忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

アカゲザルのおかげ

ハリーは当初,アカゲザルがどれほど賢いかに気づいていなかった。彼らの適応能力は,いくぶんかは私たち人間と同じように,すばやく抜け目のない知性に基づいている。現在の霊長類研究では,アカゲザルは簡単な計算ができ,シューティングゲームを驚くべき正確さでプレイできることがわかっている。彼らは,ハリー・ハーロウには思いも寄らなかった能力を持っているのだ。だから,ハリーは二重に幸運だったわけである。サルがほんの少ししか手に入らなかったことも,その大半がアカゲザルだったのも幸運だった。そして後になって,愛と絆の研究を進めるときに,彼はまたまた幸運に恵まれるのである。というのも,アカゲザルは私たちと同様,地球上のどの動物よりも強い絆を持つ種のひとつなのだ。ここでもまたアカゲザルのおかげで,ハリー・ハーロウは最適なタイミングで最適な動物を使って実験することになるのである。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.139-140
PR

クラーク・ハル

当時の流行は,ブラックボックスである脳ではなく,測定可能な行動だった。ソーンダイクやスキナーが主流だった。当時の心理学理論の重鎮だったイェール大学のクラーク・ハルは,刺激と反応が性格を規定するという考えに基づき,行動を予測する包括的な理論を打ち立てた。人々はハルの言葉に耳を傾けた。彼は穏やかな声で明瞭に語る献身的な科学者で,多くの仲間に愛され,尊敬されていた。ある分析によると,学習と動機づけに関する1940年代の全研究のうち,70%がハルの本や論文を引用していたという。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.133

機械仕掛けの動物

愛することも考えることもできない機械仕掛けの動物は,ジョン・B・ワトソンのような初期の行動主義心理学者の教義とうまく合致した。しかし,さらに大きな弾みをつけたのは,ハーヴァード大学を卒業した心理学者で,おそらくハリーの世代でもっとも有名な心理学者であるバラス・フレデリック・スキナーだった。世界的にはB・F・スキナー,友人にはフレッドと呼ばれたスキナーは,動物には感情がないという断固たる信念を持っていた。かつて,彼が愕然としたことがある。木の実を夢中で食べるリスを見た友人が,リスはどんぐりが「好き」なんだねと言ったのだ。言うまでもなく,そんなことはありえないとスキナーは返答した。動物が何かを好きになることはない。好きというのは感情だが,リスに感情などないからだ。スキナーは自らを新行動主義心理学者と称し,それまでの科学を洗練させた新しい心理学の作り手だと自認した。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.131

反論の困難さ

反論することがどれほど難しいか,ハリーにはわかっていた。ジョージ・ロマネスやケーラーをはじめとする一流の科学者たちが説得に失敗し,ワトソン派の行動主義やパヴロフ派の条件づけ理論が席巻していたというだけではない。科学者は何世紀もの間,動物はそもそも能なしであると主張し続けてきたのだ。ヒト以外の種を条件づけたり反応させたりすることはできるだろう。しかし,彼らが考えたり,感じたり,分析したり,悲嘆することはけっしてありあえない。1700年代,フランスの哲学者ルネ・デカルトは動物を機械になぞらえた。彼によれば,動物はけっして人間のように思考することはできない。動物は魂のない生き物であり,けだものという機械である。チャールズ・ダーウィンが進化論を唱えたときですら,そのような考え方が残っていた。ダーウィンは,人類と他の種の脳の仕組みは共通のはずだから,両者は共通の能力を持っているに違いないと明快に示唆した。ゴールドシュタインはそれを行き過ぎと感じ,進化論を完全に無視することにしたのである。だが,ダーウィンの信奉者にとっても,長きにわたって人間だけが保持してきた複雑な脳というものが動物にもあるという考えを完全に受け入れるのは難しかった。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.129

25年越しの発表

棒を振り回すオマキザル,レッドの物語のもっとも興味深い点のひとつは,ハリーがそれを公表するまでに非常に長い期間を要したということである。観察されたのは1936年のことだったが,その報告が発表されたのは1961年だった。彼は,「論文の著者たちが,自分の評判が確立する前にこの奇妙な観察を報告するのをためらったせいで,発表が遅くなってしまった」と説明している。ハリー・ハーロウが霊長類研究所を建てた当時,動物の知性という言葉は矛盾した表現だった。なんといっても,当時は条件反応や単純で反射的な脳という概念が主流の時代だったのである。動物が「棒は有用な武器である」と判断したとなれば,思考や推定ができるということになる。1930年代に,そのような認知能力がサルにあるなどと報告すれば,「観察がずさん」か「考えが甘い」のどちらかの烙印(あるいは両方)を押されるのがオチだったろう。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.124-125

ハーロウの弟子マズロー

彼は初めて受け持った大学院生にも恵まれていた。ブルックリン生まれで,既成概念にとらわれないエイブラハム(エイブ)・マズローという学生の担当になったのだ。師弟には,行動主義心理学の近年の動向に懐疑的であるという点で連帯感が生まれていた。マズローは日記にこう記している。「行動主義の成し遂げたことは大きい。私を心理学へと導いたのは,ワトソンのすばらしい研究だ。しかし,そこには致命的な欠点がある。研究室では具合が良くて役に立つが,研究室から出るときには,白衣と同じように,脱いで置いていくしかない。つまり,家で子どもや妻,友人と一緒にいるときには,役に立たないのだ。……もし研究室で動物を扱うように,家で子どもを扱ったなら,きっと妻に目玉をくり抜かれるほど激しく責め立てられるだろう」。確かに自分の妻ならそうしかねない,とマズローは思っていた。
 マズローがもっとも関心を持っていたのは,人間の行動だった。心理学の使命とは,人が自らの可能性を最大限に引き出せるように手助けをすることだと信じていた。人間は最良のものを秘めている(愛情,優しさ,思いやりに満ちている)ことを信じて疑わなかった。ウィスコンシン大学で博士号を取得して間もなく,「人間は皆,根は善良なのだ」と日記に記している。もし悪いおこないをするとしたら,そこには原因があるはずだし,それを突き止めれば助けることができるはずだ。「それを証明するためには,不愉快や意地悪や卑劣といった表面的な行為の奥底にある動機を突き止める必要がある。動機がわかれば,その結果として生じる行動には腹が立たなくなる」。人間の良識に対して迷いのない信頼を抱いていたマズローは,後に人間性心理学運動の創始者となり,1960年代の反体制文化(カウンターカルチャー)の有名なヒーローになった。死後何年も経った今日でも,影響力のある心理学者である。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.112

条件反射の科学

やがてパヴロフは,「条件反射」の科学を確立した。イヌは,食事と足音を関連づけることを学習していたのだ。パヴロフは残りの人生を費やして,そうした条件づけ行動に関する実験をおこなった。ワトソンが心から感銘を受けたのは,パヴロフがイヌの脳の中で何が起こっているかを推測しようとしなかったことである。それは内的過程なので,測定できないと考えたのだ。イヌが足音を「認識している」ということすら認めなかった。認識という脳の活動は検証できないので,「不必要に推論を巡らすことになる」とパヴロフは主張した。彼はイヌを条件づけて,音に反応してよだれを垂らすようにさせられることを証明した。それは,脳は訓練できるということを意味しており,それ以上でもそれ以下でもない。この秩序だった観察に基づいた科学こそ,まさにジョン・ワトソンがアメリカの心理学に求めているものだった。ワトソンは,パヴロフのことを思い浮かべては,「どんなに偉大なものでも平等に扱おう」と心に誓うのだと述べている。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.101-102

ラットの天下

1939年に,ハーヴァード大学の心理学者ゴードン・オールポート(白髪で威厳のある,正真正銘の過激派)がアメリカ心理学会の会長に就任したときは,まさにラットの天下だった。オールポートは,ジョン・B・ワトソンを支持する情熱的な行動主義心理学者がやってきて,挑戦的に質問してきたときのことを回想している。その男は,実験対象としてラットを使った明らかにできない心理学的な問題をひとつ挙げてみろ,と迫ってきたのだった。そのとき,オールポートはあまりにも面食らったので,例を考えつくのにしばらく時間がかかってしまった。ようやく,それもためらいがちに,「読書障害?」と言うにとどまったという。
 オールポートは,客観的な科学を実践するのに,ラットを用いた研究が「すばらしく適している」ことを十分認めていた。けれども客観的であることが真実であるとは限らない,とも付け加えた。人間の行動が物理学や化学のような「無機的な」方法で扱えるとは,彼にはどうも納得できなかった。人間は非常に複雑なのに,ラットを用いた研究に依存すると,人間を単純化しかねない。「人はなぜクラヴィコード[中世の鍵盤楽器]や大聖堂を作り,なぜ本を書き,なぜミッキーマウスを見てゲラゲラ笑うのか」と,オールポートは会長演説で述べた。「ラット研究はそれを説明できるだろうか?」

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.98-99

不寛容の許容

後になって彼は,この授業はもっとも重要な学習経験のひとつだったと述べている。しかし,そのときは悩み傷ついた。21世紀の現在,私たちは人と人との違いに対して寛容になろうと腐心しているので,つい忘れてしまうのだが,かつてはそのような違いに対する不寛容が文化的に許容されていたのだ。たとえばターマンは,価値ある有能な階級と価値のない愚鈍な階級のどちらかに人間を二分しようとしたが,当時それを疑問視する人などほとんどいなかった。スタンフォード・ビネー式知能検査で,相対的に数値が低い人をターマンが「精神薄弱」と呼んだことは先に書いたが,それはまだ婉曲な表現だったのである。「精神欠陥」や「軽愚」,さらには「有害な者」と呼ぶ人までいた。足の不自由な人は「びっこ」,ホームレスは「ルンペン」,しゃべれない人は「阿呆」と呼ばれた。そして,実在するエルマー・ファッドたち,つまり,ハリーのようにしばしばRの発音に苦労する人は,「マヌケ」と呼ばれた。先生が下手で話にならないと思ったら,学生がブーイングするというのは,よくあることだったのだ。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.92

無視されたボウルビー

ボウルビーの見解は,彼の知っているほぼ全員を怒らせてしまった。アンナ・フロイトは彼を完全に追放した。嘆くという感情が持てるほど乳児に「自我が発達している」という点に,彼女は強い疑念を抱いたのだ。クラインは,赤ちゃんが悲しそうに見え,「抑うつ」段階を通過することは認めたが,それは母親を恋しがっているのではなく,正常な発育なのだと述べた。彼女の主張によれば,ボウルビーが見ているものはすべて性的緊張に対する反応であり,おそらく去勢に対する恐怖と,威圧的な両親に対する怒りだろうと主張した。英国精神分析協会が愛着理論とその創始者をあまりにも目の敵にしたので,ボウルビーは会合に行くのをやめてしまった。「彼の論文は読まれず,引用されず,見られなくなったので,彼は精神分析の世界に存在しないことになってしまった」とカレンは述べている。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.86

喜びという尺度

ボウルビーを知る科学者たちは,彼が典型的な英国紳士であり,ときに傲慢で,性格も口調も皮肉っぽく,感情的でなく,見るからにクールだったと記憶している。しかし,WHOの報告書では,彼は激烈だった。電線を流れる電気のように,どのページでも怒りがうなり声をあげていた。「母親業とは,当番制でできるようなものではない。互いの性格を変化させる,生きた人間同士の関係なのだ。正しい食事とは,カロリーやビタミンの供給以上のことが求められる。もし食事が有益なものなら,われわれはそれを楽しむべきだ。同じように,母親業も1日に何時間という尺度で考えるべきではない。母と子の双方が一緒にいる喜びという尺度でのみ考えるべきなのだ」

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.82

フロイトとボウルビー

当時,すべての精神分析家はひとりの男に師事していた。その名は,ジークムント・フロイト。ボウルビーが精神医学の勉強を始めたとき,フロイトは73歳で,ウィーンの裕福な地域に住んでいた。しかし,続く10年間で,ナチスは彼の家も財産も出版所も蔵書も没収した。妹たちは全員,収容所のガス室で殺害された。フロイト自身は,妻と子どもたちとともに1938年にイギリスへと亡命したが,再び帰ることなく,安全な土地に到着して1年のうちに癌で亡くなってしまった。しかし,不幸な晩年の数年間ですら,フロイトの影響力は強大だった。もちろん,死後60年以上が経った今でも,その影響力はまだ残っている。ボウルビーの時代には,さぞ強かったことだろう。まるでフロイトのぼんやりくすんだ姿がいまだにそこに佇み,誰かの間違いや彼の理論に対する疑念に眉をひそめ,難色を示しているかのようだった。娘のアンナ・フロイトも,彼の影響力を維持するのに一役買っていた。彼女は第二次世界大戦後のイギリスでもっとも有力な精神分析家のひとりとなっていたのである。だが,フロイトの考えはそもそも十分に強力だった。永遠に精神分析界に挑みつづけられるほど,強力で刺激的だった。フロイトの死後,何年もの間,彼の考案した概念——潜在意識や性的抑圧,空想世界の力など——がそっくりそのまま残っていた。彼のおぼろげな姿は徐々に薄れていったものの,完全に消え去ってはいなかった。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.80

感情はコントロールすべき

ワトソンは,感情はコントロールされなければならないと信じていた。感情は厄介で,複雑である。感情の制御方法の解明こそが,科学者のなすべきこと,理性的な人間のなすべきことだ。そこで,彼は感情について熱心に研究に取り組み,感情も他の基本的な行動と同様に操作できるということを示そうとした。赤ちゃんを押さえつければ,怒りの感情を引き出せる。それは単純な事実であり,科学に精通すれば,観察し,コントロールすることができる。冷たく聞こえるだろうが,それこそが彼の意図だった。多くの同僚と同様にワトソンも,心理学は正真正銘の科学であり,物理学のような信頼性と冷たいまでの正確さを持つ学問であることを証明しなければならないという思いに突き動かされていた。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.59

母の愛は危険

おそらく,南カリフォルニア生まれの心理学者でアメリカ心理学会会長だったジョン・B・ワトソンほど,そのことを強調した者はいないだろう。現在では,ワトソンは愛情という害悪の撲滅運動を先導した科学者として知られている。「子どもを可愛がりたいという誘惑にかられたら,母の愛は危険な道具であることを思い出しなさい」とワトソンは警告した。子どもを抱きしめたり愛撫したりしすぎると,その幼年期は不幸になり,悪夢の青春時代を迎えることになるだろう——あまりにひどく歪んで育つと,結婚生活に適応できない大人になるかもしれない。驚くほど短期間でそうなりかねないのだ,とワトソンは警告した。「間違った扱い方をしたせいで,いったん子どもの性格が損なわれてしまったら,そのダメージから回復できる保証がどこにあるというのか?そのようなことがたった数日で起こってしまうのだ」

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.58

無菌状態

20世紀初頭の医学会では,超がつくほど清潔で,無菌状態で覆われた赤ちゃんが病気予防上の理想とされており,それ以上を望むなら安全な子宮へ戻すしかないと言われていた。ドイツでは医師のマーティン・クーニーが,未熟児のためにガラス製の保育器を開発した。彼の「子ども孵化器」には,製造業者も医者も興味を持った。当時,未熟児はいずれ死んでしまうのが常だったので,親の多くは子どもを手放し,医者に渡していたのである。そうした医師はクーニーに未熟児を譲り渡すようになった。保育器を宣伝するために,クーニーはガラス製の箱に入った赤ちゃんをずらりと展示する世界ツアーに乗り出し,手始めにイギリス,それからアメリカへと向かった。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.55

両親からの分離促進

それ以前のアメリカでは,両親はたいてい小さな子どもと同じ部屋や,同じベッドで寝ていたのだが,ホルトは陣頭に立って,子どもを別室で寝かせる改革運動を推し進めた。赤ちゃんを親の寝室で寝かせてはなりません。良い育児に必要なのは,よい衛生環境と清潔な手,ごくわずかな触れ合い,そして空気と太陽です——あなたがた両親から離れた空間が必要なのです。それはすなわち,愛情あふれる身体的接触もご法度ということだった。ホルトは問いかけた。子どもにキスをするほど悪いことがあるでしょうか?両親たるものが,唇という悪名高き感染源で赤ちゃんに触れることを本当に望んだりするでしょうか?
 親たちはそのような接触禁止に疑問を抱いただろうが,ホルト一派は抱かなかった。1888年に刊行された『妻のためのハンドブック』(赤ちゃんをうまく扱うためのヒント集)の中で,医師のアーサー・アルブットも,母親との接触によって感染症が持ち込まれるおそれがあると警告し,本当に赤ちゃんを愛しているなら注意深く距離を保つべきだと述べている。子どもは「死ぬためではなく,生きるために生まれてきた」のだから,触れる前には必ず手を洗い,過剰な接触で「甘やかして」はならない。そうすれば,「それ」——その本では,赤ちゃんは常に「それ」と呼ばれている——は成長し,「社会に役立つように」なるだろう。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.54

死にゆく場所

いつの時代もそうだった。18世紀のヨーロッパの記録がそれを物語っている。フィレンツェにあったオスペダーレ・デッリ・イノチェンティ(無垢の家)という孤児院では,1755年から1773年の間に1万5000人以上の赤ちゃんが収容されたが,1回目の誕生日を迎えるまでに3分の2が死亡した。同じころのシチリアでは,あまりに多くの孤児が死ぬので,孤児院の門に「ここでは子どもたちが公費で殺されている」という標語を彫刻すればどうか,と近隣のブレシアの住民が提案している。19世紀のアメリカの孤児院の記録からも同様のことが読み取れる。たとえば,ニューヨーク州バッファローにあった,寡婦や孤児や乳幼児を保護する聖メアリー救護院の記録によれば,1862年から1875年の間に2114人の子どもが収容されたが,半数以上の1080人が到着から1年以内に死亡している。生き延びた子どもの大半には,母親が一緒にいた。「子どもたちを養育するために,シスターたちは食べものを与え,換気し,清潔にするなど,可能なかぎり注意を傾けて世話をした。しかし,大半の子どもたちは死んでしまった」

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.51-52

優生学とIQ

今日では,IQテストは主に分析能力を測定する限定的な検査だと考えられている。いま振り返ってみると,ターマンやIQに携わった心理学者たちはエリート主義者だし,あるいはそれよりタチが悪いと言えるかもしれない,と多くの心理学者も認めている。低得点者を表す「愚鈍」という言葉を生みだしたのは,知能テスト信者だったヘンリー・ゴダードである。ゴダードは移民を批判する悪質な発言を繰り返し,ユダヤ人や東欧からの移民の「知能の低い」遺伝子が,北部ヨーロッパの優良な遺伝子を薄めてしまうと主張した。知能テストの支持者たちは,「精神薄弱」を断種して,次世代の低能者を生み出さないようにすべきだと論じ,支持を得た。ターマン自身も,遺伝的な優良性は社会全体の優良性につながると記述している。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.43

生まれつき才能があるかないか

ターマンは,人間の可能性を評価するための研究道具のひとつとして知能検査を用い,目的に合わせて修正した。フランスの心理学者,アルフレッド・ビネーが創案した初期のバージョンはもっと教員向けのもので,特別授業が必要な子どもを識別し,必要に応じたより良い教育を与えるための手段だと考えられていた。しかし,ターマンの考えは違った。それほど同情的でなく,おそらくもっと臨床的な見方をしていたのである。彼はもっと純粋に分析能力に特化したテストに作り直した。改訂版では,三角形の角度を考える能力や,異なる速度で駅に近づいている2台の電車についての有名な問題などを解く能力を測定する。ターマンは,生徒が適切な教育を受けているかどうかを判断することにはあまり興味がなかった。関心があったのは,生まれつきの知能や,難しい問題を解くことができる生来の才能だった。いつの日か,自分のテストを使って,社会が人々を才能に応じて分類できればいいと願っていた。そうすれば,子どもたちは才能に応じた教育が受けられるようになるだろうし,賢い者はもっと賢くなれる。教え方の改善が重要な問題だとは思っていなかった。正直なところ,人には生まれつき才能があるかないかのどちらかしかないと信じていたからである。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.42

スタンフォードのスター心理学者

ターマンは,心理学というまだ新しい分野の有名人だった。自分でそれがわかっていたし,仲間もわかっており,大学もわかっていた。病気にでもかかろうものなら,スタンフォード大学事務局は非常に心配した。1926年,ターマンがインフルエンザのために東海岸への旅行をキャンセルしたとき,学長のレイ・ライマン・ウィルブールは,「具合が良くないと伺って心配しておりますが,ご自愛なさっていることを嬉しく存じます」という気遣いの手紙を書き送った。1920年代のスタンフォードにおいて,ターマンはただ有名で革新的な研究者であっただけでなく,権力者でもあった。心理学部は「彼」のものであり,末端の学生に至るまで,全員がそのことを知っていた。

デボラ・ブラム 藤澤隆史・藤澤玲子(訳) (2014). 愛を科学で測った男 白楊社 pp.41

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]