忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

チーズとバター

チーズの歴史を語る観点からさらに面白いのは,アブラハムがカード,あるいはフレッシュチーズは神の栄光の食卓に載せるのにふさわしいと考えていたことである。これはチーズが信仰にかかわっていたことを示す最古の記録であることは間違いない。この時期までにチーズは,メソポタミアの地において宗教上の儀式などで欠くことのできない存在となってすでに千年以上が経過していた。実際に,紀元前3世紀,寺院ではチーズとバターの日常的な供え物がごく普通になされるなど,宗教儀式のなかに組み込まれていたのである。制度としての宗教体系を通じてこうした儀式は周辺に伝播し,人類の最初の文明の成立に際しても中心的な役割を果たした。その結果,近東とギリシャ,ローマさえも含む,その後に続くほとんどすべての文明に影響を及ぼすこととなったのである。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.34-35
PR

高温加工の発見

ところが,南西アジアで酪農が始められた直後からチーズとバターの製法が発明され,それによって,人類はミルクから栄養を取ることが可能となったのである。
 チーズ製造発展の転機は紀元前7000年から6500年ごろの高温加工(高温を物質に与える技術)の発見の時で,それによって,新石器時代の陶器製造への道が開かれた。陶器の発展は食品の保存,加工,輸送,調理技術一般の観点から見て,大きな前進だった。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.25

ラクターゼ

新石器時代の人類が動物の乳を集めるようになったのは,人間の乳幼児に与えることを目的としていたのだろう。ミルクは成人よりも乳幼児にとって重要な食品だったからに他ならない。それはなぜか。ミルクは成分としてラクトース(乳糖)を高い濃度で含んでいる。しかしその消化には胃や腸の中で酵素のラクターゼを作る必要がある。人間を含む全ての哺乳類は生まれたばかりの時には自然にラクターゼを作っており,それによって新生児は母乳を消化することができるのだ。しかし,ラクターゼの生成は通常離乳後の哺乳類では減少し,成人になるまで続くことはない。したがって,人間の大人がミルクを飲んだ時,ラクトースは消化されないままで残り,腸内の微生物環境を破壊し,激しい下痢,腸内ガスの発生やそれによる膨満などのような顕著な症状を引き起こす。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.24

価値観を捨てよ

もうひとつ,過去が照らし出す重大な選択は,価値観を捨て去る勇気を伴うものだ。これまで社会を支えてきた価値観のうち,変化した新しい状況のもとでも維持していけるのはどれなのか?見切って,新しいやり方に切り替えたほうがいいのは,どれなのか?ノルウェー領グリーンランドの住民は,自分たちがヨーロッパ人であり,キリスト教徒であり,牧畜を生業とするという意識を捨てきれず,その結果,死に絶えた。対照的に,ティコピア島民は,唯一の家畜であり,メラネシア社会の主要なステータスシンボルでもあるブタを,生態系を破壊するという理由で排除する勇気を持っていた。オーストラリアは今,イギリス型の農耕社会という固有性を見直す段階にある。過去のアイスランド,インドの各地に存在したカースト社会,近年では灌漑に頼っていたモンタナ州の牧場主たちが,個人の権利より集団の権利を優先させるという合意に達した。その後,彼らは共同の資源をうまく管理し,ほかの多くの集団が陥った“共有地の悲劇”を回避することができた。中国政府は人口問題が制御不能の段階へ達するのを恐れて,伝統的な生殖の自由に制限を加えた。フィンランド国民は,1939年,はるかに強大な隣国ソヴィエトに最後通牒を突きつけられたとき,命より自由を重んじる道を選んで,世界を驚かせるほどの勇敢さで戦い,戦争には負けながらその賭けには勝った。わたしがイギリスに住んでいた1958年から62年のあいだに,イギリスの人々は,かつて世界の政治,経済,軍事の王座にあったことから来る長年の自負心が,時代遅れになってきたことを静かに受け入れた。フランス,ドイツをはじめとするヨーロッパ各国は,それぞれが大事に守ってきた主権を欧州連合に従属させる道へ勇気ある一歩を踏み出した。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.365-366

人口と豊かさ

実際には,人口の多い国々は不釣り合いなほど貧しい。10カ国中8カ国がひとり当たりGNP8000ドル以下で,5カ国は3000ドルを下回る。裕福な国々は不釣り合いなほど人口が少ない。10カ国中7カ国が人口900万人以下で,2カ国は50万人を下回る。両リストの間の際立った差は,人口増加率にある。裕福な10カ国がごくすべて低い率(年1パーセント以下)を示しているのに対し,人口の多い9カ国(重複しているアメリカを除く)のうち7カ国までが,裕福な国のいちばん高い数字を上回っている。残るふたつの大国のうち,中国では政府の命令で強制的な堕胎が行われ,ロシアでは公衆衛生の破綻で人口がむしろ減りつつある。つまり,経験的な事実としても,人口の多さと増加率の高さは,豊かさではなく,貧困を意味する。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.347

浄化の必要

鉱山は油田に比べて,はるかに多くの廃棄物を生み出し,はるかに多額の浄化費用を必要とする。油井から汲み上げられたのちに捨てられる廃棄物の大部分はただの水で,廃棄物と石油の比率はせいぜい1対1前後,大きくそれを上回ることはない。連絡用の道路を造ったり,ときおり石油漏れがあったりする以外に,石油・天然ガス採掘事業が環境を侵害することはほとんどない。それに引き換え,鉱石に含まれる金属の割合はごく小さく,おまけに,掘り返す土に含まれる鉱石の割合もごく小さい。だから,金属に対する土の比率は,銅の場合で400倍,金の場合は500万倍にもなる。鉱業会社はそういう膨大な量の土を浄化しなくてはならないのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.275

どちらも正論

なにしろ,資源採取の事業はたいてい巨額の先行投資を要するので,大部分を大企業が支配している。環境保護論者と大企業のあいだには,互いを敵とみなす長年の確執がある。保護論者は企業を,環境を損なうことで人々に害を及ぼしてきた。常に自社の利益を公益より優先させてきたと非難する。そう,この告発は往々にして正しい。これに対して,企業は環境保護論者を,ビジネスの現実に無知かつ無関心で,地元住民と現地政府の雇用や開発への渇望を無視し,人類の繁栄より鳥類の安寧に心を砕き,企業が環境に配慮する方針を打ち出してもけっして褒めようとしないと非難する。そう,この告発も往々にして正しい。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.250

誤った推論

誤った推論に基づく理論の,悲劇的で有名な現代の事例に,第二次世界大戦のフランス軍の軍備がある。第一次世界大戦で凄惨な大虐殺を被ったあと,フランスは,ドイツによる次なる侵略の可能性から自国を護ることが不可欠と認識した。しかし不幸なことに,フランスの陸軍本部は,次の戦争でも,第一次世界大戦と同様の戦闘が行われるはずだと決め込んでしまった。先の戦争では,フランスとドイツのあいだに敷かれた西部戦線が,4年間も塹壕戦のまま膠着状態にあった。入念に守備を固めた塹壕で防衛を担った歩兵部隊は,敵の歩兵部隊の撃退におおむね成功し,攻撃部隊は,新しく開発された戦車を個別に配置して,もっぱら歩兵による攻撃の援軍にあたった。したがってフランスは,さらに巨費を投じて,入念な要塞システムであるマジノ線を作り上げ,東側のドイツとの国境を防御しようとした。しかし,第一次世界大戦に敗れたドイツ陸軍本部は,異なる戦略の必要性を認識していた。ドイツは攻撃の先鋒として歩兵ではなく戦車を利用し,散らばった機甲師団の中へ戦車の大部隊を進めて,かつて戦車に向かないとみなされていた森林地を抜けてマジノ線を迂回し,たった6週間でフランスを打ち破った。第一次世界大戦後の誤った類推に基づく理論で,フランス軍司令官たちは,ありがちな間違いを犯した。司令官たちはよく,来るべき戦争が前回の戦争と同じであるかのような計画を立てる。特に,前回の戦争で自軍が勝利を収めた場合には。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.222-223

二重の皮肉

つまり,オーストラリアの林産物貿易には,二重の皮肉が存在する。第1に,先進国の中でも特に森林の少ないオーストラリアが,縮小する森林を伐採し続け,生産物を日本へ輸出しているが,日本は先進国の中でも国土に占める森林の割合が最も高く(74パーセント),その数字は更に伸びつつある。第2に,オーストラリアの林産物貿易は,事実上,安価な原材料を輸出し,それが別の国で高価かつ付加価値の高い最終製品に加工されたあと,その最終製品を輸入することで成り立っている。そういう特殊な種類の不均衡が見られるのは通常,先進国同士の貿易関係ではなく,経済発展も工業化も遅れた交渉に不慣れな第三世界の植民地が,先進国と取引する場合だろう。先進国は,第三世界の国々を利用し,その原材料を安価で買い求め,自国でその材料に付加価値を与え,高価な製品を植民地に輸出することに長けているからだ——日本のオーストラリアへのおもな輸出品は,車,通信機器,コンピュータ機器であり,オーストラリアの日本への他のおもな輸出品は,石炭と鉱物。つまり,オーストラリアは,貴重な資源を気前よく差し出しながら,その代価をほとんど受け取っていないように見える。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.197

距離の暴虐

しかし,オーストラリア国内にも,もうひとつの“距離の暴虐”がある。オーストラリアの生産的な地域,あるいは定住者のいる地域は,少ないうえに分散している。アメリカのたった14分の1の人口が,ハワイとアラスカを除くアメリカ本土48州とほぼ等しい面積の中に散らばって住んでいるのだ。その結果,国内の輸送が上昇し,先進国としての都会生活の維持を高価なものにしている。例えば,オーストラリア政府は,国内のあらゆる場所のあらゆる家庭と企業のために,国内電話網への電話接続料を負担している。たとえ,最寄りの電話局から数百キロ離れた奥地の電話局への接続でもだ。今日では,オーストラリアは世界で最も都市化された国であり,人口の58パーセントがたった5つの大都市に集中している——1999年時点で,シドニーに400万人,メルボルンに340万人,ブリスベンに160万人,パースに140万人,アデレードに110万人。その5つの都市のうちで,パースは世界で最も孤絶した大都市であり,隣の大都市(約2000キロ東に位置するアデレード)までの距離が最も遠い。オーストラリアの最大手企業,国営航空会社カンタス航空と電気通信会社テルストラの2社が,そういう距離の橋渡しを事業の基盤としていることは,けっして偶然ではない。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.170

不安定な周期

ところが,オーストラリアの大部分では,降雨がいわゆるENSO(エルニーニョ南方振動)に左右される。つまり,1年ごとの降雨量が予測不可能で,10年単位ではさらに予測不可能になる。オーストラリアに入植した最初のヨーロッパの農業経営者と牧畜業者は,ENSOによって決まるこの国の気候のことなど知るすべもなかった。ヨーロッパではこの現象の発見はむずかしく,気候学の専門家でさえ,最近数十年でようやくそれを認識するようになったほどだ。オーストラリアの多くの地域では,最初の農業経営者と牧畜業者が,湿潤な年の続いた時期に渡来したという不運があった。そのせいで彼らは惑わされて,オーストラリアの気候を見誤ってしまい,目に映る好ましい状況が標準だと思い込んで,作物やヒツジを育て始めた。実のところ,オーストラリアの農地の大部分では,作物の生育に十分な降雨がある年はむしろめずらしい。たいていの場所では,降雨が足りる年と足りない年がほぼ半々で,いくつかの農業地域では10年のうち足りるのが2年程度だ。そのせいで,オーストラリアの農業は費用がかさみ,採算が成り立たない。農業経営者が耕作と種まきに金を費やしても,作物を収穫できない年が半分以上あるのだ。さらに,もうひとつの不運な状況として,農業経営者が地面を耕作し,前回の収穫のあとに出てきたなんらかの雑草の被覆ごと地面の下を掘り起こして,裸の土壌がむき出しになることが挙げられる。もしその後,農業経営者が種をまいた作物が育たなければ,土壌は裸のままで,雑草にすら覆われず,侵食にさらされてしまう。つまり,降雨量が予測できないせいで,短期的には作物栽培の費用がかさみ,長期的には侵食が増大するのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.167-168

気付かなかった

生産性の低いオーストラリアの土壌のもうひとつの特徴は,その問題がヨーロッパからの最初の入植者には認知できないものだったことだ。それどころか,現代世界でおそらく最も背の高い樹木——ヴィクトリア州のギプスランドに自生するユーカリは高さ120メートルに達する——を含む堂々たる広大な森林地に遭遇した彼らは,その外観に惑わされ,この土地が高い生産性を有すると考えてしまった。しかし,伐採者が最初の樹木の現存量(特定の空間内に生存する生物の総体)を取り除き,ヒツジが草の現存量を食べ尽くしてしまったあと,入植者たちは,樹木や草の再成長のあまりの遅さに,また農地の採算性の低さに驚かされ,多くの地域では,農業経営者や牧畜業者が多額の設備投資を行なって,家や柵や納屋を建設したり農地の改良を図ったりした末に,結局は放り出さざるをえなくなった。初期の植民時代から今日に至るまでずっと,オーストラリアの土地利用は,土地の開墾,投資,破産,放棄というサイクルを何度も繰り返してきた。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.164-165

非生産的大陸

オーストラリアの環境をん題を考える際,最初に頭に浮かぶのが,水不足と砂漠だ。実のところ,オーストラリアの土壌は,水の入手困難以上に大きな問題を引き起こしてきた。オーストラリアは,最も非生産的な大陸なのだ。その土壌は,平均して最も栄養濃度が低く,最も植物の成長が遅く,最も生産力に乏しい。それは,オーストラリアの土壌が概して非常に古く,数十億年を経るうちに雨でその栄養分が浸出してしまったからだ。オーストラリア西部のマーチソン山脈には,地殻として残っている最古の,約40億年前の巌が存在する。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.160

環境の脆弱さ

オーストラリアだけでなく現代の多くの国々が,みずからの環境を搾取(マイニング)しているが,オーストラリアはいくつかの理由から,過去と現在の事例研究の掉尾を飾る地としてふさわしい。この国は,ルワンダ,ハイチ,ドミニカ共和国,中国とは違って,本書の読者となる人の大部分が住む先進国のひとつだ。先進国の中でも,この国の人口と経済は,アメリカやヨーロッパや日本と比べてずっと小さく,あまり複雑ではないので,状況を把握しやすい。生態学的に見ると,オーストラリアの環境は並はずれて脆弱で,おそらくアイスランドを除けば,先進国中で最も脆弱だろう。その結果,他の先進国にいずれ大損害をもたらすかもしれず,第三世界の諸国ではすでに顕在化している多くの問題——過放牧,塩性化,土壌侵食,外来種,水不足,人為的な旱魃——が,オーストラリアではゆゆしき段階を迎えつつある。つまり,オーストラリアは,ルワンダやハイチのように崩壊の危機に瀕しているわけではないが,現在の傾向が続けば先進国のどこかで実際に起こるはずの数々の問題の,毒味をしているようなものだ。とはいえ,それらの問題の解決をめざすオーストラリアの先行きは希望を与えてくれるし,けっして暗くはない。それに,オーストラリアは,よい教育を受けた国民と,高い生活水準,世界の基準から見て比較的公正な政治・経済制度を有している。したがって,オーストラリアの環境問題を,どこか別の国の環境問題を説明する際にありがちなように,教育を受けず貧困にあえぐ国民と,ひどく腐敗した政府及び企業による不当な生態系管理の産物としてかたづけることはできない。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.158-159

人口の多さ

先進国の住民が現在享受しているライフスタイルを,あらゆる人が切望した場合,世界にどのような影響が及ぶのかについては,中国が良い具体例を示してくれる。中国は,世界最大の人口と,最も急速に成長する経済を併せ持っているからだ。総生産または総消費とは,人口に,ひとり当たり生産率または消費率を掛けた値を意味する。中国では,巨大な人口のせいでその総生産がすでに高い値を示している。とはいえ,ひとり当たりの生産・消費率はまだきわめて小さく,例えば工業生産される4つの主要金属(鋼鉄,アルミニウム,銅,鉛)のひとり当たりの消費率はたった9パーセントにすぎない。しかし,中国は急速に,先進国並みの経済を達成するという目的に向かってシンポを遂げつつある。もし,中国のひとり当たり消費率が先進国の水準まで上がれば,たとえ世界の他の条件——つまり,中国以外の人々の人口と生産・消費率——がまったく変わらなかったとしても,中国の生産または消費率の上昇だけで,前述の主要金属の場合,(中国の人口を掛け合わせてみると)世界の総生産あるいは総消費が94パーセント増加する。すなわち,中国が先進国の基準に達すれば,全世界の人間による資源利用と環境侵害がほぼ倍増するのだ。ところが,現在の世界の資源利用と環境侵害でさえ,このまま維持できるとは考えにくい。どこかで歯止めが必要だろう。中国の問題がそのまま世界の問題になる最も強い理由は,そこにある。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.149-150

高汚染産業

ごみよりもっとひどいのは,進んだ科学技術を中国に伝えて,中国の環境を救おうと努める国々がたくさんある一方で,生産国ではすでに違法となった科学技術を含む高汚染産業(PII)を伝えて環境を損なっている国があることだ。こういう科学技術のうちのいくつかは,中国からさらに開発の遅れた国へと伝わっていく。一例を挙げると,1992年,日本では17年前に禁じられたアブラムシ駆除用殺虫剤フヤマンの製造技術が,福建省の日中合弁会社に売却され,多くの人々を中毒にして死に至らしめただけでなく,深刻な環境汚染を招く結果にもなった。広東省だけを見ても,海外投資家によって輸入されるオゾン層破壊物質フロンの量が,1996年には1800トンに達しており,世界のオゾン層破壊への加担から中国が手を引くことはますます困難になっている。1995年の時点で,中国は推定16998社のPII企業の本拠地となり,合わせて約500億ドルの工業生産高をあげた。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.145-146

政治と環境政策

また,バラゲールを環境保護主義者と認めてしまうと,彼の凶悪な特性が環境保護主義のイメージを不当に損なうという懸念もある。しかし,ある友人が言ったように,「アドルフ・ヒトラーは犬が大好きだったし,歯も磨いたけれど,わたしたちが犬を嫌って歯磨きをやめるべきだということにはならない」のだ。また,わたし個人としては,1979年から1996年までインドネシアの軍事独裁政権下で働いた経験を振り返ってみなければならないだろう。わたしは,その独裁政権の政策と私的な事情,特にニューギニアの友人たちに対する仕打ちや,その兵士たちに自分が危うく殺されかけたことなどから,政府を嫌悪し,恐れていた。それゆえ,その独裁政権が,インドネシア領ニューギニアで包括的かつ効果的な国立公園制度を設けていることを知って驚いた。わたしは,民主主義国であるパプアニューギニアで数年間経験を積んだあと,インドネシア領ニューギニアへ赴いたので,凶悪な独裁政権よりも高潔な民主主義政権のほうが,環境政策もずっと進歩的だと思い込んでいた。しかし,真実はまったく逆であることがわかったのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.115-116

寄せ集め

バラゲールに関するさまざまな疑問の答えは,わたしにもわからない。彼を理解するうえでの問題のひとつは,こちらが非現実的な期待を抱いてしまうことだろう。わたしたちは無意識のうちに,人間を単純に“善”か“悪”かに色分けし,ある人物が徳性を備えているなら,その人物の行動のあらゆる面にそれが輝き出るはずだと考える。相手の中に高潔で賞賛すべき面をひとつでも見つけると,別の面では違うとわかったときに困惑を覚える。人間は首尾一貫した存在ではなく,たいていは相互に関係のないさまざまな経験で形作られた特性の寄せ集めなのだとは,なかなか認識できない。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.115

ハイチとドミニカ

社会的・政治的相違のひとつには,ハイチが裕福なフランスの植民地であり,フランスの海外領土の中で最も貴重な植民地になった一方で,ドミニカ共和国はスペインの植民地だったものの,16世紀後半にはそのスペインがイスパニョーラ島を放置して,みずからも経済的・政治的に衰退していったことが挙げられる。つまりフランスは,ハイチにおける奴隷を基盤とした集約的なプランテーション農業の発展に投資することができ,実行にも踏み切ったが,スペインにはその意図も力もなかった。フランスは,スペインよりもはるかに多くの奴隷を植民地へ送り込んだ。その結果ハイチは,植民地時代には隣国の7倍の人口をかかえ,現在でも,ドミニカの880万人に対し1000万人と,若干多い人口を有している。しかし,ハイチの面積は,ドミニカ共和国の面積の半分をわずかに上回る程度なので,人口密度ではハイチがドミニカの倍の高さになる。人口密度の高さと降雨量の少なさの組み合わせが,ハイチ側の急速な森林伐採と地力の劣化の主因となった。それに加えて,ハイチに奴隷を運んでくるフランスの船はすべて,ハイチの木材を積み込んでヨーロッパへ戻ったので,19世紀半ばまでには,ハイチの低地と山腹は森林資源をあらかた剥ぎ取られてしまった。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.103

解釈と弁明の混同

第1に,大量虐殺が発生した理由になんらかの“解釈”を与えると,それは“弁明”と受け取られかねない。しかし,ある大量虐殺について,単純化しすぎたひとつの要因による解釈に達しようが,過度に複雑な73の要因による解釈に達しようが,ルワンダの大量虐殺をはじめ,悪事の実行犯たちがとった行動に対する個人的な責任が変化するわけではない。悪の根源について論じる場合,いつもこういう誤解が生じる。解釈と弁明を混同している人たちは,どんな解釈にも反発する。しかし,ルワンダの大量虐殺の根源を理解することは,たいへん重要なのだ。殺人者に責任逃れをさせたいからではなく,ルワンダや,他の場所でのあのようなことがふたたにお起こる危険性を減らすために,その知識を利用したいからだ。同じような目的から,ナチのホロコーストの根源を理解すること,あるいは連続殺人犯と強姦犯の心理を理解することに生涯を捧げる決意をした人々もいる。彼らがそういう決意をしたのは,ヒットラーや連続殺人犯や強姦犯の責任を軽減するためではなく,ああいう恐ろしいことがなぜ現実となったのか,再発を防ぐ最善の方法とは何かを探るためだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.84

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]