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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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困窮邦人

海外で経済的困窮に陥っている在留邦人を「困窮邦人」と呼ぶ。所持金を滞在先で使い果たし,路上生活やホームレス状態を強いられている吉田のような日本人のことだ。特にフィリピンではこの困窮邦人が一般的な問題になっており,在留邦人の間でも,その存在はよく知られている。
 現在では中国に抜かれ,GDP(国内総生産)世界第3位に順位を落としてしまったとはいえ,未だ経済大国の日本で生まれた国民が,途上国のフィリピンでホームレス生活を送っているという皮肉な現実。世界で最も困窮邦人が多いのが,ここフィリピンなのだ。この国で記者生活を続けるうち,私はその異様とも言える現象に次第に興味を持つようになった。
 ——異国の地でこんな惨めな状態になって,一体どんな思いで日々生きているのか——。
 当初はそんな短絡的な発想でしかなかった。しかし,何か引き付けられるものがあった。最初に断っておくが,私は彼らに同情しているわけではない。取材を続けるうちに同情しなくなった,と言った方が適切かもしれない。

水谷竹秀 (2011). 日本を捨てた男たち:フィリピンに生きる「困窮邦人」 集英社 pp.19-20
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触れずに診察

19世紀の医師は,女性の患者に触れることはもちろん,間近に見ることさえ躊躇していた。「検査」とは,きちんと衣服を身につけた女性がゆったりした椅子に腰かけて自分の病気について語り,医師はその女性の「顔つきや全体の雰囲気を観察する」ものだった。体に手を当てるなどもってのほか,ほんの一瞬軽く触れることさえあってはならないことだったが,体温を測ったり脈を取ったりすることは許されていた。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.205

それも病気

1851年の『ニューオーリーンズ・メディカル・アンド・サージカル・ジャーナル』で,コレラの研究で名高いサミュエル・カートライト博士は新種の疾患「ドラペトマニア(家出狂)」を発見したと報告した。その主な症状は「逃亡という多くの黒人が行うやっかいな行動」だった。それと関連する疾患「ディザエステジア・アエティオピカ(怠惰病)」は過度の自由が原因だと考えられた。
 南部の医師たちの多くは,黒人は痛みを感じるとしてもごくわずかだと信じていた。1854年の『ヴァージニア・メディカル・アンド・サージカル・ジャーナル』に,ある医師が奴隷の肺炎を治療するため,奴隷の背骨に20リットル近い熱湯をかけたと書いている。この医師は,治療が「いくぶん感覚を呼び覚ましたらしく,奴隷は叫び声をあげようとした」ことに驚いた。『メンフィス・メディカル・レコーダー』は「奇妙な特性」に関する記事で,アフリカ系アメリカ人は聴覚,視覚,嗅覚は優れているが,痛みの感覚は非常に弱いと決めつけている。「彼らは驚くべき従順さで,ときには陽気にさえ見える態度で鞭打ちに耐える」ということだ。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.194-195

不遇

1846年にゼンメルヴァイスがウィーン中央病院の主任研修医になったとき,この病院で子供を産んだ母親があまりにも早く,またしばしば死んでしまうため,賢明な母親たちは自宅での出産を選ぶようになっていた。
 病院で亡くなった母親が分娩室から遺体安置所へ運ばれるとき,遺体には「どろりとしたミルク」がぎっしり詰まっていることが多かった。今ではこの「ミルク」が感染による膿だとわかっているが,当時は病院を雲のように覆う「霊気」あるいは「大気の作用」によって生じると考えられていた。
 ゼンメルヴァイスは細菌についての知識はなかったが,午前中に死んだ母親を解剖した同じ医師が,そのあと手などを洗浄することなく,午後には新しい赤ん坊をとりあげることは知っていた。そして患者たちを殺しているのは謎の霧などではなく,医師たち自身なのではないかという疑いをいだいた。
 ゼンメルヴァイスは手の洗浄を行うよう訴えたが,医師たちは不愉快そうに拒否した。年長の権威ある医師たちにとって,血の染み付いた薄汚れたスモックを着て,いわゆる「病院臭」をぷんぷんさせならが歩くことは彼らの誇りだったのだ。
 旧来のやり方に固執しない若い研修医たちが手の洗浄を実行し始めると,母親が死ぬことはなくなった。しかし病院の古参の医師たちと『ウィーン・メディカル・ジャーナル』誌はゼンメルヴァイスを町から追い出し,また多くの母親が死んだ。
 1865年,ゼンメルヴァイスは拘束服を着せられ,幽閉された。彼はおそらく感染が原因で死亡し,やっと病室を出たのだが,彼の母国であるハンガリーの医師会は彼の死亡記事と略歴を掲載することを拒否した。彼の悲しくみじめな最期は,いかにも彼がずっと気が狂っていたことを示すかのようだった。
 現在,ゼンメルヴァイスの家は博物館になっている。オーストリアのコインのひとつには彼の肖像がついている。そしてウィーンの女性たちはゼンメルヴァイス・クリニックで安全に出産している。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.169-171

水銀薬

アブラハム・リンカーンは「うつ病」だった。医師や歴史家は,19世紀の医師がうつ病を含むあらゆる病気に効くとして処方した「青汞丸」をリンカーンが飲んでいたと考えている。この丸薬には神経毒である水銀が含まれていた。普通に1日2,3回飲んでいたら,今日考えられている許容量の1万倍もの水銀を摂取していたことになる。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.163

それでも血を抜く

1799年12月13日,ジョージ・ワシントンは喉がとても痛いと訴え,翌朝には呼吸が苦しくなった。彼は嫌がる召使いに無理やり500ccほどの血を抜かせた。「怖がることはない……もっと,もっとだ」。そこへ選りすぐりの名医が3人到着した。第1の医師は,甲虫の分泌液を乾燥させて作った発泡剤を使ってワシントンの皮膚に水疱を作り,1か所600ccずつの瀉血を2か所で行った。そして念のためさらに1200cc瀉血した。
 次の医師は960ccの血を採った。結局10時間ほどの間に合計4リットル近くの血がとられた。これはワシントンの体内にあった血液のほぼ半分である。午後10時10分,ワシントンは死亡した。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.162-163

それでも血を出すか

1830年代には,血友病は血液が凝固できないという損傷のせいで起こることを専門家が突き止めていたが,医師はこの単純な事実を75年間も見逃していた。その間,血友病患者は,ちょっとした不便を解消するための手術——たとえば膝の手術——を勧められては,それが命取りになることもあったのである。
 多くの医師は,患者に出るだけの血を出しつくさせるのがいちばんいいと考えていた。「血が止まらない患者を治療するいちばんいい方法のひとつは放っておくことだ」とある主要医学誌は書いていた。ある病院は,したに切り傷を負った3歳の少年にまさにその方法をとった。「彼の口から血が噴き出た……出血は7日間続き,少年は蝋人形のようになった……」。そして少年は死んだ。
 もっと積極的な治療を試みた医師もいた。有名なパリのサルペトリエール病院の医師たちはある血友病患者の肛門に25匹のヒルを吸い付かせた。この患者も命を落とした。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.152-153

大量のヒル

フランス人は1年に400万匹のヒルを消費していたので,多くの医師はヒルの絶滅を恐れていた。需要に応じるため,女性たちはヒルがうようよする池に入り,足に吸い付かせた。
 プロのヒル売りが病院を巡回し,各地の薬局は1樽いくらでヒルを販売していた。イギリスの有名な司法改革者サー・サミュエル・ロミリーは2匹のヒルをペットとして飼育していた。毎日「食事」を与え,名前もつけていたということだ。
 ある医師はヒルに絹糸をつけ,患者の喉の奥に下していった。ヒルが血を吸って重くなると,魚を釣るように糸を巻き上げた。男性の睾丸から血を抜くときは,数日の治療期間で100匹以上のヒルを使った。イギリスの偉大な外科医アストレー・クーパーの報告によると,多くの男性は,ヒルが鼠径部に吸い付くのは不快だとしてランセットによる瀉血を選んだ。
 肛門にヒルを吸い付かせることもよくあった。しかしその場合は,患者が異常な収縮や痙攣を起こすことがないよう注意が必要だった。1818年,ウィリアム・ブラウン博士は,座面に穴があり下にバケツを置いた椅子を使うよう提案している。博士はヒルを首の長いびんに入れて患部に向かわせた。オズボーン博士は溝のついた棒をしっかり上向きに押し込む方法を推奨している。彼はその棒に装飾的な皮革製の柄をつけていた。
 子宮の病気,性的興奮,そして「イライラ」全般の軽減のために,主な教科書や雑誌類は膣へのヒル使用を勧めていた。イングランドでは「それなりの地位」の男性は,2週間に1回は奥方にヒル治療をさせていた。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.147-148

速さ勝負

19世紀の外科医は手術をする際,学生にストップウォッチを持たせた。スピードは彼らの誇りだったが,急ぐのは腕を見せびらかすためだけではなかった。過ぎていく1秒1秒がショックや感染のリスクを高め,麻酔以前の時代には血も凍るような悲鳴を長引かせたのだ。優秀な外科医は片脚を90秒で切断できた。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.145

浣腸王国

フランス王ルイ11世はペットの犬に浣腸させ,ルイ13世は1年に212回の浣腸,215回の嘔吐療法,47回の瀉血を受けた。ルイ14世は浣腸王ともいうべき王様で,生涯で2000回,ときには1日4回の浣腸を受けた。たしかに効果はあったようだ——ルイ14世は72年間王位にあり,スペイン継承戦争をなんとか戦いぬき,封建制の名残りを一掃したのだから。
 ヴェルサイユの豪壮な宮殿で,侍女たち——浣腸剤をこっそり持ち出すことは厳しく禁じられていた——はご主人様のために浣腸剤を配合し,色や香りをつけるのだった。ご主人様の箪笥は特別注文の銀製肝腸管でふくらんでいる。肝腸管は紐のついたヴェルヴェットの袋に入っている。鋭い頭と健康的な肌のつやを保つため,王家につらなる人々は最低でも1日1回は浣腸するよう勧められていた。夕食後の寝酒がわりの1回は別として。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.126

顕微鏡で見えるのは内側

「イギリスのヒポクラテス」と呼ばれるトーマス・サイデンハムも顕微鏡にはまったく興味を示さず,解剖学にもほとんど関心がなかった。自然は決してその秘密を明かしてはくれないし,いずれにしても医学研究は「物の外側」だけに限るべきだというのが彼の見解だった。みずからも研究に顕微鏡を使った先駆者だったヤン・スワンメルダムも,神の御業をあまりに間近から見ることは,自然に対する人間の畏敬の念を減ずることにつながると考えた。そして彼も手を引いてしまった。
 構成の医学史家は,初期の顕微鏡は完成度が低く,あまり使い物にならなかったのではないかと主張した。この仮説の真偽をめぐり,1989年にレーウェンフックの9台の顕微鏡がテストされたが,どれも現代の初心者向けモデルに勝るとも劣らない性能であることが証明された。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.118-119

ノスタルジーという病気

1688年,不安感が世界中に広がり,郷愁がつのったあまり涙するということが多くの人に起こった。
 この感情のうねりを最初に発見したのはスイスの医師ヨハネス・ホーファーである。彼は,ベルンで学びながらも,ふるさとバーゼルが恋しくてたまらないという青年の治療に成功した。もうひとりの患者はベルンに出てきた田舎の少女で,激しく転倒して昏睡状態に陥っていた。目を覚まして見慣れないベッドに寝ていることに気づくと,彼女は両親に会いたいと言い続け「家に帰りたい。家に帰りたい」と訴えた。
 たまたま類似した出来事が続いたことから,「ノスタルジア」という新しい病名が生まれた。ノスタルジアとは「ふるさと」を意味するギリシア語の「ノソス」と「悲嘆」を意味する「アルゴス」から作られた言葉である。この病気は,1700年までには世界中の医師たちに受け入れられ,その原因と治療について医学書や医学雑誌で激しく議論されていた。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.94-95

解剖ショー

死体でさえ舞台にあがることができた。16,7世紀,公開解剖の場に立ち会うのは,時代の最先端を行くお楽しみだった。チケットを手に入れた幸運な人々にとって,解剖の日はスピーチ,行列,音楽を楽しむ祝祭の日だった。1597年のイタリアの広告ビラには,リュート奏者と「陽気に騒ぎ,足を踏み鳴らす」観客たちの行列について書いてあった。
 高まる需要にこたえて,解剖「劇場」はヨーロッパ全土に広まった。解剖のラスベガス,イタリアのパドヴァでは,解剖学者のヒロエニムス・ファブリキウスが大いに人気を集め,もっと広い劇場を作る必要が生じたほどである。そうした劇場自体も上等の材木を使い,高価な装飾を施して入念に作られていた。案内係が秩序を保ち,チケットを持たずに来て,窓からのぞいたり柱の後ろから見たりする人々は,専門の係員によって追い出された。チケットを持つ人は,視察にきた高官でも医学生でも塩漬け魚の売り子でも,ユダヤ人でさえ歓迎された。
 観客は質問を許されていたが,大声で笑うことは遠慮しなければならなかった。よく見るために体の部分を観客にまわすこともあったが,土産に持ち帰ることは禁じられており,地域によってはべらぼうな罰金が科された。チケットの売上金は豪勢な宴会の費用になったり,死刑執行人への支払いに当てられたりした。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.91-92

似たものが効く

「特徴説」によれば,神の思し召しによりこの地上を災禍や病苦が襲うこともあるが,慈悲深い神はそれを癒やす秘密の手がかりを用意されており,時期が来れば手がかりが発見されて人は救われる。神からのこの尊い贈り物について,ある神学者は,神は人間に「みずから与え給うた病気を癒す術をくださった」と,感謝をこめて書いている。
 この説の中心となっているのは,病気になった体の部位に似た外見を持つ植物は,病人や医師が患部と植物の外見との類似に気づくことができれば,その病気を治すことができるという考え方である。たとえばクルミは「頭部の完璧な似姿であるから」頭痛を治すために神によって作られ,肝臓の形に似たスハマソウは肝臓の治療のために作られたのだ。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.83-84

見たら生む

『体内感応説』によれば,ジャンプする猫にせよお気に入りの絵画にせよ,妊娠中の女性が見たものは生まれてくる子供に刻印される。そして母親から胎児へ向かう感応は良いことではないのが普通だった。
 13世紀,ローマのある貴婦人が獣のような毛と鉤爪をもつ男の赤ん坊を産んだ。専門家は,この異形は居間に飾られていたクマの絵画を貴婦人がことさら愛でていたせいだとした。ローマ教皇マルティヌス4世は,クマの絵画や像をすべて破壊するよう命じた。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.79

抜きすぎ

イングランド王チャールズ2世が1685年に突然亡くなったとき,廷臣たちは説明を要求した。王の侍従団はなんとか責任を逃れたいとの思いから,多くの日誌類を公表した。これらの記録は,王が当時としては最高の治療を受けていたことを明確に証明するものだった。
 2月2日,お目覚めの際,王は気分がすぐれなかった。髭剃りを中断し,1パイント(約500cc)の血液を採取。使者を出して精鋭の医師団を招集し,吸盤を使用してさらに8オンス(約240cc)の血液を採取。
 陛下に有毒の金属であるアンチモンを嚥下していただく。嘔吐される。一連の浣腸を実施。有害な体液を下降させるため,頭皮に発泡薬を塗布。
 下降した有害な体液を吸収するため,ハトの糞などの刺激物質を足の裏に塗布。さらに10オンス(約300cc)の血液を採取。
 気力回復のため砂糖飴を摂取いただいた後,灼熱した鉄棒で突く。その後「一度も埋められたことのない男—非業の死をとげたことは確認済み—」の頭蓋骨から滲出した液を40滴投与。最後に西インドのヤギの腸から採取した砕石を王の喉に押し込む。
 チャールズ王は1685年2月6日に亡くなった。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.68

尿うがい

ヤギの尿でうがいをするのは,うっかりヒルを飲み込んでしまった人の治療法のひとつだった。それでうまく行かなかったら,水をのむのをやめてヒルを水不足にする。そこですかさずブロンズの管を喉に押し込む。続けて灼熱した鉄を管に押し込む。そして最後によく冷えた水をグラスに入れて患者の前に置く。そうして水欲しさにヒルが出てきたところを引っつかむのである。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.62

歯痛に瀉血

歯痛には瀉血が勧められた。神経を酸や熱した鉄で焼いて,溶かした金の液ですすぐ方法もあった。「虫歯の虫」は,患者の口の中に火をつけたろうそくを入れたり,薔薇を燃やした煙でいぶしたりして追い出した。耳の後ろの皮膚を燃やす方法を勧めることもあった。
 無理もないことだが,中世の人々は歯医者へ行かずにすむためなら何でもした。歯を清潔にする「噛み小枝」は広く使われていたし,爪楊枝も普及していた。遅くとも中世末期には,裕福な家庭では家族全員が共用する歯ブラシがあったようだ。もっともブラシの豚毛がとれて喉に入ることもあったようだが。ある女医が12世紀に書いた一連の本『トロトゥーラ』では,女性は「口がにおう」のを防ぐために,上等のワインで口をすすぐようにとアドバイスしている。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.52

恋の治療

恋の病を治療するには何がいちばんいいか。高名な医師たちは7世紀までこの問題について論争を続けていたが,脳の水分を十分保つことが肝要だという点では一致していた。必要な水分を与えるため,医師は恋の病を訴える男性に,愛する人の経血を含んだ布の匂いを嗅いだり,彼女の便を燃やした臭い煙を吸い込んだりさせた。
 その200年後,ペルシアのアル・ラーズィーが恋の病の進行を非常な精密さで書き記した。まず患者の目がうつろになる。次に舌にできものが生じ,それから体が縮こまる。病人はわけの分からないことを言ったり,水疱が吹き出したりする。末期になり,いよいよ命運尽きた患者はオオカミのような吠え声を発し,死んでしまう。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.47-48

液体の窓

中世になると,「液体の窓」とも呼ばれた尿は,人体の秘密を真に解き明かす唯一の鍵だと信じられるようになっていた。中世の医師は,採取した尿を明るい日なたでじっくりと3回ながめ,その色が黄色か緑か赤か紫か,はたまた腹の中にとどまりすぎて黒くなっているかを見極めた。それから風や天候や惑星の配列も考慮に入れて,患者の健康状態を判断するのである。いちばん正しい結果が得られるのは,人間の膀胱の形をして高価な宝石で装飾されたフラスコに入れた尿だった。
 何だかんだ言っても,尿を調べることで実際に患者の体に触れること,あるいは見ることさえしないで診断が下せるというのは,医師にとって好都合だった。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.43

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