1 プラスチック・ワードは高い抽象度を特徴とする。この抽象言語は見通しのきく均質的な領域をつくりだし,個物の独自性を視界から遠ざける。「情報社会への途上にあるドイツ連邦共和国」というわけだ。この言語は世界を均等にならしてプランナーの手に引きわたし,容赦なくあらゆるものを製版図での作業になじみやすくする。たしかに,数字はもっとも抽象的な技術である。
2 「コミュニケーション」のような語は,歴史的次元を欠いている。それはいかなる特定の場所にも社会にも埋めこまれてはいない。底が浅く味わいもない。こうしたことばは,自然の世界を自然科学の観点から記述する。それが侵入した世界からは歴史が追放され,人間的尺度が取り去られる。
比較のために,背後の環境と密接に結びついている言語の姿を思い描くことができる。中世のラテン語,口承文化における言語,1800年ごろのドイツの教養言語などがそれにあたる。これらの場合には,ことばは限られた地平の内部で用いられていたが,それでもなお,人間的な経験や認識を人間的次元に埋めこまれたものとして伝えることができたのである。
無定形なプラスチック・ワードは,言語をそのような拘束から解き放つ。プラスチック・ワードはいかなる特定の背景も呼び起こさない。なにしろ普遍的なのだ。プラスチック・ワードは生の歴史を自然のプロセスとみなし,あらゆるものは根本的に同じだと告げるのである。
歴史が物理学者の目で眺められ,物理学的「永遠」のなかではいつでもどこでも同じだとみなされると,このうえなく強力な推進力が歴史を駆りたてるようになるらしい。終わりなきプロセスのなかで,歴史はみずからの自然性を取り戻そうとするかのようである。
数学化はこうしたプロセスの根源に横たわる分母である。数学こそは,非歴史的で時間と空間にしばられない,普遍的な技術なのである。
3 わたしたちのキーワードは,輪郭のはっきりしたブロックのように用いられる。数で表される「量」をあつかうのと変わりはない。この「量」の威光があたりを圧するのだが,日常言語でさえ,多くのステレオタイプには量化可能な物質のイメージが結びついている。「エネルギー」「生産」「消費」だけではない。「情報」「コミュニケーション」でさえ,わたしたちの日常意識にとっては,数と統計の次元にあるように思いうかべられる。
4 プラスチック・ワードは,どんな順序に並べられても文を作りだす傾向をもつ。単語どうしはおどろくほど交換可能であって,それらをたがいに等号で結んで,方程式の連鎖のようにつなげることができるほどだ。たとえば,こんな風に。「コミュニケーションは交換である。交換は関係である。関係はプロセスである……」。
このように,プラスチック・ワードの可動性や,それらがたがいに結びつく能力にはほとんど限りがないように見えてくるし,それらを処理する可能性も終わりがないように見えてくるのである。
ウヴェ・ペルクゼン 糟谷啓介(訳) (2007). プラスチック・ワード:歴史を喪失したことばの蔓延 藤原書店 pp.195-197
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