつが意図して意味を曖昧にしておくというもので,マニピュレーターが好んで用いる策略である。ストーリーは念入りに組み立てられているため,聞かされたほうは話の全貌を知り得たという印象を抱くが,きわめて肝心な部分が抜け落ちているので,本当の全体像など知ろうにもその手立てはない。

ジョージ・サイモン (2014). 他人を支配したがる人たち 草思社 pp.165-166

エスティームとリスペクト

自己評価(セルフ・エスティーム)と自尊心(セルフ・リスペクト)については,双方のちがいをはっきりさせておくことが肝心だ。自己評価の評価(エスティーム)は,「見積もる(エスティメイト)」という言葉に由来している。自己評価とは自分に対する直感的な“見積もり”であり,その見積もりとは,人生において望みのものを手に入れるために必要な,生まれつきの才能や力量,また成功体験を本人がどのように評価したかで成り立っている。
 自力で何をなしとげられるか自覚している者,望みのものを得る力量に自信を抱いている者は強気の評価をみずからにくだせる。だが,それが真の自尊心をはぐくむかといえばそうではない。
 自尊心(セルフ・リスペクト)の「リスペクト」のそのものの意味は「回想」「追想」,つまり自尊心とは,過去にさかのぼって自分が好ましいと感じているものの評価に由来する。自分が積み重ねてきた努力,社会的に望ましいとされている目的への献身,運のあるなしにかかわりなく,みごとに達成できた業績などに根ざしているものなのだ。
 簡単に言えばつまりこうなる。自己評価の感覚は現在の自分に対する自覚から生まれ,自尊心の思いは,与えられた条件のもとで自分がなしとげたことによって決まる。

ジョージ・サイモン (2014). 他人を支配したがる人たち 草思社 pp.147-148

(引用者注:self-esteemを「自尊心」,self-respectを「自己尊重」と訳すこともある)

他者操作の病

相手を虐げ,人間関係を操作することで発生する病気がある。この病気をひとたび患うと,関係解消をいくら試みようとも,被害者はその立場から逃げ出せなくなる。この病気を私はスロットマシン症候群と呼んでいる。スロットマシンで遊んだことがある人ならご存じのとおり,負けがこんでくるほどマシンのレバーから手を離すことが難しくなる。
 なぜ,人がこの病にとらわれてしまうかにはおもに4つの理由がある。
 まず,第1に大当たりの誘惑だ。誰もが飛びついてしまうチャンスとは,比較的少額の初期投資でありながら,きわめて効果なものを数多く手にできるかもしれないという期待だ。
 第2に,投じた努力に見合う結果を得られるかどうかは,自分がそれに示した“反応”の程度にかかっている(行動主義の専門家が比率強化スケジュールと呼ぶもの)。スロットマシンでチャンスをものにするのであれば,どんどん“反応”(つまり金をつぎ込む)しなければならない。
 3番目に,時折,サクランボなどの小当たりの絵柄がそろい,なにがしかの“勝利”がころがり込んでくる。この小当たりで,それまでの投資は無駄ではなくなり,投資をつづけていればさらに大きな報酬が得られるかもしれない。
 4番目に,マシンにもてあそばれ,身ぐるみをはがされてその場を立ち去ろうとすれば,激しいジレンマに直面しなくてはならない。そのままマシンをあとにすれば大金がおき去りにされる。立ち去ることは“虐待者”に背を向けるだけでなく,多額な身銭を見捨てることも意味する。つぎ込んだお金とエネルギーに見合った成果どころか,くじけた心でその場を引き下がるのは容易なことではない。おそらくこんな言い訳で自分をごまかそうとするだろう。
 「あともう1度だけ……」

ジョージ・サイモン (2014). 他人を支配したがる人たち 草思社 pp.129-130

潜在的攻撃性

潜在的攻撃性パーソナリティはあの手この手を使い,相手を一段劣った地位にとどめておこうとする。人間関係はパートナーがいて成り立ち,それぞれの言動に対してはみずからが責任を負わなければならないと考えられているが,たいていの場合,このパーソナリティの持ち主は人の弱みや不安定な感情を操ることにかけては達人であり,その正体を見抜ける人などほとんどいない。
 潜在的攻撃性パーソナリティに振り回される人たちも,相手の気をそらさない話しぶりと見た目にも魅力的な人柄に一度は惹かれた。だが,相手の正体に気がつくころには,その関係をなんとかしようとあれこれ気をもんだあげく,へとへとになっているのが普通だ。こうなってからではもはや相手の支配から逃げおおせることさえ容易ではない。

ジョージ・サイモン (2014). 他人を支配したがる人たち 草思社 pp.123

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