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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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その内容は

人糞は他の動物のものに比べて,内容の変動が大きいようだ。たぶん人間の食事がきわめて多様だからだろう。成分を推定する方法はいくつもあり,このテーマについての文献は(ともかく私にとっては)混乱を招くものだ。ある著者は割合で報告し,ある者は重さで,ある者は乾燥重量で,ある者は湿潤重量で,ある者はグラムで,ある者はポンドで示しているのだ。今度乾ききった芝生を見るとき,こんなおおまかな数字を考えてみて欲しい。人間のウンコは75パーセントが水である。それ以外に,毎日排出する150グラムには,平均10〜12グラムの窒素,2グラムのリン,3グラムのカリウムが含まれる。炭素はほとんどが糞として出る(炭素には腸壁の細胞と,大量の——時には体積の半分を超える——移出してきたバクテリアが含まれる)が,人間は窒素とカリウムの大部分を小便で排出する。リンは尿と糞に半分ずつ分かれる。私たちの排泄物には8パーセントの繊維と5パーセントの脂肪も含まれている。これはやはり未消化の食物,バクテリア,細胞などの形を取っていることがある。
 栄養と化学という観点で話を続けると,ヒトのウンコには,食事によっても違うが,食べたものの8パーセントのカロリー値(エネルギーの共通尺度)が残っている。私たちはコメのタンパク質の25パーセント,ジャガイモのタンパク質の26パーセント,トウモロコシ粉のタンパク質の40パーセントをウンコに出している。人間はたぶんヒトの排泄物を食べて何とか生きていけるが,必要なタンパク質とエネルギー摂取量を得るためには,たくさん食べなければならないだろう。

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ 片岡夏実(訳) (2014). 排泄物と文明:フンコロガシから有機農業,香水の発明,パンデミックまで 築地書館 pp.36
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昔の自分

性行動が動物同士の関係であるように,食は動物と環境の関係だ。食物は体内で地球を代表し,自分の一分となる。思い切って私たちの体を覗き見るか,中を歩きまわって驚異の旅をするなら,一つひとつの細胞が,酸素やさまざまな物質を取り込み,いらないものを排出するのが見られるだろう。消化管の内側を覆っている細胞は,毒物をできるだけ通さないようにしながら,私たちの身体を作りあげている他の細胞の燃料として必要なものだけを吸収する。私たちの細胞は,老廃物を生産する。それが血液によって運ばれ,尿,ウンコ,胆汁,汗,呼気を介して体外に捨てられなければ,自分自身を殺しかねない。ある種の物質は肝臓や腎臓で特殊な処理を経てから排出される。老廃物のなかには,毎日数百億個の単位で自殺している,自分自身の細胞も含まれる。専門的にはアポトーシス,またはプログラム死と呼ばれる営みだ。また別の細胞,特に消化管の内側の細胞は,食物の通過によってこすれ落ち,糞便と共に出てくる。あなたの身体は日々入れ替わっている。便器やおまるの中を覗いてみよう。それはただの便サプルではない。昔の自分だ。それが人生だ。

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ 片岡夏実(訳) (2014). 排泄物と文明:フンコロガシから有機農業,香水の発明,パンデミックまで 築地書館 pp.31-32

外界が通る管

口から尻まで,消化管は外界の環境が体の中を通っていく管だ。これはほとんどの温血動物にあてはまる。人間を含めた動物の体内の筋肉や器官は無菌であり,体内を通る外界のものと,そうした無菌の器官との相互関係は注意深く調節されている。だから外科医は手を洗いマスクをつけなければならないのだ。もしも虫垂が破裂したり,腸に傷をつけたりすると,大変なことになる。腸内のバクテリアと食物のかすが無菌の部分にあふれだしてくるのだ。つまり食品の安全性の観点からいえば,レアのステーキはかなり安全だ。筋肉の内部は無菌なので,表面のバクテリアを焼き殺せばいいわけだ。

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ 片岡夏実(訳) (2014). 排泄物と文明:フンコロガシから有機農業,香水の発明,パンデミックまで 築地書館 pp.31

断片化する能力

現実を扱いやすい断片に分けるというこの能力は,産業社会と近代科学が驚異的な成功を収めたことの基礎であり,最大の弱点でもある。世界を分解して専門化することの強みは明らかだ。ごく一部(化学物質,バクテリア,車軸,神経結合)を理解することで,私たちは化学,微生物学,工業,神経科学で驚くべき功績をあげた。弱点が明らかになったのは,成功から何世紀も経ってからだった。それどころか,弱点は成功によって初めて弱点となったのかもしれない。私たちは多くの赤ん坊を救い,多くの人々に食料を与え,かっこいい車をたくさん造り,そうすることによって地球全体を危機にさらしているのだ。

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ 片岡夏実(訳) (2014). 排泄物と文明:フンコロガシから有機農業,香水の発明,パンデミックまで 築地書館 pp.28

ウィキッド・プロブレム

ウンコは社会学者と科学者がやっかいな問題(ウィキッド・プロブレム)と呼ぶものである。
 やっかいな問題という概念を1970年代に導入したソーシャルプランナーは,従来の科学で対処できる「飼い慣らされた」問題とされるものとそれを区別した。やっかいな問題と呼ばれるものは,範囲がはっきりせず,首尾一貫していない。その解決が難しいのは,情報が不完全であるか,問題の解決を求める者たちの要求が常に変わり続けているからだ。やっかいな問題は,一見したところ並立しないさまざまな視点から定義することができ,だから問題の信頼できる公式化も最適な解決法も存在しないのだ。中でもいちばん始末に負えないのは,問題のある面を解決しようとすると,別の問題が生まれたり,表面化したりするかもしれないことである。

デイビッド・ウォルトナー=テーブズ 片岡夏実(訳) (2014). 排泄物と文明:フンコロガシから有機農業,香水の発明,パンデミックまで 築地書館 pp.20

あふれる提喩

数にかぎりのあることばをたよりにしてかぎりない事象に対処しなければならない,言語の宿命が比喩を必要とする……とは,これまでもくどいほど強調してきた事実だが,そのための人々の様々の工夫がつもりつもって,辞書のなかの単語たちは,すこぶる弾力的な意味のひろがりをもっている。それは,転化表現となった比喩の集積だが,そのように慣用化する比喩のうちで,隠喩や換喩ほど目立たないくせにじつはもっとも大きな比率をもつものは提喩であろう。
 その理由は,提喩性こそ,隠喩性や換喩性よりはるかに語彙体系の本質に深くかかわる性格だという点にある。語彙とは,ある言語圏に生きる人間たちが,世代をかさねつつ,無限に広い意味領域を切り分け区分してきた分類法の集積である。言語がその文化圏に生きた,生きる,生きるであろう人々全員の共有財産である以上,語の概念=意味がある節度を守りながらも不断に(日本語であれば,ひとりの日本人が1回発言するたびに少しずつ)膨張と収縮をくりかえすのは当然のことであろう。そして,概念=意味の膨張と収縮とは,提喩現象にほかならない。提喩は,比喩のうちでもっとも比喩性の目立たぬ形式である。レトリック学者ル・ゲルンが,俗に類と種の提喩と呼ばれているものは比喩ではなくたんに正常な言語現象にほかならないという,粗忽な断定をくだした気もちも,わからぬではない。意図的な表現として目立つ提喩は,正常な言語活動としての提喩表現のうちの,いわば「前衛」的なかたちのことなのだ。そのうちのあるものはすぐれた認識的前衛であり,あるものは娯楽的前衛である。
 私たちの日常言語は,語彙体系に回収され編入された提喩であふれている。新しい事態に対処するための便利な新造語としての提喩も多い。都会を「緑化」しようというのは,決して町じゅうにグリーンのペンキを塗りたくろうということではない。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.205-206

提喩

提喩とは,常識的に適当と期待されているよりも大きな(必要以上に一般的な)意味をもつことばをもちい,あるいは逆に,期待よりも小さな(必要以上に特殊な)意味をもつことばをもちいる表現である——言いかえれば,外延的に全体をあらわす類概念をもって種を表現し,あるいは,外延的に部分をあらわす種概念によって類全体を表現することばのあやである——。
 これは,早い話が,昔から《類による提喩》および《種による提喩》と呼ばれていたもののことであり,それらだけは換喩(メトニミー)に還元されえない提喩(シネクドック)に固有の表現形式だということである。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.194

日常言語を支える比喩

「いま私はバルザックを読んでいる」という文章は,全然レトリカルな感じがしない,ごく常識的な表現だが,そこにも隠喩が働いている。「バルザック」は人名であり,人間である。しかし,私はいま人間を読んでいるのではなく,また人間の顔色を読んでいるものでもなく,人間とは似ても似つかぬ書物を読んでいるのだ。ただ,その作品と作者は,いわば親子のようなきずなでつながっている。これは,「灘」とか「ボルドー」,「コニャック」,「スコッチ」などという地名のゆかりでその土地名産の液体を表現する場合と同様,広い意味で赤頭巾型の,縁故による比喩である。
 また,スピード違反で「白バイにつかまった」などと言うときも(オートバイは機械であり,決して勝手に人間を追いかけたりつかまえたりはしない),乗り物と乗り手の名称が,ゆかりによって赤頭巾風に流動した結果の換喩である。
 このようにすでに常識化した換喩は,特に分析的に意識しないかぎり,もはやことばのあやとして感じ取られはしない。それらは(前章で触れたような)転化表現=カタクレーズとして慣用の体制に編入済みだからである。隠喩におとらず,じつにおびただしい換喩が,転化表現となって私たちの日常言語をささえている。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.142-143

度重なる隠喩作用

私たちは,飛行機がエンジンの力で,すずめが羽をばたばた働かせて,飛ぶ姿をいつも見ているせいで,空中を勢いよく進むものを「飛ぶ」と言うのだと思っている。その連想で,矢が飛ぶとも言う。やがて,気がついてみたら,私たちは,いっこうに自力では飛んでいないグライダーも,やはり飛ぶと言い,シャボン玉まで飛ぶと表現している。考えてみれば「飛ぶ」という平常表現自体が,たびかさなる隠喩作用のせいで,要するに空中を動いていさえすれば何でもいいという,頼りない表現になってしまった。言いかえれば,焦点のさだまらない,あいまいなことばになっていた。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.136

必要性

延々とレトリックの歴史を通じて,理論家たちは,同じ文を直喩と隠喩に書き換えるという,正しいけれども見当ちがいな説明を続けてきたのであった。じつは,隠喩が必要でかつ十分な場合には隠喩で書き,直喩が必要でかつ十分な場合は直喩で書くという,それこそレトリックの本質的意義を,当のレトリック研究者たちは,理論としては承知していながら,実例においては忘れはてていた。隠喩のほうが元来説明不足におちいりがちなあやであるから,両様に書き換え可能な例文としては,けっきょく誤解の余地の少ない隠喩向きの例ばかりがとりあげられることとなり,気がついたときには,直喩は泥くさく口数が多すぎるといううわさをたてられていたのだった。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.117

切れ目のない連続性

ジャックはろばのように愚かだ (I)
 ジャックはろばのようだ    (II)
 ジャックはろばだ       (III)
 ろばだ!           (IV)
 この4つの表現において,Iが典型的な直喩でありIVが典型的な隠喩であることは,言うまでもあるまい。IとIIは直喩でIIIとIVは隠喩だ,と言うこともできる。しかしIIとIIIのあいだにも,一種の連続性がある(たとえば日本語で,IIとIIIのあいだに,「ジャックはろばに似ているどころではない」,「……ろば同然だ」,「……ろばと違いはしない」,「……ほとんどろばだ」,「……ろばそのものだ」などと言ってみればどうなるか)。
 「このように提示してみると,切れ目のない連続性という錯覚が生じてしまう,すなわち〔IからIVまでの〕すべての言いあらわし方はどれも,それぞれ先行する言いあらわし方に省略変形を加えたものとして説明されそうである。とすれば,直喩と隠喩のあいだには同じ深層構造があるのだということになりかねない〔……〕。」と,ル・ゲルンは説き,そこから,形式にもとづく比較はまとはずれであることを主張する。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.114-115

無自覚の一瞬のゲーム

誤解されかねないとは,謎に似ているということである。結論をみちびき出す仕事が読者にゆだねられていて,隠喩の読者は,いわば解法を見つけるゲームによって遊び,みずから発見した回答にささやかな驚きを感じる。もちろん,白鳥とはじつは美しい娘のことだ,ライオンとは実は勇士のことだった,という答えを見つけるのに,まさか詰め将棋じゃあるまいし,じっくりと考えこむことはなさそうだ。ほとんど無自覚の,一瞬のゲームである。しかし,たしかに読者はそこに参加している。ところが,直喩の場合は,回答はすでに書き手によって用意されているから,読み手は,その意外性に驚くことはあっても,みずから,誤解の危険をおかしつつ解読ゲームに参加することはない。傍観者の立場に近い。いちおうは,隠喩と直喩の読み取りにはそういう差があると考えていい。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.110-111

誤解の可能性

ところで,前後の事情がじゅうぶんに明瞭でない場合には,出しぬけに隠喩のつもりで「ライオン」などと言われても,勘の悪い人はそれが勇士のことなのか法王のことなのかわからず途方にくれる……ということもありえないわけではない。舌足らずな隠喩をもてあそぶ表現者がいけないのか,にぶい理解者が悪いのか,その理由はともかくとして,草原を突進する本物のライオンや神妙な顔で何かの職務を行いつつあるライオンばかりをありありと思い描いてしまう,とぼけた読者だっているかもしれないのだ。すなわち隠喩は,直喩にくらべて誤解の可能性が高い。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.110

直喩と明喩・隠喩と暗喩

直喩を明喩と呼ぶ人は,隠喩を暗喩と呼ぶ。名と暗を対立させてみたいのであろう。そういえば,いかにも,昔から直喩と隠喩は対にして説明される場合が多かった。直喩が「YのようなX」とか「XはYに似ている」と言うのに対して,ふつう,隠喩は肝心の本名Xをはぶいてしまい(あるいはXという名称がもともとないので)ただ,「Y」とか「Yだ」と言い切ってしまう。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.108

直喩

まことの比喩とは,常識の目で見て,もともと類似性があってもおかしくない同類のもののあいだに期待どおり類似性が見いだされる,そういう認識のことであろう。それに対して,いつわりの比較とは,もともと比較されるような類似性が期待されていないところに予想外の類似性を見出す認識である。
 私たちの考えかたに引き寄せて言いかえれば,常識によってはじめから認められている類似性《にもとづく》比喩表現はあくまで平常文であり,意外な類似性《を提案する》比較表現が直喩だということになる。すなわち,レトリックの直喩とは《発見的認識》である。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.97-98

言葉遊び

たとえばあなたが,いま,ある情景を見て,
 男の子が《急いで》走って来る
 ということばを口にしたとする。その表現であなた自身がじゅうぶんだと思えばそれはそれでいい。ただ,その際,「急いで」ということばだけでは何か正確に表現しきれないものが残る……と感じたとき,はじめてことばの工夫がはじまるのだ。
 直喩による表現ならば,その子の走りかたを何かにたとえることになる。そこで,問題の文章は,
 男の子が《・・・・・・のように》走って来る
 という構造に変わる。ためにし,この《・・・・・・のように》の部分に,いろいろのことばを実験的に代入してみよう。
 小犬のように/子鹿のように/まりのように/矢のように/風のように/坂をころげ落ちる小石のように……
 と,およそ月並な語句を並べてみたが,もちろん,この部分に代入できる表現の数は無限である。そして,それらの可能性のなかから,認識の造形として,あるいは心情的に《もっとも正確な》ものを選び出すこと,それが直喩の原理にほかならない。説得力のあることばも芸術的なことばも,けっきょく,本来は心情的に正確な表現にほかならなかった。
 けれども,男の子が《・・・・・・のように》走ってくる,という表現の空欄に,正確さとは何の関係もない,ほとんどでたらめなことばを代入しても,それなりに新しい風景が描き出されてしまう。言語のそういう不思議な可能性に気づいたとき,人々はことばで遊ぶことをおぼえたのであった。ことばによる想像力で遊ぶことを知ったのである。私がかりに,広い意味でレトリックの芸術的機能と呼んでいるもののなかには,多量の遊びが含まれている。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.88-89

本物ではない

たとえば「狐のようにその地位につき,獅子のようにその職務をおこない,犬のように死んだ」という文章を読んで私たちは,なんとなく感じを理解してしまう。が,よく考えてみると,私たちはたいていキツネもライオンも,動物園のおりのなかでしか見ていない。言うまでもなく,人間に飼われているそれらは本当のキツネやライオンの姿ではない。おりのなかのキツネはほかの動物にくらべて特に狡猾なわけではなく,与えられるえさを待つライオンは百獣の王よりもむしろ家畜に近い。にもかかわらず,人は狐や獅子の比喩を理解する。それは,じつは直喩のY項となっているものが,本物の動物ではなく,むしろそれらの動物たちについて,子どものころから童話などを通してはぐくんできたイメージだからである。本物ではない,うわさの動物なのであった(狐のイメージが,日本では昔から人を化かし,西洋でもずるがしこい,という共通項を示すのは,おもしろい)。
 かえって,私たちが狐や獅子よりも生態をよく知っているはずの犬の場合のほうが,直喩は不正確になりやすい。なるほど「犬死」などというぐあいに,私たちの国でもみじめな死にかたを連想させるイメージがないわけではないが,洋の東西を問わず,犬にはみすぼらしいどころか立派なイメージもただよっていて,ひょっとするとくだんの法王の死にざまもさっそうたるものと見えかねないのである。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.70-71

レトリックの本質

このところもっぱら,私は「レトリック」というカタカナで押し通し,修辞学とかそのほかの用語をもちいなかった。なるほど現在,さまざまの訳語のうちでは修辞学がいちばん有力である。高田や島村のような反対意見ももっともであるが,だからと言って,美辞学というのにも抵抗を感じるのだ。彼らはあくまで美学という考えかたのなかでレトリックを考えていたのだから,それなりに筋はとおっているけれど,レトリックの本質を《美》という文字で限定してしまうのは考えものである。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.41

説得するには

考えてみれば,説得するためには,理屈をならべて無理やり人を言い負かすよりも,むしろ,相手をいい気分にさせ,いつのまにか味方につけてしまうほうがいい。レトリックには,理屈をこねて説得することと並んで,魅惑によって納得させるという,ふたつの方向がもともとふくまれていただろう。そして,相手の好意を導き出すことをめざすレトリックは,やがて説得という目的から離れ,もっぱら魅力的な表現そのものを目的とする,別の機能をもになうことになる。その行く先には,当然,詩があってもいい。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.19

腹を立てる

私たちは,論争で言い負かされるのがあまり好きではない。たくみな論法で,返す言葉もないほど説得されながら,腹の底では納得できず,何だかまるめこまれたような気のすることがある。……私たちはときどきレトリック効果に腹を立てる。

佐藤信夫 (1992). レトリック感覚 講談社 pp.14

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