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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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内的要因よりも

江戸時代中・後期の日本の成功を解釈する際にありがちな答え——日本人らしい自然への愛,仏教徒としての生命の尊重,あるいは儒教的な価値観——は早々に退けていいだろう。これらの単純な言葉は,日本人の意識に内在する複雑な現実を正確に表していないうえに,江戸時代初期の日本が国の資源を枯渇させるのを防いではくれなかったし,現代の日本が海洋及び他国の資源を枯渇させつつあるのを防いでもくれないのだ。むしろ,答えのひとつは,日本の環境的な強みにある。同じ環境要因のいくつかについては,すでに第2章で考察し,なぜイースター島とその他数カ所のポリネシア及びメラネシアの島々が森林破壊に至った一方で,ティコピア島やトンガなどの島々はそうならなかったのかを説明した。後者の島々の住民は,伐採後の土壌で樹木がすばやく再生するという,生態系的にたくましい土地に住む幸運に恵まれた。ポリネシアやメラネシアのたくましい島々と同様,日本では,降雨量の多さ,黄砂による地力の回復,土壌の若さなどのおかげで,樹木の再生が速い。もうひとつの答えは,日本の社会的な強みに関係がある。そういう日本社会の特徴は,森林の破壊危機の前からすでに存在したので,対応策として生み出される必要がなかった。具体的には,他の社会では多くの土地の森林を荒廃させる原因となった,草や若芽を食べてしまうヤギやヒツジがいなかったこと,戦国時代が終わって騎兵が必要なくなり,江戸時代の初期にウマの数が減ったこと,魚介類が豊富にあったので,蛋白質や肥料の供給源としての森林への圧力が緩和されたことなどが含まれる。日本社会は,ウシやウマを役畜として利用していたが,森林伐採と森林由来の飼料の不足を受けて家畜の数は減ってしまい,人間の手で鋤や鍬などの道具を使わざるを得なくなった。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.51-52
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日本の森林管理

日本で育林の興隆が促されたのは,制度や手法が全国でほぼ統一されていたからだ。当時数百の公国や小国に分かれていたヨーロッパの状況とは異なり,江戸時代の日本は単独の政府に統治された国家だった。南西部は亜熱帯気候,北部は温帯気候に属するが,国全体が一様に高湿で,起伏に富み,侵食を生じやすく,火山性の起源を持ち,森林に覆われた急峻な山脈と平野の農耕地に分かれているので,ある程度育林の条件に生態系上の統一性が得られる。日本古来の多様な森林の利用法,つまり支配層が木材の権利を主張し,農民が肥料や飼料及び燃料を集める方式に代わって,植林地は木材生産という主要な目的用に限定され,他の目的は木材生産に支障のない範囲でのみ許可されるようになった。役人が山林を巡視して,不法な伐採行為を取り締まった。こうして,植林による森林管理は,1750年から1800年のあいだに日本に広く受け入れられ,1800年までには,日本の長期にわたる木材生産の落ち込みは上昇に転じた。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.50-51

トップダウン方式の森林管理

しかし日本は,ドイツとは関係なく同時期にトップダウン方式の森林管理を発展させていたことがわかっている。この事実にも,驚かされる。日本は,ドイツと同様,工業化された人口過密な都市型社会だからだ。先進大国の中で最も人口密度が高く,国全体では1平方マイル(約2.6平方キロメートル)当たり1000人,農地では1平方マイル当たり5000人が住んでいる。これほど過密な人口をかかえながら,日本の面積の80パーセント近くは,人口がまばらで森林に覆われた山々から成り,ほとんどの国民と農業は,国土のたった5分の1に当たる平野に押し込められている。国内の森林は,非常によく保護され,管理されているので,木材の貴重な供給源として利用され続けながらも,範囲をさらに広げつつある。国土が森林に覆われていることから,日本人はよく自分達の島国を“緑の列島”と呼ぶ。この緑の覆いは,見たところ原生林に似ているが,実際には,日本の利用可能な原始の森は300年前にほとんど切り開かれてしまい,再生林と植林地に置き換えられて,ドイツやティコピア島と同じように,細部まできびしく管理されている。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.37

原始的なのか

ヨーロッパから来た探検家や入植者たちの目には,ニューギニア高地人は“原始的”に見えた。人々は草葺き屋根の小屋に住み,部族間の戦争に明け暮れ,王どころか首長さえ立てず,文字を持たず,豪雨を伴う寒冷な気候条件下でもほとんど衣服を身に着けない。また,金属を持たないので,代わりに石と木と骨で道具を作る。例えば,樹木を切り出すには石の斧,菜園や用水路を掘り起こすには木の棒,一戦交えるには木の槍と矢,そして竹のナイフという具合だ。
 しかし,“原始的”なのは,見かけだけだった。彼らの農法は洗練されており,今日でも,なぜニューギニアの農法が成功する一方で,ヨーロッパから善意で持ち込んだ革新的な農法がかの地では失敗したのかと,ヨーロッパの農学者たちが首をかしげる事例があるほどだ。例えば,ヨーロッパのある農業指導者は,ニューギニアの湿潤な地域の急斜面に作られたサツマイモ畑に,斜面をまっすぐ下へ走る垂直の排水路が設けられていることに気づいて仰天した。指導者は,村人たちを相手に,その恐ろしい間違いを修正して,ヨーロッパの優れた習慣にならい,地形に沿って水平に走る排水路を掘るよう説いた。気圧された村人たちは,排水路の方向を改めたが,その結果,排水路の深部に水が溜まり,次の豪雨の際に地すべりが生じて,畑がまるごと斜面の下の川まで運び去られてしまった。まさにそういう自体を避けるべく,ニューギニアの農民たちは,ヨーロッパ人が渡来するずっと前に,高地特有の降雨と土壌の条件下で垂直の排水路を設ける利点を学んでいたのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.17-18

トップダウン方式

これと正反対の方式が,ポリネシアのトンガなど,中央集権的な政治体制を採る大きな社会に適したトップダウン方式だ。トンガはあまりにも広大すぎて,群島全体はおろか,大きな島々のうちのひとつでさえ,個々の農民が把握することはむずかしい。群島内の遠く離れた場所で何か問題が起こって,それが農民の生活に破滅をもたらしうるとしても,初期段階で農民が知るすべはない。たとえそれを知った場合でも,お決まりの「われ関せず」の姿勢でかたづけてしまう可能性もある。自分にとってはさして重大ではない,あるいはその影響が及ぶのは遠い未来だ,と考えるからだ。また逆に,自分の地域の問題(例えば森林乱伐)が生じても,別の地域に樹木はたくさんあると決め込んで,おざなりな態度をとるかもしれない。実際にどうなのかは知らないままに。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.14

ボトムアップ方式

小さい島もしくは陸地を占有する小規模の社会は,環境管理にボトムアップ方式を採ることができる。領土が小さいので,住民すべてが島全体の事情に通じ,島内のあらゆる開発に影響されるという自覚があって,帰属意識や共通の利益をほかの住民と分かち合っている。したがって誰もが,隣人とともに妥当な環境対策を採れば,恩恵を受けられることを知っている。これがボトムアップ方式であり,そこでは人々が自分達の問題の解決に一致協力して取り組む。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.13

逃げるか攻撃するか

わたしたち現代人は,アマゾンやニューギニアの奥地に住むいくつかの種族を除けば,すべての“先住民”がすでにヨーロッパ人と接触している世界に住んでいるので,初めて接触することのむずかしさになかなか思いが至らない。実際問題として,北の狩場で初めてイヌイットの集団を目にしたときのノルウェー人たちに,どういう行動が期待できるだろう?「はじめまして!」と叫んで,笑顔で歩み寄っていき,身ぶり手ぶりで意思の疎通を図りながら,セイウチの牙を指さし,鉄の塊を差し出してみせる?わたし自身,生物学の現地調査でたびたびニューギニアを訪れ,そういう“異民族間の初対面”に何度も立ち会って,それが危険で,心底恐ろしいものであることを思い知らされてきた。そういう状況下では,“先住民”はまずヨーロッパ人を侵入者とみなし,自分たちの健康や生活や土地の所有権を脅かしかねない存在として,正当に認識する。どちらの側も,相手の出かたを予測できず,緊張を不安にとらわれ,逃げ出すべきか攻撃すべきか決めかねて,相手が恐慌をきたしたり先に攻めてきたりしないかと神経を尖らせる。この状況を無事に切り抜けることはもちろんとして,友好的な関係に転じるためには,極度の細心さと忍耐力が必要だ。後年のヨーロッパ人入植者たちは,経験を重ねて対処のしかたを学んでいくが,グリーンランドのノルウェー人は先に攻撃をしかける道を選んでしまったらしい。
 要するに,18世紀のグリーンランドのデンマーク人たちも,ほかの土地で先住民と遭遇したほかのヨーロッパ人たちも,このノルウェー人たちと同じ領域の問題にぶつかった。“原始的な異教徒”に対する自分たちの偏見,殺すべきか,奪うべきか,交易すべきか,姻戚になるべきか,土地を取り上げるべきかという迷い,相手に遁走も攻撃も思いとどまらせる説得術……。後年のヨーロッパ人たちは,あらゆる選択肢を吟味し,特定の状況に最もふさわしい選択肢を採用することで問題に対処した。特定の状況とは,ヨーロッパ人のほうが数で優勢か否か,じゅうぶんな数のヨーロッパ人が妻を同伴してきたかどうか,ヨーロッパで好まれる製品を先住民が作っているかどうか,ヨーロッパ人が定住したくなるような土地かどうかなどの条件の組み合わせだ。しかし,中世のノルウェー人は選択肢の幅を持たなかった。イヌイットから学ぶことができず,あるいはそれを拒み,優位となる軍事力も持たなかったノルウェー人は,イヌイットを駆逐するどころか,自分たちがグリーンランド史の舞台から消えてしまった。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.419-420

侮蔑意識

あなたがもし,イヌイットの女性に自分の体型に合わせたカヤックを作ってもらいたかったら,あるいはその女性の娘と結婚したかったら,その前にまず友好的な関係を築かなくてはならない。ところが,ここまで見てきたように,ノルウェー人たちは最初から“悪しき態度”を取り,ヴィンランドのアメリカ先住民とグリーンランドのイヌイットを“愚劣な民”などと呼んで,その両方の場所で最初に会った先住民を殺害した。教会を信奉する彼らは,中世ヨーロッパに広く浸透した異教徒への侮蔑意識を胸に抱いていた。
 悪しき態度の裏にあるもうひとつの要素は,ノルウェー人が自分たちこそ北の狩場(ノルズルセタ)の先住民であり,イヌイットを“もぐり”だと考えていたことだ。ノルウェー人はイヌイットより何世紀も前にそこを見つけ,狩りをしていた。北グリーンランドのイヌイットが狩場に現れたとき,セイウチを自分たちの獲物だと思っていたノルウェー人が,イヌイットの捕獲したセイウチの牙に対価を支払う気になれなかったのも無理はない。それに,そのころには,イヌイットの喜ぶ交易品である鉄が,ノルウェー人たちにとっても希少な必需物資になっていたのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.418-419

グリーンランド社会

グリーンランドのノルウェー人社会の特色は,5つの言葉で表すことができる。互いにやや矛盾し合うその言葉とは,“共同型,暴力的,階層的,保守的,ヨーロッパ志向”というものだ。これらの特徴は,グリーンランド社会の祖となるアイスランド社会,ノルウェー社会から引き継がれたが,グリーンランドにおいて最も顕著に表面化した。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.371

脆弱性への対応

今,われわれはこう自問せずにはいられない。いったいなぜアイスランドの入植者たちは,明らかに被害を招くような方法で土地を管理する愚を犯したのだろうか?何が起こるかを認識していなかったのだろうか?そのとおり。入植者たちはその危険性を認識したものの,当初は気づくことができなかった。なにしろ,不慣れなうえに厄介な土地管理という問題を相手にしていたのだ。活火山と温泉を別にすれば,アイスランドは,すでに入植ずみのノルウェーやイギリスとかなり似た土地に見えた。入植者たちにしてみれば,アイスランドの土壌と植生が既知のものよりずっと脆弱だという事実など推し量る手立てもない。スコットランドの高地と同じく,アイスランドでも,高地を領有して多数のヒツジを放つのが当然だと思われたのだ。アイスランドの高地では保有できるヒツジの頭数が制限されること,さらに,低地でもヒツジの頭数が過剰になり始めることなど,知る由もなかった。要するに,アイスランドがヨーロッパで最も深刻な生態学上の被害を受けたのは,ノルウェーとイギリスでは慎重だった移民たちがアイスランドに上陸したとたん分別を失ったからではなく,ノルウェーとイギリスの経験則では,一見豊かなアイスランドの環境に潜む脆弱性に対応できないという事実に気づくのが遅すぎたからだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.317-318

ヴァイキングの階級制度

社会制度についていうと,ヴァイキングはスカンディナヴィア本土から外国に階級制を持ち込んだ。襲撃時に捕らえられた奴隷が最下級,次が自由人,首長が最上級という階層分けで構成されたものだ。ヴァイキングが広汎に進出した時代,ちょうどスカンディナヴィアに統一された大きな王国——これに対するものが,局地的な小さい政治組織で,その頂点にいる首長も“王”と称していた可能性がある——が現われ始めたので,外国に入植したヴァイキングたちも,最終的にはノルウェーの王たちや(のちに)デンマークの王たちと折り合いをつけなければならなかった。とはいうものの,入植者たちは,そもそもノルウェーで王座を狙っていた新興勢力から逃れるために移民となったという経緯もあって,アイスランドでもグリーンランドでも王制を採ることは一度もなく,その支配権は,複数の首長から成る軍閥の手中にとどまっていた。首長たちに所有が許されたのは,自分の船と,貴重で飼育しづらいウシ,さほど珍重されなかった飼育の楽なヒツジなど,ひと揃いの家畜だけだ。首長の従者,家来,賛同者としては,奴隷,自由労働者,小作人,独立した自由人の農夫などがいた。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.300-301

海賊・農夫・交易商・開拓者

しかし,ヴァイキングの物語には,そういう恐ろしい部分と同じくらいロマンチックで,もっと本書との関わりが深い部分もある。ヴァイキングは,恐ろしい海賊であると同時に,農夫,交易商人,植民地開拓者であり,ヨーロッパで初めて北大西洋に乗り出した探検家でもあった。ヴァイキングたちが築いた数々の植民地は,それぞれ大きく異る運命をたどっている。ヨーロッパ大陸とイギリス諸島に入植した者は,最終的に地元の人々に同化し,ロシア,イングランド,フランスなど,いくつかの国民国家の形成に携わった。ヨーロッパ人による初の北米大陸入植の試み,ヴィンランドの植民地は,すぐに遺棄されることになった。グリーンランドの植民地は,最も辺境にあるヨーロッパ社会の領地として450年のあいだ存続したが,最終的には消滅する。アイスランドの植民地は,何世紀にもわたって貧困と政治的な難局に苦しんだのち,近年は世界でも屈指の裕福な社会に生まれ変わった。オークニー諸島,シェトランド諸島,フェロー諸島の植民地は,ほぼなんの問題もなく存続した。これらすべてのヴァイキングの植民地は,同一の社会を祖としている。それぞれの植民地が異なる運命をたどったことと,入植者を取り巻くそれぞれの環境とのあいだには,明らかな相関性が認められる。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.283

食糧と軍事的成功

われわれは,軍事の成否は食糧の供給よりむしろ武器の質で決まると考えがちだ。しかし,食糧供給の実情を改善することで,軍事の成功率が確実に上昇することもある。それが明らかにされた事例を,マオリ時代のニュージーランドの歴史から引いてみよう。マオリとは,初めてニュージーランドに入植したポリネシアの人々だ。旧来マオリ族は,仲間うちで激しい戦闘を頻繁に繰り返していたが,その争いはごく近隣の部族間のみに限られていた。戦闘行為に限界があったのは,サツマイモを中心とする農業の生産性が低く,長期間,あるいは遠距離の行軍に足りるだけのサツマイモを育てることができなかったからだ。ヨーロッパ人がニュージーランドにジャガイモを持ち込んだおかげで,1815年ごろから,マオリ族の作物の収穫高は著しく上昇し始める。この時点で,何週間もの行軍に見合う食糧の生産と供給が可能になった。その結果,1818年から1833年のあいだ,マオリの歴史上15年にわたって,イギリス人からジャガイモと銃を入手した部族が,何百キロも離れた土地に軍隊を送り出し,ジャガイモも銃も入手していない部族に急襲攻撃を仕掛けることになった。トウモロコシの生産性の低さがマヤの戦争に限界を築いたように,マオリ族の戦争にも限界があったが,ジャガイモの生産性がその限界を破ることになったのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.260

マヤの環境

マヤを理解するために,まず,その環境について検討してみよう。わたしたちは,マヤを取り巻く環境を“密林”もしくは“熱帯雨林”だと思っている。これは真実とは言えない。なぜ真実と言えないか,じつはその理由が重要なのだ。熱帯雨林というのは,厳密にいうと,年間を通じて湿潤な土地,つまり,降雨量の多い赤道地帯に育つものを指す。しかし,マヤの国土は赤道から1500キロ以上離れた位置,緯度でいえば北緯17度ないし22度の範囲にあり,“季節熱帯林”と呼ばれる環境に置かれている。つまり,5月から10月にかけては雨季になりやすいが,1月から4月にかけては乾季になりやすい。マヤの国土は,雨季に目を向ければ“季節熱帯林”となり,乾季に目を向ければ“季節砂漠地帯”と呼べるだろう。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.253

内部崩壊の結果

社会の崩壊を理解するために提起した5つの要因の枠組みのうち,アナサジの崩壊には4つの枠組みが関与している。まず,さまざまな型の人為的な環境侵害,ここでは特に森林破壊とアロヨの下方侵食がある。また,降雨と気温の面での気候変動もあり,その影響は,人為的な環境侵害の影響と相互に作用し合った。そして,友好的な集団との内部交易も,崩壊に至る過程に大きく関与している。異なるアナサジの集団は,互いに食物,木材,陶器,石,贅沢品などを供給し合って互いを支えながら,相互依存型の複雑な社会を構成していたが,同時に,その社会全体を崩壊の危険にさらしていた。宗教的要因と政治的要因は,複雑な社会を維持するのに不可欠な役割を果たしていたようだ。具体的には,物々交換の調整をすること,外郭集落の人々に動機付けを行い,食物,木材,陶器などを政治と宗教の中心地に供給するよう促すこと。5つの要因のうち,ただひとつ,アナサジ崩壊に関与したという確証がないのは,外部の敵だ。アナサジ内部には,人口の増加と気候の悪化に伴う戦闘が確かにあったものの,アメリカ南西部の文明は,人口密度の高いほかの社会とのあいだに距離がありすぎて,深刻な脅威を覚えるほどの外敵は存在しなかったのだろう。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.246

持続可能性への過信

遺棄の主因はこのように多様だが,つまるところ,すべては同一の根本的な難題に帰する。すなわち,脆弱で対処しにくい環境に住む人々は,“短期的”には見事な成果をもたらす理に適った解決策を採用するが,長期的に見た場合,そういう解決策は,外因性の環境変化や人為的な環境変化——文書に記された史実を持たず,考古学者もいない社会では,未然に防ぐことができなかった変化——に直面したとき,失敗するか,あるいは致命的な問題を生み出すことになる。ここでわたしが“短期的”と引用符付きで書いたのは,アナサジがチャコ峡谷でじつに600年もの歳月を生き延びたからだ。これは,1492年のコロンブス到着以来,新大陸のどの場所であれ,ヨーロッパ人が居住した期間よりかなり長い。アメリカ南西部のさまざまな先住民たちは,その存続中,5種にわたる経済の効率化を試していた。このなかで,“長期”にわたって,例えば,少なくとも千年のあいだ持続可能(サステイナブル)なのはプエブロの土地利用法だとわかるまで,何世紀もの歳月が費やされている。このことを知れば,われわれ現代のアメリカ人も,自分たちが住む先進国の経済の持続可能性を過信する気にはなれないはずだ。ことに,チャコの社会が1110年から1120年に至る10年間に最盛期を迎えたのち,いかにあっけなく崩壊したか,また,その10年間を生きたチャコの人々にとって,崩壊のリスクがいかに蓋然性の低いものに見えたかを考えれば,なおさらだろう。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.245-246

不安と戦闘に至る

プエブロ・ボニートの最後の建て増しは,1110年から1120年のあいだに始まったと目されている。かつて外向きに開放されていた広場の南側を,壁一面の部屋で囲んだもので,その目的から推して,紛争が頻発していたと考えられる。プエブロ・ボニートを訪れる人々が,もはや宗教儀式に参列して命令を受けるだけでなく,騒動を起こし始めたことは間違いないだろう。プエブロ・ボニートと近隣のチェトロ・ケトルのグレートハウスにおいて,年輪年代法により最後の梁材とされた木は1117年に切られ,チャコ峡谷におけるほかの最後の梁材は,どれも1170年に切られている。ほかのアナサジ遺跡には,人肉食の痕跡も含めて,紛争のあった証拠がさらに数多く見受けられる。また,カイエンタ・アナサジが,わざわざ畑からも水源からも遠い急勾配の崖の頂に居住していたのは,防御態勢をとりやすいからだとしか考えられない。チャコより長くもちこたえ,1250年以降も存続したアナサジ居住地では,明らかに戦闘が激化していったようだ。その証拠として,防御用の壁,堀,塔が急増していること,散在していた小さな集落が丘の頂上の要塞にひとかたまりに集まっていること,埋葬されていない死体ごと村が故意に焼かれていること,頭皮を剥ぎ取られた痕跡のある頭蓋骨,体腔に矢尻の残った骨などが挙げられる。環境問題と人口問題が住民の不安と戦闘という形で爆発する事例は,本書で頻繁に取り上げる主題であり,それは,過去の社会(イースター島,マンガレヴァ島,マヤ,ティコピア島)にも現代の社会(ルワンダ,ハイチなど)にも散見される。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.239-240

森林破壊の結果

1975年,古生態学者のフリオ・ベタンクールは,観光客としてニューメキシコ州を車で通過しているときに,たまたまチャコ峡谷を訪れた。そして,プエブロ・ボニート周辺の樹木のない風景を見下ろしながら,こう自問した。「まるで,疲弊したモンゴルの草原みたいだ。ここに住んでいた人々は,どこで材木と薪を手に入れたんだろう?」。この遺跡を研究する考古学者たちも,長いあいだ同じ疑問に頭を悩ませていた。3年後,フリオは,まったく関係のない理由で,友人からモリネズミの廃巣研究について助成金申請書を書くよう頼まれたとき,瞬間的な閃きを感じて,プエブロ・ボニートを始めて見た時の疑問を思い出した。さっそく廃巣の専門家であるトム・ヴァン・ダヴェンデールに連絡したところ,トムがすでにプエブロ・ボニート付近の国立公園局のキャンプ場で廃巣を採集していることが確認できた。その廃巣のほぼすべてに,ピニヨンマツの針状葉が含まれていたという。現在そのマツは,採取地点から数キロメートル以内の範囲にはまったく生えていないというのに,どういうわけか,プエブロ・ボニートの建築の初期段階で屋根の梁材に使用されており,同様に,炉床及びごみの堆積物中の木炭も,大半がこのマツだった。トムとフリオは,これらの廃巣が,近隣にマツが生えていたころの古いものに違いないと気づいたが,どの程度古いものかは見当もつかず,ことによると1世紀くらい前のものかもしれないと考えた。そこでふたりは,これらの廃巣の試料を放射性炭素法で測定させた。放射性炭素法の研究室から出された年代を聞いて,ふたりは愕然とした。廃巣の多くが,1千年以上前のものだったからだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.232

交易網解体

人間が多すぎて食糧が少なすぎるという状況のなか,マンガレヴァ社会は,内乱と慢性的な飢餓という泥沼にはまり込んでいった。その顛末は現代の島民たちによってもつまびらかに言い伝えられている。人々は蛋白質を求めて人肉食に走り,死んだばかりの人間の肉を貪るだけでなく,埋葬された遺体まで掘り起こしたという。残された貴重な耕作地を巡って,絶え間のない争いが続き,勝ったほうが負けたほうの土地を奪って分け合った。世襲の首長を頂く階級制の政治組織に代わって,非世襲の戦士たちが支配権を握った。島の東西に分かれたちっぽけな軍事政権同士が,差し渡しわずか8キロメートルの島の支配権を巡って戦闘を繰り広げるのは,いかにも滑稽な状況だが,事情はそこまで切迫していたわけだ。そういう政治的混乱は,それだけでも,カヌーで遠出するのに必要な人出と物資を集めたり,自分の畑をほったらかして1ヵ月留守にしたりすることの妨げになっただろうが,そもそもカヌーを造るための木材が払底していた。ワイズラーが手斧の材料である玄武岩を同定して実証したとおり,中心であるマンガレヴァ島の崩壊に伴って,マンガレヴァ島とマルケサス諸島,ソシエテ諸島,トゥアモトゥ諸島,ビトケアン島,ヘンダーソン島を結んでいた東ポリネシアの交易網は解体したのだった。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.210-211

交易中止の影響

南東ポリネシア内で交易が行われた時期は,放射性炭素法で年代特定された地層からの出土品をもとに推定できる。ヘンダーソン島の地層から出た加工品を調べたところ,交易が1000年ごろから1450年ごろまで続いていたことがわかった。しかし,1500年までには,南東ポリネシア内でも,マンガレヴァ島を中心として放射状に伸びた線上でも,交易が中止されてしまった。すでにヘンダーソン島の後期の地層には,マンガレヴァ産の貝殻も,ピトケアン産の火山ガラスも,同じく刃物の原料になる肌理の細かい玄武岩も,マンガレヴァやピトケアン産の焼き石用の玄武岩も見当たらない。もはやマンガレヴァ島からもピトケアン島からも,カヌーがやってこなくなったのだろう。ヘンダーソン産の矮小な樹木ではカヌーを製造することができないので,数十人の島民たちは,世界で最も辺鄙で最も暮らしにくい島のひとつに囚われてしまった。そして,われわれの目には解決不能と映る問題に直面することになる。つまり,金属も石灰岩以外の石もなく,どんな輸入品もまったく入手できない状況下で,隆起した石灰岩の礁の上でどう生き延びるかという問題だ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.208

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