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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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アイデンティティ・キャピタル

アイデンティティ・キャピタルとは,時間をかけて身につけた,自分の価値を高める経験やスキルのことであり,個人的資産です。自分自身に長い間,じゅうぶんな投資をした結果,自己の一部となったものです。学位や仕事,テストの成績,クラブ活動のように履歴書に載せられるものもあります。もっと個人的なアイデンティティ・キャピタルもあります。たとえば話し方,住んでいる地域,問題の処理能力,外見や印象など。アイデンティティ・キャピタルは,どうやって——時間をかけて徐々に——自分を築いてきたかという証なのです。もっとも重要な点は,アイデンティティ・キャピタルは大人の市場に持ちこまれる資質だということ。たとえていえば,仕事や人間関係のほか,望むものを得るための通貨なのです。

メグ・ジェイ 小西敦子(訳) (2014). 人生は20代で決まる:TEDの名スピーカーが贈る「仕事・結婚・将来設計」講義 早川書房 pp.43-44
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大事な時期なのに

20代はどっちつかずの時期,というのがいまはほぼ定説になっています。2001年の「エコノミスト」誌は「ブリジッド・ジョーンズ・エコノミー」と題する記事を載せ,2005年1月の「タイム」誌の表紙には「トウィックスター(青少年と成人期のあいだで違和感を持つ若者。経済的にも独立していない18歳から20代が典型)に会う」という見出しが踊りました。両方とも,20代はお金も時間も自由に使える時期だと読者に伝えました。2007年ごろまでには,20代は長期にわたる冒険と放浪の時期であるというメッセージがいきわたりました。そしてメディアや研究者は,キダルト(子供大人)とかプレアダルトとか万年思春期(adultescent)といった呼び名で20代を呼ぶようになりました。
 20代の10年間は思春期の延長だという人や,新生の成人期と呼ぶ人も出現しました。大人になるための時間割の変化によって,本来なら成熟するために努力しなければならない20代は,「まだ完全に大人ではない」者として成長の機会をうばわれ,退化させられてしまいました。ケイトのような20代は,そういったまやかしに踊らされたとも言えるでしょう。甘いメッセージの多くが,大人の人生をつくるいちばん大事な10年の価値を低下させてしまったのです。

メグ・ジェイ 小西敦子(訳) (2014). 人生は20代で決まる:TEDの名スピーカーが贈る「仕事・結婚・将来設計」講義 早川書房 pp.24-25

健康と長寿の誤解

健康政策を作る人たちも,私たち一般人も,健康と長寿に関しては2つの大きな誤解をしている。
 1つは,家系を必要以上に重視することだ。たしかに背の高さは両親から受け継いだ遺伝子でほぼ決まっているだろう。また,ある特定の病気になりやすい家系も確実に存在し,遺伝が原因だとはっきりしている病気があるのも事実だ。だから,家族の病歴を知っておくのは,どんな検査を受ければいいか,どんな症状に注意すればいいかを判断するうえで,とても大切なことだと言えるだろう。しかし家族の病歴からは,心臓発作を起こすかどうか予測することはできないし,寿命を予測することもできない。やはりいちばん大切なのは,自分自身の生き方である。
 もう1つの誤解は,健康にいいことをリストにすれば,健康状態を向上させられると考えることだ。
 医師たちは,よくこんな愚痴を言っている。「バランスのとれた食事,喫煙,減量,充分な睡眠,運動などなど……これが健康にいちばんいいのはよくわかっていますよ。でも患者が言うことを聞いてくれないんです。だからどうしても薬に頼ってしまうんです」
 たしかに医師たちの言うとおりなのだろう。健康になるためのリストを渡されて,それを忠実に実行する人などまずいないからだ。ところが,健康長寿を実現したターマン研究の男女はそんなリストなんて見たこともなかったが,それでも健康的な生き方のパターンを確立していた。
 現代の健康政策は,健康リスクや病気にばかり注目している。そして医師たちは,健康政策で指摘された問題を修復しようとする。もちろん何度も言っているように,実際に病気の症状が出ているのなら,そのための治療は大きな助けになる。現代医療が最も効果を発揮するのはこの分野だろう。
 しかし問題の修復は,本来は健康政策のほんの一部であるべきだ。それなのに現在では,この一部にだけ注目が集まり,健康で長生きできる生き方のパターンという,より包括的な視点が完全に欠けてしまっている。

ハワード・S・フリードマン,レスリー・R・マーティン 桜田直美(訳) (2012). 長寿と性格:なぜ,あの人は長生きなのか 清流出版 pp.243-244

健康に悪いもの

健康に悪いとはっきり証明されていることは,じつはそんなに多くない。ここで,健康に直接悪い影響を与えるとわかっているものを種類に分けて見ていこう。
 1つは,一定量以上の毒物だ。タバコの煙,鉛などの重金属,農薬,汚染された大気は,体内に摂取すると細胞が死滅して内蔵がダメージを受けることがわかっている。
 そして2つ目は放射線だ。放射線を浴びすぎると,気分が悪くなるだけでなく,実際に亡くなってしまうこともある。放射線の発生源は,地下室のラドンかもしれないし,核爆弾の死の灰や核廃棄物かもしれない。または医療用のX線も浴びすぎるのも危険であり,特にCTスキャンには気をつけなければならない。放射線の被曝量は蓄積していくので,被曝するたびにリスクが大きくなっていく。
 3つ目は,悪性の感染病だ。ある種のウィルス,バクテリア,菌は,感染すると体の免疫機能を打ち負かしてしまう。じつは,医療がいちばん力を発揮するのがこの分野だ。ワクチンや薬は,感染症の治療で実際の効果を上げることができる。
 交通事故で頭蓋骨を骨折する,溺れて窒息する,銃で撃たれて動脈が切れるなどの外傷も,健康に直接的な悪影響を与える。ここでも外科手術や救急救命医療が大きな助けになってくれる。
 しかし,はっきりと悪影響があるとわかるのもこれぐらいだ。ここから先は,とたんに白黒がはっきりしなくなっていく。

ハワード・S・フリードマン,レスリー・R・マーティン 桜田直美(訳) (2012). 長寿と性格:なぜ,あの人は長生きなのか 清流出版 pp.237-238

ほとんどが異常に

近ごろの医学では,何でも病気にしてしまう傾向がある。これは現代社会が抱える大きな問題だ。たしかに運動をすれば病気や若死にのリスクが減るというのは事実であり,それを裏づける信頼できる調査結果も存在する。運動をすれば太りすぎが解消されたり血圧が下がったりして,それが健康につながるからだ。
 そこで医学界は,正常と異常をわける基準を作り出した。たとえば血圧という数字は,病気を決める基準になりうる。たしかに血圧が高いほど心臓病や脳卒中のリスクが高くなるからだ。そのため正常値とされる数字がどんどん低くなる傾向にあり,最近では上が120で下が80が正常で,それより高い数字は高血圧だと主張する専門家までいるほどだ。
 かつては,血圧の上が160以上になると危険なサインと考えられていた。それがいつしか150以上になり,次に140以上の時代が長く続くことになる。そしてついに,130か120を超えると血圧を下げる薬を出されることもある時代に突入した。「高血圧」という新しい病気の誕生だ。
 もちろん,非常に高い血圧を下げることで,助かった命がたくさんあることは間違いない。実際,高血圧の治療は,現代医学がなしとげた大きな勝利の1つでもある。とはいえ,最近の風潮は少し行きすぎではないだろうか。もはや病気の治療というよりも,新しい病気を生み出していると言ったほうが近いかもしれない。
 何かおかしなことが起きているようだ。すべての人に理想的な数字を押しつけるということは,つまり大多数の人が「異常」に分類されてしまうことでもある。ほとんどの人が異常になるという状況は,やはり何かが間違っていると言わざるをえないだろう。

ハワード・S・フリードマン,レスリー・R・マーティン 桜田直美(訳) (2012). 長寿と性格:なぜ,あの人は長生きなのか 清流出版 pp.142-143

費用対効果は

健康になるための専門家のアドバイスを真剣に聞いて,毎日ジョギングをしている人がいるとしよう。その人は,本当なら他にやりたいことがあるけれど,健康のためだと自分にむち打って走っている。身支度をして,準備運動をして,ジョギングをして,クールダウンをするまでトータルで1時間。まあ運動量としては普通ぐらいだろう。
 ほぼ毎日走っているので,1年で360時間をジョギングに費やすことになる。この日課を,21歳から61歳までの40年間続けたとすると,ジョギングに費やした時間はトータルで1万4400時間だ。1日のうち起きている時間が16時間だとすれば,900日をジョギングに費やした計算になる。900日といえば,2年半だ。そこまでの時間をジョギングに費やした人は,そうでない人と比べ,はたして寿命が何年長くなるのだろうか?

ハワード・S・フリードマン,レスリー・R・マーティン 桜田直美(訳) (2012). 長寿と性格:なぜ,あの人は長生きなのか 清流出版 pp.135-136

死と離婚

調査は意外な結果になった。親の死はたしかにつらい経験だが,寿命との間には特に関連性は見られなかった。たしかに一時的にはつらくても,やがて子供は現実を受け入れ,前に進んでいくことができるようだ。
 しかし,離婚となると話は別だ。普通に考えると,死別よりも離婚のほうが心の傷は浅そうに思われるだろう。亡くなってしまったらもう会えないが,離婚なら生きているので,まだ会うことができるからだ。しかし,結果はまったく正反対になった。

ハワード・S・フリードマン,レスリー・R・マーティン 桜田直美(訳) (2012). 長寿と性格:なぜ,あの人は長生きなのか 清流出版 pp.110

心配性と勤勉性

女性で若いころに心配症だった人は,病気がちな老後を送り,幸福度も低いことが多い。そして彼女たちは他と比べて早死にする傾向がある。そこに勤勉性の低さが加わると,不幸な老後と早死にの確率はさらに高くなる。勤勉性が高く,自分の人生をコントロールし,いい友人にも恵まれている女性は,たとえ心配症であっても健康へのリスクは少ない。
 では,男性はどうだろうか。調べたところ,女性とは全く違う結果になった。若いころ心配症だった男性は,不健康で不幸な老後を迎えやすい。ここまでは女性と同じだが,男性の場合はむしろ早死にのリスクが低くなっていたのである。心配症で,なおかつ勤勉性も高ければ,長生きの可能性はさらに高くなった。

ハワード・S・フリードマン,レスリー・R・マーティン 桜田直美(訳) (2012). 長寿と性格:なぜ,あの人は長生きなのか 清流出版 pp.70

楽観性と健康リスク

楽観的な性格は,大きな健康リスクになることもある。危険を顧みなかったり,深刻な症状を見逃したりしてしまうからだ。
 このような態度は,「根拠のない楽観主義」と呼ばれる。楽観的な人は危険を過小評価し,必要な用心を怠る傾向がある。「私は大丈夫」と信じる気持ちは,手術からの回復では役に立つかもしれないが,その楽観主義が喫煙や食べ過ぎなどの悪い生活習慣につながったり,高血圧などの病気のサインを無視したりすることにつながるかもしれない。
 それに楽観的な人たちは,物事が期待どおりに運ばないとことさらにショックを受ける。だから,失業,家族の死,ガンの再発など,自分の期待を裏切ることが起こると,人並み以上にストレスを感じてしまうことになる。さらにそこでやけを起こし,回復のための努力をすべて放棄して昔の悪い生活習慣に戻ってしまうかもしれない。

ハワード・S・フリードマン,レスリー・R・マーティン 桜田直美(訳) (2012). 長寿と性格:なぜ,あの人は長生きなのか 清流出版 pp.61-62

社交性と飲酒・喫煙

社交的な子供は,大人になってからの飲酒や喫煙が他の人よりも多くなる傾向がある。勤勉性の高い子供は大人になってからも健康的な生活習慣を選ぶことが多いが,社交的なタイプはまわりのプレッシャーに負けやすく,結果として飲酒や喫煙が増えることになる。それに加えて,飲酒や喫煙が「当たり前」の環境に身を置くことも多い。また,こんな興味深い結果も出ている。社交的な人や外向的な人は,どうやらお酒や煙草に対して人並み以上に魅力を感じてしまう傾向があるようだ。これは,さまざまな研究で同じ結果が出ている。

ハワード・S・フリードマン,レスリー・R・マーティン 桜田直美(訳) (2012). 長寿と性格:なぜ,あの人は長生きなのか 清流出版 pp.47

勤勉性と長寿

勤勉性の高い人は,なぜ健康で長生きできるのか。それには3つの理由がある。
 第1の理由は,おそらく誰でも思いつくだろう。勤勉性の高い人は,よく考えて慎重に行動し,自分の身を危険にさらすような向こう見ずなことはしない。喫煙,深酒,ドラッグ,危険な運転などを避ける傾向がある。車を運転するときはきちんとシートベルトをして,医師の言いつけもよく守る。リスクを極端に嫌うというわけではなく,むしろ現実的にリスクの計算ができるタイプと言えるだろう。どこまでが大丈夫で,どこからが危険かをきちんと考えている。
 第2の理由は,いちばん意外な内容である。どうもある種の人びとは,生まれつき健康で,しかも勤勉性の高い性格の持ち主でもあるらしい。もとから勤勉性と健康の両方を兼ね備えているのである。勤勉性の高い人たちはまた,生活習慣に関わる病気だけでなく,どうやら病気一般にもかかりにくいようだ。この意外な事実を発見したのは私たちだけではない。多くの研究者が,同じ結論に達している。勤勉性の高い人たちは,どういうわけかあらゆる死亡リスクが低くなっているのである。
 生理学的な根拠についてはまだはっきりしないが,どうやら勤勉性の高い人とそうでない人では,セロトニンなどの脳内物質の分泌が異なるようだ。セロトニンは脳内にある神経伝達物質で,分泌量が減ると,うつ病になったり衝動的な行動に走ったりすると考えられている。セロトニンはまた,食べる量や睡眠時間を司るという,体全体の健康に関わる大切な役割も担っている。
 そして,最後の理由が最も興味深い。勤勉性の高い人たちは,自然と健康で長生きするような人生を歩んでいるのである。脳内物質が健康的なバランスを保ち,健康的な生活習慣を身につけているというだけの話ではなく,人生全般において健康的な選択をしているということだ。彼らは概して幸せな結婚生活を送り,いい友人に恵まれ,健全な職場で満足できる仕事をしている。
 そう,勤勉性の高い人たちは,健康長寿につながる人生を自分の力で創造しているのである。

ハワード・S・フリードマン,レスリー・R・マーティン 桜田直美(訳) (2012). 長寿と性格:なぜ,あの人は長生きなのか 清流出版 pp.37-38

ハリーの死後

ハリーの研究に対する憤怒の狂躁は,彼の死後に始まった。ときには,彼がそうなるように完璧に計算していたのではないかと思えることもある。「まるでハリーが腰を下ろして,『あと10年もすれば,私はもうこの世にいないだろう。その後にものすごく面倒なことが起こるから,あとはよろしく』と言ったみたいだよ」とビル・メイソンは言う。また,動物権利運動家は,彼の死後に抗議する方がうまくいくとわかっていて,攻撃のスケジュールを変えたんじゃないかと思える時もある。ハリーは戦うのが大好きだったのに残念だな,とスティーヴ・スオミは言う。「彼は物議を醸して論争するのに慣れていたから,徹底的にやり込めただろうに」とアーウィン・バーンスタインも同じ指摘をする。「ハリーは死んでからターゲットにされた。それは卑怯な話だ,とずっと思ってたんだ。彼が生きていたら,十分すぎるくらいうまく自分の弁護ができただろうに」
 バーンスタインは続ける。「動物権利運動家は,わざとハリーの罪を誇張している。スパイク・マザーには先の丸い突起しかつけていなかったのに,釘の先端が鋭く尖っていたと言ったりするんだ。それに,ハリーが研究所のすべてのサルを隔離したかのような言い方をする。選ばれた少数のサルだけなんだがね。ハリーが自分のサルの幸福についてどれほど真剣に考えていたか,動物権利団体はまったく評価しようとしない」。デュエイン・ランボーは,ハリーがNIHの規定するケージのサイズは大人のサルには小さすぎると考えて,連邦政府の規格よりも大きなケージを建てたのを覚えている。
 スティーヴ・スオミはこう指摘する。「ハリーが母性愛の研究をしていた当時,研究室や動物園で飼われている霊長類の飼育の標準は,個別飼育だった。つまり,部分的な社会的隔離だよ。ハリーがどれほど破滅的かを証明するまでは,それが標準だったんだ。そして,施設によっては——実際のところ,私が移籍する前のほとんどのNIHの施設では——その標準が変わるまでに長い時間がかかった。たいてい,サルや類人猿の飼育に責任を持つ獣医たちが強硬に反対したのさ」
 ハリーの実験が(それに加えて,それを説明するハリーの強烈な言いまわしが),彼のしたことに対する批判を招いたのかもしれない。それでも,その抗議のいくつかは,間違いなく歴史の再解釈によって出てきたものだ。私たちは,20世紀半ばの研究者にも現在の社会意識を共有してほしいと望むかもしれない。しかし,ハリー・ハーロウの研究方法について現在槍玉に挙がっている倫理上の問題は,後になってから提起された問題だ。科学者による実験動物の扱いという点では,最後の隔離と抑うつの研究を例外として,ハリーがその長いキャリアの中で主流から外れたことはほとんどなかった。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.393-394

絆の重視へ

ボウルビーが母親についての研究を始めた1947年,幼い子ども(6歳以下)のいる母親のうち,外で働いていたのはたった12%だった。1997年,その数字は64%にまで上昇した。親子を隔てよというジョン・ワトソンの指示を今でも信じるなら,この統計には何の問題もない。おそらく,健全な傾向を示していると評されることだろう。しかし,そのような見方を変えた科学者たち——スピッツ,ロバートソン,ボウルビー,エインズワース,ハーロウをはじめ,数えきれないくらい大勢——のおかげで,私たちは親子を隔てる距離によって,心にぽっかりと穴が空くのではないかと気にするようになった。拡大した育児は社会実験だと気に病み,どんな実験にもつきまとうリスクを心配する。私たちが育てている世代の子どもは,両親との結びつきが非常に緩いために,社会的連帯感を欠くようになるのではないか,という恐怖心が心にのしかかる。もっとも,ジョン・ワトソン以外に,絆の断絶を画策する者などいまいと論じることもできるが。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.356

フェミニストからの攻撃

ハリー・ハーロウもジョン・ボウルビーも,こうした強い反発にうまく対応できなかった。ボウルビーは苛立ち,如才なく振る舞おうとはしなかった。「母親が外へ働きに出るというこの問題全体がひどく物議を醸しているが,私は母親が外で働くのが良いことだとは思っていない。女性が働きに出て,社会的価値もない七面倒臭いガラクタをこしらえている間,子どもは無関心な保育園に預けられるのだから」。ハリーも大げさな表現を使って反撃した。赤ちゃんザルのスライドを大学生に見せたときに起こった出来事について,彼は何度も繰り返し語った。男子学生は興味を持って赤ちゃんの顔をじっと観察した。しかし,女子学生はあまりの可愛さに「ああ」と溜息を漏らしたのである。ハリーは,それが自然な母親の反応であると断言した。「何度も言っているように,母親になるいちばんの方法は,女性に生まれることだ」
 ハリーの最後のコメントは故意に挑発的だった。母子の絆など本当は重要ではなく,女性蔑視のための科学的な作り話だという意見には我慢ならなかった。いずれにせよ,時流に合わせるとか,時宜を得た発言をするなど,彼はそれまで気にしたこともなかったし,今さら迎合する気もなかった。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.307

追い込む

実際のところ,ハリーは男性だろうと女性だろうと同じレベルの仕事をすることを求めた。必死になってがむしゃらに働くことを望んだ。ハリーは女子学生に電話したりしなかった。色気を求めることもなかった。ケージのまわりで女子を追い回したり,良い成績をつける見返りとして猥雑なゲームに興じることもなかった。女子学生に求めたのは,男子学生に期待するのと同じ,精神的な強さと自立だった。「見込があると思えば,彼は学生をぎりぎりの限界まで追い込んだ」とローナ・スミス・ベンジャミンは言う。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.312

サルの精神異常

ひとつのケージに1匹のサルを収容するという標準的な飼育環境によって生じたのが自滅的な行動ならば,完全な隔離からはさらに悪い結果が生じた。それが精神異常だったのである。言うまでもなく,これらのほとんど麻痺した状態のサルたちは,正常な性的関係を結ぶことができなかった——というより,どんな関係も結ぶことができなかった。研究室のメンバーが機能不全の雌を縛りつけて「受け入れ」の体勢をとらせてみると,ただでさえ不安定なサルの数匹を妊娠させることができた。その結果は,「社会的知性」を持たない動物がどれほど危険になりうるかを,このうえなく知らしめるものだった。「もっともひどい悪夢の中でも,ここに実在する母ザルほど邪悪な代理母を設計することは不可能だろう」とハリーは書いた。「愛というものをまったく経験したことのないこれらの母ザルは,赤ちゃんに対する愛情を欠いていた。残念ながら,人間の場合でも,その感情が欠如した人があまりにも大勢いる」。愛のない母親のほとんどは,子ザルを無視するだけだった。しかし不幸なことに,全員がそうだったわけではない。ある母親は,赤ちゃんの顔を床に押しつけ,手足の指を噛みちぎってしまった。もう1匹は,赤ちゃんの頭を口の中に入れて噛み潰してしまった。それが強制妊娠の結末だった。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.285-286

社会的知性

母親に求められる条件を並べたリストは,ここでまた長くなる——温かさ,動き,愛情の他に,「子どもを強く抱きしめるべき時期と,外へ押し出すべき時期をよく心得ていること」が加わった。ジョージア大学の心理学者アーウィン・バーンスタインは,そのような行動——他者との関係を築くタイミングを知ること,強く抱きしめる時期と自立させる時期に気づくこと——を「社会的知性」と呼んだ。バーンスタインが指摘するように,ハリーがこのことを語りはじめた1960年代当時,それは心理学者のアンテナに引っかかるような話題では全くなかった。「こうした赤ちゃんザルが感情的に異常であり,彼らに欠けているのが『社会的知性』だと気づいたという点で,ハリーは天才だった」とバーンスタインは言う。「20世紀半ばには,この分野はたいして研究されていなかったからね」

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.262-263

ハーロウとボウルビー

ハリーの研究(あるいはそのタイミング)ほど,ジョン・ボウルビーの主張にぴったりの研究があったろうか?ボウルビーは精神医学や人間行動について主唱するお偉方とは距離を置いて,動物行動学者たちとの会話に多くの時間を費やすようになっていた。その最たる人がコンラート・ローレンツで,後に「刷り込み」——鳥のヒナによる母親への熱烈で本能的な愛着——の研究でノーベル賞を得ることになる。ローレンツは,小さなヒナが最初に見た「母親」に忠誠を捧げることを示した。だから,研究対象だったハイイロガンのヒナが卵を破って出てくるそのときに,ローレンツはヒナをじっと見つめていたので,「母親」になることができたのだった。言うまでもなく,人間の行動と完全に符合するわけではない。当然ながら,ボウルビーの批判者が感心するはずもなかった。「ガンの分析をして何の役に立つ?」と英国精神医学会のボウルビーの同僚のひとりは言った。
 しかし,もしローレンツの研究をもっと真剣に検討したなら,そこには無力な赤ちゃんをうまく保護者に結びつけようとする自然の意図が十全に現れていることに気づくはずだ。ガンの場合,愛着は生まれつき備わっているらしい。人間の関係はもっと柔軟で,だからこそもっと難しいのだが,基本的な点は同じだとボウルビーは主張した。母親が重要なのだ。赤ちゃんは母親を必要とする。生まれつき母親が必要なのだ。そんなとき,もっと人間に近い動物を使って実験をおこなったハリー・ハーロウが現れた。ハリーの研究は,まさに同じことを伝えていた。母親は食物を与えるだけの役割だとか,どんな母親でも子どもを癒せるという考え方は,ウィスコンシン大学の実験によって一掃された。ハリーの出した結論は,好むと好まざるとに関わらず,無視できないものだった。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.222-223

エインズワース

ハリーの実験で,針金の母と一緒のときに探索するのも触るのも周囲を見ることさえ怖がっていた子ザルは,不安定(または不安定な愛着)の完璧なケーススタディと言えるだろう。数年後の1960年代初頭,エインズワースは実際に子どもを使ってそのような反応をテストし始めた。彼女(と夫)はアフリカを離れ,ジョンズ・ホプキンス大学で研究しはじめていた。メリーランドでエインズワースは,ある観察計画を立案した。親に対する子どもの愛着の仕方を観察し,それが安定した関係によるものか,あるいは脆弱な関係によるものかを調べようとしたのである。彼女の「ストレンジ・シチュエーション」テスト(オープン・フィールドテストと概念的にはそれほど変わらない)は,綿密に設計され,詳細に測定された。ハリー・ハーロウやジョン・ボウルビーと同様にメアリー・エインズワースも,心理学界で注目されるためには,研究が徹底的でなければならないことを実感していた。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.219-220

不幸なロジャース

有名な心理学者のカール・ロジャースは,かつてウィスコンシン大学の心理学部でもっとも不幸だった者として,数十年経った今でもその名が挙げられている。ロジャースは,来談者中心療法を考案した。彼の意図は単純明快だった。心理学者がいつも患者より物事をわかっているとは限らないのだから,セラピストは患者の言うことによく耳を傾けなければならない。現在では広く受け入れられている考え方だが,当初は奇妙で受け入れがたいアイディアだった。数多くの心理学者が,新しい柔軟なカウンセリングをすべきだというロジャースの意見に抵抗を示した。なにしろ,人間の行動の専門家として訓練を受けてきたのだから無理はない。熱心な専門家の集まったウィスコンシン大学では,ロジャースが人間性心理学運動に賛同したことは,さらに罰当たりだった。1960年代,ロジャースと大学院時代にハリーの研究室にいたエイブラハム・マズローは,どちらもその運動のリーダーとなり,心理学はネガティブな感情や神経症よりも,人間の可能性の方に重きをおくべきだと訴えた。
 今にして思えば,ロジャースが20世紀半ばのウィスコンシン大学にあまり溶け込めなかったのは当然のように思える。心理学部がまだハルのような数学的な行動モデルに追従していた時代に,彼は思いやりや良識について語っていたのだ。数学志向でない学者は,しばしば標準レベル以下として扱われた。学部のせいで,自分のような人間(と大半の学生)はずっと脅されているような気持ちにさせられている,とロジャースは不平を漏らした。ロジャースは教授会に出席する代わりに,コメントを吹き込んだテープレコーダーを置いておくようになった。7年間の勤務に終止符を打つ直前の1964年に学部に提出した報告種の中で,ロジャースは同僚の教員に対して,もはやこの場所には我慢ならないと断言している。ウィスコンシン大学の心理学教授たちは方法論にとらわれ,他人の揚げ足取りばかりしているため,「意義深い独創的な考えが生み出される可能性は皆無である」とロジャースは非難した。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.166-167

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