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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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まれな治療法

これから記すのは例外で,普通に行われていたことではない。アルブカシスは傷の治療のため,切り裂いたカエル,切り刻んだカニ肉とトカゲで軟膏を作った。傷を縫合するためにジョン・オブ・マーフィードはクモの糸を使った。アルブカシスは,飢えたサスライアリに腸の傷口を噛ませ,その頭部だけを残すことで縫合を行った。この3つの治療方法はすべて効果があったそうで,アリを使う方法は今もある。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.41
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治療より学問

中世の医師はみな,古い時代の医療や書物を崇め奉っていた。特に崇拝されていたのがヒポクラテスとガレノスである。彼らの著作には,時代を越えてすべての医師が知っておくべき医療のすべてが記してあると信じられていた。医学理論は古代から一歩も前進しないままだった。
 中世の医師はとりわけ学問を重んじ,実践を見下していた。彼らの仕事は患者にああだこうだと蘊蓄を傾けることで,治療することではないのだった。伝染病であろうとなかろうと,患者の体に触れるのは避けるべきだとされていた。
 実際,中世の医師は口先でうまいことを言うのは得意だった。12世紀の著作家ソールズベリーのヨハネスは「彼らが熱弁を振るうのを聞くと私はうっとりしてしまい,彼らは死人を起こすことさえできると信じそうになる。私がそれをためらう理由はただひとつ,さっき言ったことと今言ったことが食い違っているからだ」と書いている。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.28-29

毒を盛るな

医師の倫理規定である「ヒポクラテスの誓い」には,医師が人に毒を盛ることをわざわざ禁ずる項目がある。これは私たちの目には奇異に映るが,ローマ人にとってはそうではなかった。ローマ人は医師は好きではなかったが毒は好きだったし,毒の使い方をよく知る医師も重宝されていたのだ。ローマの上流階級の人々を鋭く観察していた詩人ユウェナリスは,何かを得ようと思うものは誰でも毒殺の名手でなければならないと書き,その証拠として,ある女性の失敗をあげている。彼女は夫を毒殺しようとしたが,夫があらかじめ解毒薬を飲んでいたため,結局刺殺しなければならなかった。もちろん,妻に毒を盛った夫もたくさんいたし,母親たちは恩知らずの子供を毒殺したものだった。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.26

ヒポクラテスの頭蓋開口術

より深刻な頭部の傷や頭蓋骨折に対しては,ヒポクラテスは「頭蓋開口術」を行った。患者を椅子に座らせ,錐やのみを使って頭蓋骨に穴をあけるのだ。摩擦熱で工具が熱くなるため,冷水を入れたバケツが近くに置いてあった。穴の周囲と骨の破片をきれいにして元にもどすと,墨汁かハトの血で隙間をふさいだ。この手術をしなければ死んでいたはずの患者が回復することも多かったらしい。
 それに比べると,てんかんについてのヒポクラテスの見解はあまり実用的ではない。彼は,てんかんは脳が溶け,心臓の中の粘液が固まって起こると考えていた。子供の脳は特に溶けてぐちゃぐちゃになりやすく,日なたや火の近くに長時間たっていると一層溶けやすいということだった。さらに,精神病の原因は脳がふやけることだと信じており,胆汁が過剰な人は興奮しやすく,粘液質の人はむっつりして引っ込み思案だと考えていた。ガレノスは,脳を「粘液の大きな塊」と呼んだこともあったが,脳の神経のいくつかは意志の力を運ぶために硬いと考えた。これがよく言われる「鋼鉄の神経」である。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.18-20

「投げ落とす」

ひどい背骨の湾曲に対するギリシア人の治療法——高い建物から患者を投げ落とす——は,ヒポクラテスの目から見てもさすがにちょっと直截的すぎたかもしれない。

 はしごに布を当て……患者をその上に寝かせ……腕と手を縛りつける……はしごを高い塔か家の屋根の端まで運び上げ……落としなさい。

 この極端な治療法についてヒポクラテスは「はしごでまっすぐになった患者などひとりもいない……こんな方法をとる医者は……みんな大馬鹿だ」と書いている。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.17-18

専門医

王族など一部のエリートは「肛門の保護者」や「腹部の医師」などと呼ばれる専門医をかかえていたが,そうした人々にとってさえ古代エジプトで生きるには多くの困難があり,あまり長生きはできなかった。バビロニア同様,ここでも医師にできることはあまりなかった。せめてもの慰めは癌で苦しむ人が少なかったことだが,これも癌にかかる年齢まで生きる人が少なかったからにすぎない。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.13

四体液説

とはいえ,偉大なるヒポクラテスも大きな間違いを犯すことがあった。何より重大な間違いは,病気は「四体液(血液,黒胆汁,黄胆汁,粘液)」のバランスが崩れることで起こると信じていたことで,この説は19世紀にいたるまで医師とその患者につきまとうことになる。

ネイサン・ベロフスキー 伊藤はるみ(訳) (2014). 「最悪」の医療の歴史 原書房 pp.9-10

無難な回答

実際に入社面接で志望動機をたずねると,大半の応募者が「御社の社風にひかれて」といったことを答える。特に新卒採用の学生は,どこかの会社で口にするという意味では概ね100%だろう。志望動機の代表選手といった感じで新鮮味には欠けるものの,無難な答えであることは間違いない。
 「御社の将来性にひかれたからです」と学生が明るく答えても,会社の内情はいろいろだから,面接官も心のなかでは「そんな甘くはないよ」と独りごちているだろう。だからといって「高い給与水準と楽な仕事に魅力を感じます」というすべての学生が持つ本音中の本音を言ってしまえば,もちろん即アウトだ。
 一方,「志望するのは御社の社風に魅せられたからです」と言われて,悪い気持ちを持つ面接官はまずいない。業績が良かろうが悪かろうが,面接をする立場の人は自分の会社を好きだからだ。おそらく「どこで当社の社風を知る機会がありましたか」という質問を続けるが,それに対しては「御社におられる大学の先輩から話を聞きました」「就職セミナーで御社の方が話をされる中で感じました」などいくつかの回答パターンがある。回答の内容は何でもかまわない。「社風」を会社選択の基準に据えていること自体が大切だからだ。
 社風を理由にする以上,少なくとも会社の面々と協調してやっていこうとする意思はあるに違いない。疑ってかかれば,社風を志望理由として挙げること自体も,マニュアル本の模範解答かもしれない。それはそれでやはりいいのである。なぜなら,会社は言われるまでもなく,「社風」に合うか合わないかを実質的な選考基準にしているからだ。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.161-162

クレーム回避

そもそも人事部採用担当にとって一番避けるべき事態は,新人を配属した先から「何でこんなレベルの低いのを採ったんだ!人事は一体何を見ているんだ」とクレームがつくこと。人事の威信と沽券に関わる問題だ。このため人事の採用原則は,優秀な人材を採ることではなく,ダメな人を採らないことなのだ。この点で過去の採用実績の多い大学の学生は,ある程度レベルも読め,大きなハズレもない安全パイだ。多少,デキが悪くても,自分の大学の後輩であれば,諸先輩もあまり厳しいことは言わない。また有名大学から採っておけば,仮に後で「採用ミス」となじられても,「ポテンシャルは高いはず。それを育てられない現場が悪い」と言い返せる。いずれにせよ,人事部にとって大学を実質的な採用基準にすることは,最大のリスクヘッジなのである。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.151-152

時間を持て余し気味

新卒・一括採用は,採用側にとって効率的なシステムだが,リスクも大きい。すでに述べたように30分×3〜4人の面接で採用を決めるわけだが,そんな短時間で人の能力を見抜くことはそもそも無理だからだ。将来,会社でどのくらい活躍するか読めない対象に短時間で総額数億円の投資をしていることになる。
 ところが,面接経験者は実感としてわかるだろうが,相手をきちんと理解するのは無理な一方で,30分間の面接は時間としてはむしろ持て余し気味だ。
 「当社を希望した理由は?」
 「御社の自由闊達な社風に魅かれました」
 「それでは学生時代に注力したことを教えてください」
 「レストランでアルバイトをしたことです。人と接する厳しさと喜びを学びました」
 無難な受け答えだ。「社内飲み会の『傾斜』を教えてください」などと,人事をギョッとさせることは言わない。体育会系の学生だと,ここぞ,とばかりに「3年間仲間と苦楽をともにし,いっしょに何かをすることの素晴らしさを知りました」と大きな声が響きわたる。つい先日まで遊び呆けていた学生が就活スーツをまとって座っているわけだから,話が深くなっていかないのも仕方がない。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.149-150

実際は相対評価

どれもこれも目標管理制度が「絶対評価」を建前としているところから生じる問題点だ。絶対評価というのは全員が目標を達成すれば全員がSでもよいという考え方だ。そうなると全員にボーナスを奮発しなければならない。本当に全員がSの業績であれば,少なくとも部署としては儲かっているはずなので,ボーナスの奮発はOKだ。
 では,「寛大化」のなかで絶対評価をすると,どうなるだろうか。いわゆる「合成の誤謬」が発生し,実際の収益に見合わない支出によって赤字になってしまう。
 このような問題に対して,人事部は何を考えたか。じつは絶対評価の目標管理制度について「相対評価で運用する」ということだ。論理的な無謬性にこだわる人事部として,表立っては相対評価と口にできない。そのため評価者からこそっと部下の順位表をもらったり,人事ヒヤリングと称して口頭で聞いたりしているのだ。会社によっては部署の業績に応じたボーナスファンドを部長に委ね,その裁量で部下に配るという方法をとるところもある。これも評価の相対化のバリエーションである。
 いずれにせよ,表向きは全員Sでもじつは順番がついていて,ボーナスの金額にも差がある。そもそもある人がどのくらい優秀かを判断するのは極めてむずかしいが,AさんとBさんのどちらが優秀かを決めるのは容易だ。相対評価はじつは現実的で優れた方法なのだ。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.122-123

成果主義,実は人物主義

率直なところ「反成果主義」の議論は,私には奇異に感じられる。なぜなら,成果主義自体がほとんど根づいていないにもかかわらず,「反」という概念は起こりようもないからだ。
 では,あれだけ騒がれた「成果主義」の現状は一体どうなっているのか。「成果主義,じつは人物主義」のとおり,実際は日本企業の伝統的な人事概念である「人物主義」が何の変化もなく脈々と生き残っているのである。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.115

メンタリティの問題

いずれにせよ,結局,成果主義はほとんど日本の企業には根づかなかった。そして,その背景には根深いものがあった。成果に応じての評価や処遇を徹底した場合,当然の帰結として年齢や入社年次が逆転した報酬や昇格,人事異動が常態化する。その結果,社内の人間関係には大いなる緊張感が生じる。「昨日の部下が今日の上司」と考えてみればわかりやすい。年功概念の問題というよりは,もはや儒教の精神にまで辿りつく日本人のメンタリティの領域の話となるのだ。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.114

そういうもの

表面的な仕組みは日系も外資も大きな違いはない。決定的に違うのは,日本の企業がいわば「社長の選抜」をも遠く視野に入れて人事評価を行っている点だ。トップリーダーとなれば,会社の進むべき道を考え,多くの人を引っ張っていけるポテンシャルや素養が重要である。意識・情意・姿勢・見識など数字に表しにくい定性的な評価が必要になる。日本企業の標準的な評価制度において,目標管理にもとづく業績評価に加えて,行動特性やプロセスを見るコンピタンシー評価を重視しているのはこのためだ。
 この結果,どこの会社も似通った人事制度になるが,表面の精密さとは裏腹に,実際の運用は多分に「好き・嫌い」に近い感覚的な評価になりがちだ。たとえば,コンピタンシー評価で考えてみよう。コンピタンシー評価とは,高い業務成績の実現と相関関係が深いと思われる行動特性を何項目かに整理し,対象の社員が各項目についてどのくらい該当するかで評価するというものだ。
 「関係構築力」であれば「積極的に人と関わり,良好な関係を築くことができるか」,「コミュニケーション力」であれば「相手の気持ちを理解し,また自分の意見をわかりやすく伝えることができるか」といった具合だ。この問いに対して5段階で評価しろと言われても,何をもってAなのか,Bなのか,よく判断がつかないというのが誰しも感じるところではないだろうか。言い換えればどの評価をつけてもOKなのだ。となると,お気に入りの部下であれば甘い評価になるのは人情で,逆も真なりである。
 「それでいいのか」と思われるかもしれないが,そういうものなのだ。上司が「好き・嫌い」で評価をしたとしても,その背景には社風が存在し,その暗黙の指示にしたがって同類のDNAを受け継いでいくプロセスと考えられるからだ。
 人事制度は似ていても,実質的な人事評価者は会社ごとに異なる社風であり,いわばその好みで人物を選んでいく以上,会社によって出世タイプが異なるのは当然である。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.107-108

社風が人事権をもつ

組織体を維持することは,どの会社にとっても最も根源的な至上命題だ。そこで中心的な役割を果たすのが,やはり社風である。人事はそのDNAの運び屋である人材について,採用,異動,評価,昇給・昇格など諸施策の遂行を役割として担っているからだ。社風が人事部をして人事を差配し,至上命題である組織の「サステナビリティ(持続可能性)」を実現しているわけだ。人事権を持っているのは,じつは社長でも人事部でもなく,社風ともいえる。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.98-99

暗黙知

会社においては,何か一定の事案が発生すると,それについての社内の関係部署・関係者がいろいろな議論や教義を繰り返しながら判断をして結論を出す。また,社員個人についても毎日起こるさまざまな事柄に対して自分なりに判断していく。会社とは判断の連続によって継続しているといってよい。そして,この「事案・事柄」に対して「判断・結論」に至るプロセスで重要な役割を果たしているのが社風なのだ。
 函数と社風が異なるのは,「変換機能」が明示的か否かという点だ。函数では文字どおり「数式」に表現されるわけだが,社風は「暗黙知」であり言語などの形で明示されることはない。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.82-83

「では,そういうことで」

会議があまりゴタゴタせずに「では,そういうことで」で終わるのは,効率性の観点からは望ましい。「侃々諤々の議論の結果,決まったことは一糸乱れずみんなで頑張って実現する」となると党首選後の新党首挨拶のようだが,議論下手な日本人のメンタリティとして「激しい議論」は確かに功罪半ばし,なかなか「ノーサイド」と気持ちを整理するのはむずかしい。結果的に効率性を実現できるこのような会議の進め方は,1つの「生活の知恵」だろう。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.77

よくある会議風景

我が国の伝統的な会議風景は次のとおりだ。まず,担当部署のヘッドが,優秀な部下のつくったペーパーにもとづき,その日の議題となっている案件の説明を始める。基本的にはペーパーの棒読みだが,鉛筆でメモ書きされた補足事項をそれらしくコメントすることもある。説明が終わると議長(または司会者)が「何か質問やご意見は?」と聞くが,すぐには手が上がらない。少し間をおいてから,まず1人が「意見というほどではないが」という前口上でボソボソと話し始める。その後,2〜3名が発言するが,質問とも意見ともつかない差し障りのない発言が続いて質疑は終了する。最後に議長がなにかムニャムニャとしゃべったあとに,「では,そういうことで」といって終了する。
 「では,そういうこと」とは,一体何がどういうことなのか,外国人の社外役員がいたら,どのように訳すのだろうか。出席者から反対らしい意見が出ないのは,場を乱さないようにしたいという気づかいもあるだろう。事前の根回しが効いているのかもしれない。
 しかし,本当の理由はそんなことではないように思う。要するに参加者全員がほとんど同じ考えをもち,反対する理由がないのだ。もっと言えば,仮に違う意見だったとしても,その違いはわずかで,相手の言いたいこともそれなりによく理解できてしまうので,あえてチャチャを入れるのも大人気ないと感じているのである。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.73-74

抽象化された概念

就職活動をしている大学の後輩に「御社の社風を教えてください」と聞かれたら,あなたは何と答えるだろうか。おそらく多くの人は,「風通しのいい社風」とか「チャレンジングな社風」など,会社の宣伝をするだろう。先輩として自分の会社を誇るのは当然だ。
 では,たとえば「風通しのいい社風」というのは何を表すのか。きっと,組織がフラットで上下や左右のコミュニケーションが図りやすい職場環境ということだろう。
 確かにその通りだ。だが,本当に言いたいことはそれだけではないような気もする。自分の会社の社風を列挙すれば,普通,4つや5つの言葉はすぐに思いつく。しかし重要なのは,言葉でいくら並べてみても,本人が肌で感じ取っている社風(のようなもの)は伝えられないということだ。会社で仕事をし,その空気に触れれば,一瞬にして身をもって理解される社風は,そもそも言葉では表現できないものなのかもしれない。表に現れる個々の言葉の上位にある抽象化された概念なのではないだろうか。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.32-33

社風

社風は,ある人にとっては,せっかく転職して入ったばかりの会社を数日で「違う!」と思わせ,キャリアが傷つくのを承知の再転職に誘うこともある。目には見えず言葉で表現されることはなくても,社員1人ひとりの心のなかにいつも直接働きかけ,また,時として,絶大なる力を持った人事評価者にもなる。それが社風なのだ。
 「社風」とは便利な言葉だ。何か仕事上の物事を説明する必要がありながら,どうもうまく説明できそうもないときに,たとえば「それがウチの社風なんだから,しかたがないだろう」と半ば居直ってしまえば,それ以上,追求されることはまずない。おそらく相手のなかにも,社風という得体の知れない,それでいて決定的な影響力を持つものの存在が実感としてあるのだろう。

渡部昭彦 (2014). 日本の人事は社風で決まる:出世と左遷を決める暗黙知の正体 ダイヤモンド社 pp.30-31

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