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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ゆでたまごを使え

ベンジャミン・フランクリンは恐怖を克服するのに浮力を利用した。「自分を支えてくれる水の力をある程度信用しない限り,いつまでもカナヅチのままだ」と,1760年代末に,泳げない友人に手紙で助言している。どうすればいいか?池や川など,徐々に深くなる場所に胸の深さまで歩いて入り,そこで騎士のほうを向く。次にゆで卵を岸のほうの水に向かって投げ,沈むと,潜ってそれをつかむ。フランクリンは続ける。「君の意思に反して水が君を浮かすことや,思っていたほど簡単には沈まないこと,積極的に力を使わない限り卵に手が届かないことを発見するだろう。こうしてきみは,水にはきみを支えるパワーがあることを感じ,そのパワーに屈することを学ぶ。そういったことを乗り越えて卵をつかもうと奮闘しているあいだに,水中での手足の動きを発見する」。その後で,卵を食べればいい。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.63-64
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黒人文化の破壊

「南北戦争以前は,白人よりも多くの黒人が泳いでいた。ところが白人が水泳を“発見”すると,黒人は安全なビーチや国中のプールから完全に締め出されてしまった」ウィゴは激昂する。「そして白人文化は,他のおそらく何よりもプールにおける人種差別撤廃に激しく抵抗しました」。彼は法や偏見が白人以外のすべての人々を水から締め出した人種隔離時代の数十年に起きた醜い事件や悪意に満ちた暴動を思い出させた。多くのプールが人種差別撤廃に応じるくらいなら,むしろ,ただ閉鎖したのだ。
 “黒人用”プールを建設する動きは,1940年のニューヨーク市公園局による,黒い肌のスイマーを白い肌の者たちから分離する「水泳を習おう」というポスターで,あからさまに宣伝された。ウィゴに言わせると,「“分離はしているが平等な”施設を提供しようとする窮余の一策」だった。だが,それも手遅れだった。「すでに黒人コミュニティの水泳文化は破壊されてしまっていた」からだ。
 こうしてアフリカ系アメリカ人は数世代にわたり水泳の伝統を受け継がずに成長してしまった。その結果,「黒人のもっともよく知られたステレオタイプが“カナヅチ”です。黒人の子供とスイミングチームの話でもしてごらんなさい。彼らは黒人の友達になんて思われるか心配しますよ。“白人のまねをしている”ってことになるんですから」

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.52-53

世界一の泳ぎ手

アメリカ先住民もまた,画家のジョージ・カトリンがミズーリ川上流のマンダン村で観察したように,熟達した泳ぎ手だった。「彼ら全員が達者な泳ぎを身につけている」と記している。「彼らのなかでいちばん下手な泳ぎ手でさえ,ミズーリ川の渦巻く流れにひるむことなく飛び込み,実に楽々と横断する。男女ともごく小さいうちから泳ぎを習い,女性たちは強くたくましくなった筋肉で子供を背負って,どんな川に出くわそうとうまく渡る」。ミナタリー族の女性の一団は「長い黒髪を水面になびかせ,カワウソやビーバーの群れのように悠々と泳ぐ」
 アフリカのさまざまな部族民も,楽々と泳ぐ姿で多くの旅人たちを魅了した。1454年には,彼をかいくぐって泳いでいく西アフリカ人のグループを見たヴェネチア市民の探検家カドモストは,彼らのことを「世界一の泳ぎ手」と呼んでいる。18世紀のスコットランド人探検家マンゴー・パークはイサッコという名のアフリカ人ガイドを連れていた。イサッコが川を泳いで渡ろうとしたとき,巨大なワニがその太腿に噛みついた。当時,報告された話によると,ワニは「普通なら,間違いなくそのばかでかい顎で腿を噛み砕いて引きちぎっていただろう。だが,その黒人はワニと同じくらい潜水にも泳ぎにも達者だったので,素早く体を回転させ,両の親指をワニの目に突っ込み,えぐり出した」。ワニがもう一方の太腿をとらえると,イサッコはさきほどと同じ罰を与えた。ついにワニは彼を放した。イサッコが安全な場所まで泳いで逃げたところで,パークが傷口の手当てをして救援を締めくくった。
 こういった話はヨーロッパでむさぼるように読まれ,ついに水泳の流行に火がついた。かくして19世紀は水泳の世紀となり,男も女も海岸に押し寄せはじめた。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.44-45

水泳の消失

このように,中世には水泳は軍事的な機能に移行した。主にそれは敵の侵入を防ぐために設けられた堀で使用された。その衰退もまた,ローマ時代の主演から体の曲線を露出することまですべてを禁止した教会のせいであるとする歴史家もいる。水と肉体の交わりの禁止——水遊びすら異教徒の儀式とみなされた——は,汚染された水に潜む病気に対する恐怖の警告を発した見当違いの医学によりもたらされたと見る人たちもいる。不道徳に対する告発と無知の両方が働いたのだ。ヨーロッパが知性の暗黒時代に突入すると,水泳はわずかな例外を除いて消え失せた。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.33

古代ギリシャの水泳

水泳は古代ギリシャの文化に深く組み込まれていたため,プラトンは「無知な人とは,文字も読めなければ,泳ぐこともできない人である」という,紀元前360年にはよく知られていた諺を引用している。アレキサンダー大王は泳げない不名誉を悔やんだ。「わたしはこのうえなくみじめな男だ」。彼の率いるマケドニア軍の部隊が,敵の要塞前に横たわる大きな川に直面すると,彼は嘆いた。「ああ,わたしはなぜに泳ぎを習わなかったのか?」。一方,ソクラテスにとっては,水泳は決定的に重要な生活技能であった。「水泳は人を死から救う」と述べている。

リン・シェール 高月園子(訳) (2013). なぜ人は泳ぐのか?水泳をめぐる歴史,現在,未来 太田出版 pp.26-27

自己中心的欲求

アメリカ人家庭には,日本のように「養子縁組は家を継ぐための手段」という考え方は存在しない。「恵まれない子に家庭の愛情を分かち合いたい」「アメリカ人が置き去りにしていった混血児を引き取る義務がある」と主張する夫婦がいることも確かだった。
 しかし,一方で,大城は自己中心的な欲求を満たそうとするアメリカ人たちの本音もたくさん見てきた。
 大城のもとを訪れる夫婦の中には,「自分の強い信仰心や社会的奉仕心を証明するため,子どもを養子縁組したい」と言う者もいた。「アメリカ本国では資格審査が厳しい。裁判所の審査が緩く,比較的簡単に養子がもらえるアジアで縁組したい」とあっけらかんと言い放つ者もあった。
 もっとひどい夫婦は「人形のようにかわいい東洋の少女を帰国前にもらいたい」と公言してはばからなかった。
 あの手この手を使って実母やその家族と直接交渉し,専門のケースワーカーの介入を避けようとするのが,こうした養親たちの常套手段だった。

高倉正樹 (2006). 赤ちゃんの値段 講談社 pp.198-199

名を明かさない出産

フランスでは200年以上前から,母の名を明かさないまま出生届を出して出産する権利が認められている。人工中絶が1970年代まで違法だったフランスでは,世間体を気にして行われる中絶などを防ぐ制度として発展してきた。こうして生まれた子どもは「Xの名で生まれた子」と呼ばれ,フランス全土で約40万人もいるという。
 この制度により,養子が自らの出生の情報を入手することはきわめて難しくなっている。

高倉正樹 (2006). 赤ちゃんの値段 講談社 pp.181

海外から養子を

ミネソタ大学のハロルド・グロテバント(55歳)も,養親の都合が先行していることを認める。グロテバントは,全米の720人の生みの親らを継続調査し,養子縁組の功罪を丹念に研究しており,アメリカ内の養子縁組のトレンドを追っている研究者の1人だ。
 「より健康で,より年齢の低い赤ちゃんを確実に見つけようとすれば,養子を望む夫婦の視線は海外に転じることになる。場合によっては,これに『より早く』という要素も加わる。米国内の養子縁組で出会える健康な子どもの数はかなり少ないし,里親制度を通じて比較的大きな子どもを縁組するのは容易だが,赤ちゃんを受け入れるには何年もかかるからです」
 アメリカ国内では白人の養子は常に少なく,需要過多の状態にある。費用は3万ドル前後が相場といわれるが,時間がかかる。白人以外の養子はたくさんいて,斡旋事業者によっては費用を安くするところもある。

高倉正樹 (2006). 赤ちゃんの値段 講談社 pp.148

斡旋可能

誰もが,いつでも,見ず知らずの人に子どもを「斡旋」することができる。裁判所の審判も,斡旋事業の届け出も,誰に斡旋したかという報告さえも必要ない。
 それが日本の養子斡旋の現実だ。
 子どもの海外流出にまったく無関心な日本政府は,国際社会から繰り返し批判を浴びている。国連・子どもの権利委員会は2004年1月,日本政府に対し,
 「養子縁組の監視や統制が不十分で,養子縁組に関するデータもきわめて限られている」
 と指摘した。そのうえで,養子縁組の監視体制を強化することや,国際間の養子縁組のルールを定めた1993年ハーグ条約を批准することを勧告した。

高倉正樹 (2006). 赤ちゃんの値段 講談社 pp.129

チェックなし

外国人と国際結婚した日本人の話では,複数の国をまたいで家族旅行をする際,出入国のたびに同伴している子どもとの関係を入念に確認されるので閉口するという。外国では,親子の姓や国籍が異なるケースなど,不審と疑われるケースは厳格に調べる体制を整えている。それに比べると,日本の出国時のチェックは明らかに手薄で,ほとんど何の規制もないに等しい。
 海外養子縁組の対策が進んでいる諸外国には,出国の際に特別な許可を必要とする国も多い。パスポートに加えて,養子縁組を許可したことを示す当局の証明がなければ,その子どもを出国させることができない仕組みになっている。
 こうした対策をとっているのは,韓国のほか,インドやフィリピン,タイなどだ。出国時に許可証名の提示を求めることで,自国の子どもを外国人が安易に国外へ連れ出すことを厳しく制限している。

高倉正樹 (2006). 赤ちゃんの値段 講談社 pp.121

実際は

海外養子斡旋は,行政が実体をつかんでいない事自体に大きな問題がある。ところが,新聞記事は通常,警察・検察や中央省庁などが主なニュースソース(取材源)になっている。当局の裏付けが取れない記事は,どうしても慎重になり,紙面で冷遇されたり,時には掲載に至らなかったりすることもある。
 当局取材に頼らない独自の調査報道はなかなか表面化されにくい,と私は日ごろから感じているが,それは日本のマスメディア特有の事情と無縁ではないと思う。

高倉正樹 (2006). 赤ちゃんの値段 講談社 pp.74-75

海外養子縁組

——国内ではなく海外に縁組する理由はなにか。
 「未成年の妊娠や性的暴行による妊娠が増えている。そういうお母さんが傷つかないために子どもを海外に出すんです。海外ですべて手続きをするのなら安心でしょう?それに,障害児は日本では引き取り手がないから,外国を探すことになる。とにかく海外には日本人の養子を求める希望者がいっぱいいます。日系人,国際結婚した日本人と外国人の夫婦,白人夫婦もいる。日本の赤ちゃんはクスリに染まっていないし,健康だから人気がある」
 「そもそも,国内か国外かは生みの親が選ぶんです。こちら側から『海外のほうがいい』と勧めることはない。相談者に何を助けてほしいのか聞くと,世間体のこと,望まない出産の事実が戸籍に残ることなどを切々と訴えてくる。多くの親は,そういう恐怖心があるから海外養子を選択するんじゃないですか」

高倉正樹 (2006). 赤ちゃんの値段 講談社 pp.41

選択肢

性習慣が乱れている場合は病院への受診も抵抗感がないし,周囲の友達に異変を相談しやすい環境もある。しかし,まじめな子はなかなか周りに打ち明けられず,独りで悶々と悩んでいるうちに中絶可能な時期を逃してしまう。
 第1志望の大学の試験を控えた現役受験生が来院した時は,河野もさすがに驚いた。診察すると,もう子宮口が開きかかっている。試験本番は1週間後。いま出産したら,これまでの受験勉強が水の泡になってしまう。
 河野は受験生に薬を処方し,「堂々と試験を受けてきなさい」と言って送り出した。
 無事に試験をうけることができた受験生は,翌日,出産したという。

高倉正樹 (2006). 赤ちゃんの値段 講談社 pp.20

出口なし

フィリピン人は困窮邦人に対し,その過去を知らないまま,彼らの悲惨な一面だけを見て同情し,食事を与え,生活の世話をした。国籍を問わない,同じ人間としての温かさに,彼らも甘えた。時にはフィリピン人に対し意のままに振る舞い,怒鳴りつける。そんな彼らの横柄な態度に困り果てたフィリピン人の声を聞くと,同じ日本人として「申し訳ない」と心の中で思い,苛立ったこともあった。では日本に帰国させればいいのかというと,仕事もなく,親族にもやっかい者扱いされているため,そんなに単純に解決もできない。彼らはまさに出口を塞がれているのだ。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.280

虚栄心

思い描いた理想と現実との乖離を受け入れられず,「プライド」だけ保っている。だから若いフィリピン人女性に男としての自尊心をくすぐられると舞い上がってしまい,あと先考えずにこの国まで追い掛けてしまうのではないだろうか。そこで今度は「金持ちの国から来た日本人」という新たな「プライド」が生まれる。それは同時に途上国に対する思いあがりや虚栄心に直結していることに彼らは気づいていない。自ら飛び出した先での困窮生活という醜態を両親や親戚,周囲にさらしてしまうため,今さら日本に帰ることもできない。それは「プライド」というよりただの虚栄心だ。フィリピンで何とか踏ん張って,復活したい。だが,理想と現実は乖離し続けるばかり。その現実を認めたくないがために,滅金で自分を飾り立て,気づいた時には虚しい「プライド」だけが残った。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.232-233

自己責任論

2004年10月にイラクで香田証生さんがテロ組織「アルカイダ」の武装集団に惨殺された事件はまだ記憶に新しい。日本の新聞各社は,武装集団の要求に従わず,自衛隊を撤退させなかった当時の小泉首相の判断に賛同する社説を相次いで出した。そして世間からは「自己責任だ」という批判も飛び出した。この事件を引き合いに出すわけではないが,フィリピンの困窮邦人に対して国援法(国の援助等を必要とする帰国者に関する領事館の職務等に関する法律)を適用するか否かは,最終的にこの自己責任論と大きく結びついてくるのではないかと思う。だがこの自己責任論は明確な線引きがないため,結局は道徳的判断に帰結せざるを得ない。香田さんの事件については,「小泉政権が見殺しにした」などの違反も相次いだが,日本政府が香田さんを救出するために仮に自衛隊を撤退させた場合,それで国民の大半は納得しただろうか。イラクに入国し,危険地域に足を踏み入れるか否かは個人の判断に委ねられている。それは個人に与えられた自由という言い方もできるだろう。外務省が渡航勧告で自粛を促したところで,個人の判断の自由にまで踏み込んで入国を制約することはできない。だが,自由には必ず責任がついて回る。個人に与えられた自由の下で判断し,選択した行動に対して,国はどこまで責任を負えるのか。あるいは負わなければならないのか。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.209

フィリピンの拳銃

ちなみに拳銃はデパートなどで販売されており,現在私が住んでいるアパートから歩いて数分のデパートの地下1階にも拳銃販売店が軒を連ねている。ショーケースに並ぶのは米国,カナダ,イスラエル,東欧製などのリボルバー,オートマチックなど。価格は1万ペソ(約2万円)から高いもので9万ペソ(約18万円)まであり,2万〜4万ペソ(約4万〜8万円)が相場といったところだ。店員によると,外国人への販売は禁止されているが,フィリピン人の妻や知人の名前を借りて購入することもできる。つまり,所有者の名義人をフィリピン人にすればだれでも簡単に銃を手に入れられるということだ。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.147

貧困ビジネス

日本では派遣労働者などの弱みにつけこんで食い物にする貧困ビジネスが横行しているというが,ここフィリピンでも困窮邦人に「帰国させてあげるから」と話を持ち掛ける貧困ビジネスが行われていると聞いた。飛行機に乗ればたった4時間で行ける祖国,日本。たとえ貧困ビジネスの対象にされたとしても,自力では到底無理だった帰国が実現しただけまだましかもしれない。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.78

カネ目当て

クラブが立ち並ぶ首都圏マニラ市マラテ地区,国際結婚のために必要な手続きを行う在フィリピン日本国大使館や入国管理局の周辺にいるとそれを象徴する光景に遭遇する。60歳以上とみられる日本人男性と20歳前後のフィリピン人女性。年齢差40歳以上の男女が手をつないで歩いている。年齢差50歳以上の交際も時には耳にする。日本で言えば,中高年男性と女子高生が付き合う援助交際的な感覚と基本的な構図は同じなのだろう。男は若い女性を,女性は金を求めるという利害関係で成り立っている。最低賃金1日約400ペソ(約800円)という途上国の就労事情を考慮すれば,「日本人」と聞いただけで「金のなる木」に映ってしまい,年齢やルックスの良さといったものはほとんど関係なくなってしまうのが実情のようだ。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.22

きっかけ

困窮状態に陥る要因は人それぞれだ。強盗被害に遭う,ギャンブルで大負けする,ビジネスの投資話にだまされるなどで所持金や全財産を使い果たしてしまう人もいるだろう。だが,外務省や事情に詳しい在留邦人などによると,この国で一般的とされる困窮邦人は,フィリピンクラブ(フィリピンでの一般名称は「カラオケ」)で出会った女性を追い掛けて渡航する日本人男性が圧倒的に多い。大半は50歳以上。日本で誰にも相手にされなくなった自分の前に現れたフィリピン人女性に笑顔でもてなされ,男としての自尊心をくすぐられる。「俺にもまだ輝ける世界がある」と錯覚し,有り金すべてを持って日本を飛び出してしまうのだ。その背景には,家族や友達から見捨てられた孤独感,単純労働の空虚な毎日,多額の借金など自分を取り巻く生活環境に鬱積し,逃げ出したくなるような現実があったのではなかったか。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.21-22

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