忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

プラスチック・ワードの詳細な特徴

1 プラスチック・ワードは高い抽象度を特徴とする。この抽象言語は見通しのきく均質的な領域をつくりだし,個物の独自性を視界から遠ざける。「情報社会への途上にあるドイツ連邦共和国」というわけだ。この言語は世界を均等にならしてプランナーの手に引きわたし,容赦なくあらゆるものを製版図での作業になじみやすくする。たしかに,数字はもっとも抽象的な技術である。
2 「コミュニケーション」のような語は,歴史的次元を欠いている。それはいかなる特定の場所にも社会にも埋めこまれてはいない。底が浅く味わいもない。こうしたことばは,自然の世界を自然科学の観点から記述する。それが侵入した世界からは歴史が追放され,人間的尺度が取り去られる。
 比較のために,背後の環境と密接に結びついている言語の姿を思い描くことができる。中世のラテン語,口承文化における言語,1800年ごろのドイツの教養言語などがそれにあたる。これらの場合には,ことばは限られた地平の内部で用いられていたが,それでもなお,人間的な経験や認識を人間的次元に埋めこまれたものとして伝えることができたのである。
 無定形なプラスチック・ワードは,言語をそのような拘束から解き放つ。プラスチック・ワードはいかなる特定の背景も呼び起こさない。なにしろ普遍的なのだ。プラスチック・ワードは生の歴史を自然のプロセスとみなし,あらゆるものは根本的に同じだと告げるのである。
 歴史が物理学者の目で眺められ,物理学的「永遠」のなかではいつでもどこでも同じだとみなされると,このうえなく強力な推進力が歴史を駆りたてるようになるらしい。終わりなきプロセスのなかで,歴史はみずからの自然性を取り戻そうとするかのようである。
 数学化はこうしたプロセスの根源に横たわる分母である。数学こそは,非歴史的で時間と空間にしばられない,普遍的な技術なのである。
3 わたしたちのキーワードは,輪郭のはっきりしたブロックのように用いられる。数で表される「量」をあつかうのと変わりはない。この「量」の威光があたりを圧するのだが,日常言語でさえ,多くのステレオタイプには量化可能な物質のイメージが結びついている。「エネルギー」「生産」「消費」だけではない。「情報」「コミュニケーション」でさえ,わたしたちの日常意識にとっては,数と統計の次元にあるように思いうかべられる。
4 プラスチック・ワードは,どんな順序に並べられても文を作りだす傾向をもつ。単語どうしはおどろくほど交換可能であって,それらをたがいに等号で結んで,方程式の連鎖のようにつなげることができるほどだ。たとえば,こんな風に。「コミュニケーションは交換である。交換は関係である。関係はプロセスである……」。
 このように,プラスチック・ワードの可動性や,それらがたがいに結びつく能力にはほとんど限りがないように見えてくるし,それらを処理する可能性も終わりがないように見えてくるのである。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.195-197
PR

罵倒戦術

エキスパートがひとを平伏させるのに使う議論のやりかたは,罵倒戦術である。彼につき従わない者は,絶望的なまでに取り残される。その者が寝坊しているあいだに,発展の列車は通り過ぎてしまったのだ。エキスパートは「善/悪」の対を「進歩/退歩」の対に取り替え,それによって自分流の価値秩序を配備する。ここで彼は豊富な語彙を手中にしている。一方の側には,「近代的」「時代の先端を行く」「明るい未来」のような,わくわくするようなおまじないがある。もう一方の側には,「古くさい」「時代遅れ」「時代の遺物」「かびが生えた」などの弱々しい外見がある。実際には,ある領域で進歩であるものが,別の領域ではまったくの退歩であることも十分にありうる。けれどもエキスパートは,いとも朗らかに,知識の進歩を大河の流れとしてイメージするという科学の基本的メタファーをなんの修正もなしに社会に転用する。まるでどこでも進歩には異なる顔がないかのように。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.173-174

文明の成果

ひとつの例として,「健康」のからくりをとりあげよう。健康な人は自分の健康について語らないものだ。何かをもっているわけではないし,何も欠けてはいない。この「ないもの」について語るべき理由などないのだ。というのは,そのことを気にしていないのだから。ひとが健康について語りはじめるのは,自分の身体に注意が注がれるようになったときだけである。そのときひとは,いまの病気について語ったり,昔の痛みを思い出したりする。「健康」という語は,昔のテクストにはあまり出てこない。もし出てくるとしても,何かの実体を指し示しているわけではない。ただ「無傷である」「生きている」を意味しているだけである。健康である者には,何も欠けていないのだから。しかし,わたしたちは健康がひとつの美徳となった時代を生きている。なぜなら,わたしたちは自分たちに健康が欠けていることを見に染みて感じているからだ。いまやこの欠如は日常意識に植え付けられてしまい,こうしてわたしたちは,来る日も来る日も自分たちの病気について語るようになった。これがわたしたちの文明の最新成果なのである。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.159-160

抽象語の特徴

言語学によれば,抽象語には以下のような3つの特徴がある。(1)抽象語は,多様性をふくみ不分明な境界しか引かれていない対象領域を柔軟に描写し捕捉する力をもつ。(2)抽象語は凝固した文である。(3)抽象語は目標とする対象領域の実体化あるいは擬人化に向かう傾向がある。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.113

抽象作用

たいてい抽象語は,いかなる感覚印象も呼び起こさない表現として定義される。知的作業の結果は,具体的な経験と感覚の世界から抜け出して,出会った対象を「一般化」する。それは個別の歴史的状況を捨て去り,一般的なものとして残るものだけに注目する。「サトウカエデ」ではなく「カエデ」,「結婚」や「友情」ではなく「関係」,「教育」ではなく「情報」といったぐあいだ。これこそ,抽象作用の歩みが向かう方向である。日常言語においてぼんやりとしか存在しなかった概念の段階は,科学において正真正銘の梯子に改造される。その梯子を登るにつれて,事物の特性が消え去っていくのと同時に視界が開けていき,ついには最高度の普遍性に到達するのである。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.113

ことばの奴隷

科学者というものは,基本的に自分の言語の主人である。研究の結果,新しい概念を導入し,必要とあらばそれに新しい名前を付けるのが,科学者たる者の仕事なのである。そこで使われる語や記号は,なによりもまず,曖昧さを残さず物事を手短に伝えるためのものである。こうした記号は,適用範囲が制限されていた方がよく,無用な意味の含みがあってはならない。だからこそ科学者は,日常言語の音声や意味の場に埋め込まれていない言語的素材を好むことが多いのである。科学者が用いるのは省略記号であり,固有名詞であり,ギリシア語やラテン語の単語である。これらは,できるかぎり概念を傷つけずに,自由に定義された内容と結びつくことができるのである。
 他方,無定形のプラスチック・ワードを使う者たちは,ことばの奴隷となりやすい。プラスチック・ワードを手にとって調べることはできない。その代わりに,幅広い領域を見渡しているような幻覚をもつことができるのだ。プラスチック・ワードが備えているのは,何よりもまず社会的機能であり「威光」である。ギリシア文字のエプシロンでさえ,アインシュタインの有名な方程式でエネルギーを表わすとなると,日常言語のなかで人を圧倒する威光を獲得することができる。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.107

プラスチック・ワードの基本特徴

プラスチック・ワードは,次のような本質的特徴をもつことになるだろう。

A 科学に端を発し,科学を組み立てる部品に似ている。それはステレオタイプである。
B 包括的な使用領域をもつ。それは何にでも効く万能薬である。
C 内容が貧弱で切り詰められた概念である。
D 歴史を自然として把握する。
E コノテーションと機能が優位を占める。
F 欲求と統一性を生み出す。
G ことばを階層化し植民地化する。それによって少数の専門家集団が成立すると,これらの語は「資源」として利用される。
H まだかなり新しい国際的コードに属する。
I ことばをコンテクストから引き離し,表現ゆたかな身振りを締め出す。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.70-71

観念の残骸

「セクシュアリティ」という概念のおかげで,それまであった人間どうしの結びつきを表わす単語——友愛,友情,愛,情熱——が,いかにも古くさく時代遅れのものにされてしまう。なぜなら,「セクシュアリティ」の観点からすれば,それらすべてはただひとつのエネルギーから派生するものとされるからである。プラスチック・ワードの光のもとで,日常言語はあたかも使い古しの観念の残骸のように見えてくるのだ。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.55

忘れられたこと

「セクシュアリティ」というフロイトの概念には,もともとイメージを喚起するところがあった。フロイトは「精神(Psyche)」を,測定しうるか,あるいはいずれにせよ量として把握可能なエネルギーが内部で循環する装置のようなものと考えていた。精神のなかでエネルギーが,そのつど分散したり,抑圧されたり,転位したり,増大したり,減少したりするわけである。「精神」を一種のエネルギー分配装置と見なすことは,物理学から借りてきた考えであり,最初は新しい地平を切り開く思考モデルとしての価値があった。フロイトは彼の心理学において自然科学のイメージをことのほか好んでいた。なぜなら,フロイトは,自然科学は物事が実際に起こるありさまを最も忠実に表わすと考えていたからである。フロイトは「精神」を自然科学の観点から解釈したわけである。フロイトの著作に端を発し,19世紀の物理的エネルギーの概念に支えられたことばが,日常言語のなかで使われるようになって久しい。こうして,緊張が「蓄積」したり「発散」したりするようになったのだ。こうしたことばが慣れ親しんだイメージと結びついて,しだいに広く用いられるようになったために,それが当初もっていた絵画的内容は色あせてしまった。
 こうしたことばの作用は,だからこそますます強まるのである。「セクシュアリティ」は二重の意味でメタファーである。というのは,それが科学から借りてきた概念であると同時に,物理的なイメージ言語がそこに結びついているからである。ところが,それがメタファーであることは,もはやほとんど気づかれなくなっている。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.50-51

メタファー

科学の表現は,非個人的なもの,客観的なもの,一般的なものの領域に属しており,科学者はなにごとも一般化しようと努めるものである。科学者の言語は,私的で親密なやりとりのために作られてはいない。何かがたいへん個人的で,しばしば一度限りのものであると感じられるときには,柔軟でニュアンスに富んだ日常言語が使われる。したがって,私的な領域では,専門用語が嫌われるのは当然である。専門用語を使うことは,いつでも何かしらメタファー的なところがある。少なくとも,これまで長い間はそうであった。ところが,このメタファー的性格がいまや薄まりつつある。というのは,日常言語にもちこまれた単語から映像的な特徴がなくなってきたからである。メタファーとか比較とかには,そもそも絵画的なところがあって,ときにはイメージそのものを眼前に彷彿とさせることさえある。たとえば,「こそどろ(cat burglar. 直訳は「猫の強盗」)」の背後には「餌を探してうろつく」イメージがあることを見れば,このことがよくわかる。ところが,プラスチック・ワードには,みずからがどこから来たのかを示す跡がまったくないのである。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.49-50

プラスチック・ワード

意味の曖昧さ自体は,それほど珍しいことではない。たしかに日常言語においても,利用可能な語彙の単位としての単語の意味が,曖昧だったり抽象的だったり広い射程をもったりすることがある。ある対象領域のさまざまな側面を意味することもできるし,境界線がさまざまに移り変わることもある。けれども,わたしがそれを特定のコンテクストのなかで用いて,適用範囲の輪郭を描くやいなや,ことばは意味が明確で具体的で正確になる。それに対して,プラスチック・ワードは,特定のやり方で正確で適切に用いられることがほとんどない。それらはたがいに交換可能な規格部品として使用されるのである。まさにこのために,プラスチック・ワードは,正確さ,具体性,厳密性へと向かういかなる潜在的可能性をも失っているのである。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.42

言語の間引き

国民国家は,言ってみれば言語の間引きをおこなっているのだ。この点で国民国家は,世界画一化をおしすすめるビジネス・マネージャーであるといってよい。引きつづき言語の世界地勢を数値で特徴づけてみるならば,次にあげる一連の数字がたいへん重要な意味をもつ。1945年に国連憲章は52の加盟国によって調印された。現在,国連には160カ国が加盟している。だから,いまある国家の3分の2はせいぜい1世代を経たくらいの年齢にしかならないのだが,ヨーロッパの先例にならうかぎりで,それらの国民国家はただひとつの言語を国民統合のシンボルとして位置づけ,この言語にアルファベット文字をあてがって標準化しようとしている。そして,世界文明の中身を——好まれる言い方を用いるならば——「輸送」し「コミュニケート」することができるように,その言語を「発展」させることを自らの課題とみなしている。これらの国家は,ばかげた言語観を輸入して,ヨーロッパでは数世紀かかった「近代化」のプロセス,つまり,中世の普遍的ラテン語による文字文化から俗語が分離したプロセスを数十年のうちになしとげることを目指している。国境の内部の土地を完璧に地ならしする以外に,どうしてそんなことがなしとげられようか。そして,それによって,年若い国家とそこで伝統的に話されてきた諸言語は,まったくの無防備状態におかれてしまうのではないだろうか。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.30

多様性の縮小

どうやら言語の領域でも,植物や動物の世界で起きているのと同じことが起きているらしい。すなわち,多様性の縮小である。モノカルチャーが広まり,地球上をおおいつくしつつあるのだ。トウモロコシもコメも小麦も,羊や牛やブタも,変種がますます見られなくなり,少数の種が世を席巻している。ちょうど言語の世界における,中国語,ロシア語,英語のようなものである。

ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.29

フロイトによる記憶の特徴

フロイトは,少なくとも2つの非常に重要な記憶の特徴を発見した。第1に,いわば意識に接続できない心の領域に埋められた,記憶の「痕跡」が存在するようであることを発見した。第2に,こうした痕跡の存在はそれ自体が非常に重要であることは間違いないが——過去は現在と未来によって全部が取って代わられるのではなく,何らかの仕方で保たれる,という考えを証明しているので——,さらに重要なのは,これらの痕跡に「付け加えられた」意味が,時間とともにいかに変化したかという事実の発見である。フロイトはこの事実を自身の著作の中に矛盾なく収めることに困難を覚えていたのであるが,彼はこうして人間の過去は静止した「こと」ではなく,一種のテクストであること,進行中の経験により順次書き直されるテクストであることを,示すのに貢献したのである。さらに,重ねて言うが,人間の生は単なる具体的な因果の連鎖として,直線上に理解することはできない。そうではなく,それは繰り返し,戻り,過去は経験の進展によって多かれ少なかれ変えられるのである。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.94-95

あとから責める

人は,後になって,そのとき知りようのなかったことを知らなかったという事実のために,自分を責めることがある。また人は,やむを得ず行った行動のために,自分を責めることがある。このような状況で,ある程度の「自己憐憫」が呼び出される。ある者たちはこの方向に動くことができるが,そうでない者たちもいる。この連続体の他方の端では,自責の元が完全に明白なことがある。お前は知っていた,そして何もしなかった。おまえは,決して言い訳のできないようなことをした。そして,あいまいな中間があり,そこでは人はこのように問うかもしれない。私は知るべきだった何を知らなかったのか,見るべきだった何を見なかったのか?私は,渇き,飢え,生きたいという欲求に直面していたことを考えれば,そのようにしなかったからといって何だというのか?

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.86-87

遠くから眺める

空からの眺めの喩えで考えてみよう。地上で飛行機の座席に座っているとき,外に見えるのはどれもくっきりとし,輪郭がはっきりしている。いったん空に高く上がったなら,あなたが地上で見た具体的なものは,ただの形に,パターンに,一般的なデザインになる。地上では見えなかったものを見ることができるし,あるいは見慣れたものが違うように見えるかもしれない。景色しだいで,まったく美しいものになることもある。後知恵にも同じことが言える。遠くから見て改めてわかることがたくさんある。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.78

偽りの過去

しかしこの過程にはもっと厄介な場合もあり,それは,たとえば過去をありのままに見ることの拒絶に基づいていたり,それを隠してあたりさわりのないものにしようとする場合である。過去を振り返るこのモードが頂点に達するのは,「傾向的な」やり方で過去を描くことにおいてだけでなく,完全に偽って過去を描くことにおいてである。このことは,後知恵とそこから生み出されるナラティヴについてきわめて重要な事を示唆する。物語を完全に正しく語ることは不可能かもしれないが——ナラティヴな反省の解釈的性質がそれを妨げるのは明白だ——嘘をつくこと,つまり事実として知られていることをただ無視して過去の物語を語ることは,完全に可能である。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.72

つくり直す

私たちは自分史の中に始めからあったものを掘り出す考古学者でも,無から何かをつくり出す発明家でもない。詩人と同じように創作家であって,ナラティヴを通して,後知恵によって,人生という作品をつくり,そしてつくり直す。その仕方は,経験がその中に孕む潜在性,いつか解き放たれる潜在性を,後に起きることに応じてあれこれの方向に解き放すというものだ。この運動はさしあたり,完全に前向きでも後ろ向きでもなく,一種の詩的な形の螺旋運動,弁証法的に前後を行き来する運動であり,それは経験を理解するのに必要な想像力に発する。死が大声ではっきりと警告するように,「時計の針を戻すことはできない」。このように,時が前へ進むのは取り消せないというのはまったく正しい。これは先に私が時計時間として述べたことである。けれども,これも先に述べたことであるが,私たちは出来事がどれも同じ時の刻みに沿って次々と起こる時計時間だけでなく,ナラティヴ時間も生きている。あの家へのドライブが意味と重要性を得たことには納得がいく。娘が病気になるまでは見えなかった,私の父と娘との繋がりが私の心に生じたことも,腑に落ちる。意味はナラティヴな想像力から出ていて,そして意味とは,ひとえに,過去だけでなく自己そのものをもつくり,そしてつくり直すことの一部なのだと私は考えている。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.69

単純化と希薄化

ある部分,これは私たちが歴史を単純化しがちであり,しばしば歴史を希薄化する者ですらあるためであり,いたるところに罪があるとしたりどこにも罪がないとするのではなく,しばしばどこかに罪を着せるために関係する事実を無視するのである。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.42

反省

しかし現下における限界とは,時間的なもの,直接経験をしばしば特徴づける変わりやすさや不確定さだけではない。人間自身の限界,私が先刻述べた人間の近視眼性の働きでもある。これは道徳的領域で特にそうで,私たちはまず行動して後で考えがちだ。このように,今に対してはしばしばある種の「自閉性」が,つまり利己的な——時には自己中心的な——視野の欠如があると言えるかもしれない。後知恵を通して,つまり後知恵によって与えられる自己と今ここの自己との距離を通して,この自閉性を克服することができる。したがってナラティヴな反省の形を取った後知恵は,真実だけでなく善のための潜在的な手段であることがわかるのであり,ゆえに道徳生活を強め,深くする重要な役割をもつものと理解されねばならない。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.24

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]