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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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吟味された源泉

私は後知恵を実際よりも崇高なものにしようとはしていない。後知恵は歪曲の元になり得るし,実際しばしばそうである。またそれは利己的で自己防衛的な幻想の元となることがあるし,必要な人には慰めとなる作り話を生む。そして,特にサートウェルが気付かせてくれることだが,後知恵は結果としてナラティヴの牢獄を,つまり語ることに凝り固まったため生きることの妨げとなる自家製の囲いを作り上げることがある。しかしながら後知恵が吟味された唯一の主要な源泉であることに変わりない。吟味された人生が良いものと保証されるわけではないが,その機会を増やすことは確かである。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.6
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後知恵と道徳

筆者の人生において起きた出来事で,後知恵によってそれが起きたときとは非常に違って見えるたくさんのことを私は思い出すことができる。事の最中ではそのことの真実を全く確信しているか,あるいは私の立場が妥当なことを心から信じている——そして,もちろん他者の立場が妥当でないことも。そのように行動するしか選択肢がなかったと納得することもある。しかしその後,時が過ぎればそのことが全く違うように見える。展望する何らかの視点を得るなら,それに続くのは,あのときは絶対真実で正しいと思えたものが,完全な偽りや間違いであったということである。後知恵を通して私はある程度の洞察を得るだけでなく,道徳的成長へ向かう,小さくはあるが一歩を踏み出したのである。「道徳的」の語で私は,「良い」行為や「悪い」行為としばしば結びつけられるような特殊な経験の領域(つまり「道徳性」)のことを言っているだけでなく,いかに生きるべきかについての根本的な問題と関係する,より広範な経験の領域(しばしば「倫理」の題目で考察される)のことを言っている。したがって私の命題の第二はこうである。後知恵は道徳生活を形づくり,深めるのに不可欠な役割を演じる。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.3

悪質な歴史

心理学では「後知恵」の語にはしばしば「バイアス」の語が伴い,後知恵は「本当にあったこと」を歪める元凶の1つであると見なすのが適切だと広く考えられている。特に有害なのは悪名高い事後主張で,事が終わってから,「そんなことみんなわかっていたよ」と言い出す性癖のことである。後知恵的なバイアスが実際にあること,それは悪質な歴史という結果をもたらす可能性があることに疑いの余地はない。悪質な歴史とは,ある出来事に欺瞞的な意味や重要性を与えるように過去を描くことである。そのため心理学の文献で,後知恵は汚名を被っている。心理学という学問にとどまらず,特に瞑想や「マインドフルネス」やそれに類似した実践では,私たちの多くはどうしても過去や未来にとらわれ,この世界に気を配れないので,現在に,つまり今にもっと注意を向ける必要があるとされる。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.4

後知恵とナラティブ

さらにこのことが示唆するのは,後知恵は記憶についての何かだけでなくナラティヴについての何かでもあるということである。そしてさらに言いたいのは,人が時間を費やして自身の人生の物語を語っても語らなくても,そうだということである。ありそうな繋がりを見つけようと私が私の人生のある部分の経緯を振り返るとき,私は必然的にナラティヴの「筋書きづくり(emplotment)」をしている。「筋書きづくり」とは,過ぎ去った過去が新たに現れた全体の部分として,進行中の物語におけるエピソードとして,今わかるという経験である。したがって私の2つの命題のうちの最初のはこうである。自己理解が生じるのは,かなりの程度,それ自体が後知恵の産物であるナラティブな反省を通じてである。

マーク・フリーマン 鈴木聡志(訳) (2014). 後知恵:過去を振り返ることの希望と危うさ 新曜社 pp.2

光をともす

人類はフランシス・ベーコンが1603年に提起した大きな課題に取り組んできたのだ。「どれほど有益であっても,何かに役立つ発明」を行うのではなく,「自然に光をともす」ようベーコンは求めた。「いま人類がもつ知識の周囲にある境界部分のすべてに及び,それを照らしだすような光」をともすように。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.348

悲観論と思考放棄

悲観論をとなえるのは,賢明さを装いたい人にとってとくに便利な方法のひとつだ。そして,悲観的になる材料は山ほどある。だが,いつも悲観論をとなえていては,考えることを放棄する結果になる。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.330

戦略の柱ではない

輸出は日本にとってきわめて重要である。国内に食料とエネルギーの資源が不足しているので,輸入に依存しているからだ。輸入代金を支払うために輸出収入を必要としている。だが,輸出重視が行き過ぎている。その結果,日本は「きわめて効率的な輸出産業ときわめて非効率的な国内産業の混合になって,機能不全に陥っている」と,前述の外交問題評議会の報告書は指摘する。
 いまの世界で,これはとくに苦しい状況である。世界が変化したからだ。日本が輸出に頼って「奇跡」を起こしていたとき,韓国,台湾,マレーシアなどのアジア諸国は,世界市場での競争にほとんど参加していなかった。中国は無関係だった。いまでは輸出市場での競争は行き過ぎではないとしても,熾烈になっている。
 このため輸出は日本の将来にとっていまでも重要だが,戦略の柱にはなりえない。日本は輸出産業と変わらないほど先進的な国内経済を築いていかなければならない。成功をもたらした戦略に固執しているわけにはいかない。過去は過去なのだから。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.236-237

連続支払い

企業と顧客の間が無線でうまく結ばれ,電子的に支払いを行うようになると,電力会社やガス会社が連続支払いを求めるようになるかもしれない。コンピュータで使用量をつねに監視し,顧客の銀行口座からそのときそのときの料金を連続して引き落としていくことが可能になるだろう。企業は料金を素早く受け取れるようになり,資金をこれまでより早く投資するか使えるようになり,少なくとも理論的には料金を引き下げられるようになる。
 賃金の支払いを給料日まで待つのではなく,働いている時間に1分ごとに電子的に支払うよう勤労者のグループが要求する可能性もある。
 先進的な知識経済は定時型生産から1日24時間週7日の連続型活動に移行しているので,連続支払いへの移行はこれに付随する当然の動きである。そして賃金の受け取りと代金の支払いがどちらも即座に行われるようになっていくと,その結果は直接の現金取引に近づいていく。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.147-148

知識の陳腐化

これに対していまでは,知識は提供される前にすでに陳腐化しているといえるほどである。知識の対象はつねに拡大している。知識の源泉は増えつづけている。そして,知識は世界のどの地域で作られるか分からない。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.129-130

制度と価値観

価値観はさまざまな源泉から生まれる。だがどの社会でも,制度はそれを作った人の価値観を反映しており,制度につかえる人は制度の正当性を支える価値観を主張して,制度の存続をはかろうとする。既存の制度がいまのままの形では生き残れないのであれば,そうした制度が体現し主張する価値観や規範も生き残れない。価値観のある部分が衰え,新しい価値観が登場してくると予想しておくべきである。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.77

下位の専門分野

複雑さが急激に増していることを示すものとしては,多数の分野で下位の専門分野が増え,それをさらに細分化した下位の下位の専門分野が増えていることもあげられる。
 半世紀前,知識経済への移行がはじまる直前には,医療は十前後の専門分野に分かれていた。いまでは医療専門家は二百二十を超える分野に分かれていると,カイザー・パーマネンテのデビッド・ローレンス博士は語る。1970年代には医療専門家は年に百前後の臨床試験結果について知っておく必要があった。いまではこれが年に1万になっている。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.55

危機の関連

いうまでもなく,歴史をみれば,スキャンダルや失敗や危機はいくらでもある。今の時代になって急に現れたわけではない。だが現在,多数の国でつぎつぎに起こる危機は,これまでのものとは明らかに質的な違いがある。おそらく第二次世界大戦の最悪期を除けば,これほど多数の国で,これほど多数の制度が,これほど短期間に,これほどのペースで,つぎつぎに破綻したことはなかった。
 そして,これほど多数の制度の危機が密接に関連しあったことはなかった。現在では,強力なフィードバックの仕組みによって家族と教育と仕事と医療と年金と政治とマスコミが結びつけられ,これらのすべてが富の体制に影響を与えているのである。そして,再グローバル化のために,これらの危機が金融市場に与える影響が,かつてなかったほど短時間に,かつてなかったほど多数の国境を越えて波及している。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.38-39

変化の教え

変化の教えは既存の制度と秩序にとってとくに危険である。もともと右翼的でも左翼的でもないし,民主主義的でも独裁主義的でもないからだ。この教えが意味するのは,どの社会も,どの生活様式も,どのような信念すらも,本来一時的にすぎないということである。
 これはアダム・スミスやカール・マルクスのメッセージではない。フランス革命やアメリカ独立戦争のメッセージでもない。もっとも革新的な哲学者,ヘラクレイトスのメッセージである。ヘラクレイトスの有名な言葉が変化の教えを要約している。「同じ川に二度足を踏み入れることはできない。二度目には川が変化しているからだ」。すべては過程である。万物は流転する。
 ヘラクレイトスは要するに,歴史のなかでみれば,社会制度がすべてそうであるように,思想や宗教もすべて一時的なものだと主張したことになる。そしてこれこそ,アメリカが発している真のメッセージだ。そしてもっと深いレベルで,数十億人の睡眠を妨げ,悪夢をもたらしているのは,このメッセージなのだ。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 下 講談社 pp.23

独学の効果

独学とグルから学ぶ方法がとくに生産能力を高める点で効果的なのは,最先端の新技術を使うスキルを学ぶためのもので,有料の公式のコースがまだあまりない時期である。公教育の学校がパソコンを買い,新しい教科を開発し,カリキュラムを変更し,教師を訓練し,これらすべてのために資金を調達するのを待たなければパソコンの使い方が学べなかったとすると,パソコンが企業と経済全体に普及するのは,はるかに遅れていただろう。したがって,パソコンの初心者がとった行動は,ほんとうに生産能力を高めるものだった。自主的に知識を広め,遅れが出ないように近道を通って,金銭経済での技術の進歩を早めたのである。
 この大学習運動によって,富の基礎的条件の深部にある多数の要因との関係が変化した。時間を使う方法と時が変わった。仕事をする場所が変わり,空間との関係が変わった。社会の中の共通知識の性格が変わった。
 生産消費者は生産を行うだけではない。生産能力を高めてもいる。そして,明日の革命的な富の体制を成長させる一助になっているのである。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.367-368

分野をまたぐ

いまでは知識はきわめて多数の専門分野に分かれ,各専門分野がさらに多数の分野,下位分野に分かれているので,大学では何百もの科目を整然と分類しており,アル・ファーラービーの階層型に似た分類方法をとっている。学界での権威と予算配分という面で,たとえば自然科学は一段上に位置づけられており,社会科学は「ソフト」すぎるとされて,自然科学より下だとみられている。いまでは生物学にこの権威ある地位を奪われようとしている。社会科学の中では経済学が頂点に位置するとみられており,これは数学を駆使して,もっとも「ハード」で自然科学に近いからである(あるいは近いと主張しているからである)。しかし,この構造は自らの重みに耐えかねて崩壊しかねない状況にある。
 いまでは専門分野を超える知識を必要とする仕事が増えており,このため,宇宙生物学,生物物理学,環境工学,法会計学など,2分野にわたる専門知識が求められるようになってきた。なかにはニューロ心理薬理学のように,3分野にわたる専門知識が求められる仕事すらある。
 やがて,専門知識が求められる分野の数がどんどん増えていくのは明らかなように思える。知識がそのときの必要に応じて一時的で非階層型の形態へと組織化される結果,永久に続くとも思えた専門分野と階層構造すら消える可能性がある。そうなったとき,「知りうることの地図」は,いくつものパターンがたえず変化しながら点滅しているものになる。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.275-276

自己批判と科学

自己批判は自然科学の核心部分である。科学と科学者は一般人が批判できないものではないし,そうなってはならない。科学も社会的な活動のひとつであり,科学者の多くが考えている以上に,社会全体の考え方や真実の見分け方,常識に左右される。また,科学に関する規制を科学者だけに任せることもできない。科学者も他の人びとと同様に,自己利益で動く面があるからだ。
 だが,科学を攻撃するいまの動きは,個々ばらばらのものではない。自然科学の影響力を弱め,自然科学に対する信頼感をなくし,真実の主要な基準という地位から引きずり降ろそうとする一貫した動きなのである。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.261

「禁止」される研究

科学研究の成果の公表を差し止めるのは大きな問題だ。だがそれ以上に問題なのは,知識のうちある分野について,研究そのものをはじめから禁止しようとする動きがあることだ。科学者からすら,そうした主張があらわれており,主張を裏付けるために,この世の終わりがくるとのシナリオすら描いている。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.259

考え方を検証するプロセス

科学とは,事実を集めたものではない。科学とは,考え方を検証するプロセスである(混乱し,順序だっていないことも多いが)。科学の世界では,考え方は少なくとも原則的には検証可能でなければならない(間違いを立証できるものでなければならないという人もいるだろう)。検証にあたっては,観察を実験を行う。結果は再現性がなければならない。これらの基準を満たさない知識は,科学的ではない。
 それだけではない。科学の世界では,とりわけ説得力がある発見でも不完全な仮説でしかなく,その後に科学的に検証された発見があらわれれば,かならず見直され,改定され,否定されていく。
 このような性格から,科学は6つの基準のうち唯一,宗教や政治,民族や人種などに基づく狂信的な熱狂に反対する性格をもっている。迫害,テロ,異端審問,自爆攻撃などを生み出すのは,狂信的な信念である。そして科学は狂信的な信念を否定し,とくにしっかりと確立した科学研究の成果ですら,せいぜいのところ部分的で一時的な真実でしかないという認識を育む。
 この考え方,つまり科学的な知識は改善でき否定できるものでなければならず,改善されるか否定されていくべきものだという考え方のために,科学は一等地を抜くものになっている。この考え方のために,常識,一貫性,権威,啓示,時の試練などの他の基準とは違って,科学だけはみずから誤りを修正できる。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.240-241

大量の死知識

はっきりしている点がある。デジタル・データベースであれ,人の頭脳であれ,知識を蓄積しているところはどこでも,エミリーおばさんの屋根裏部屋ではないが,役に立たなくなった死知識が大量に詰まっているのである。事実や思想,理論,イメージ,理解など,かつては正しかったがいまでは変化に対応できなくなっているか,もっと正確だとされる新しい説によって時代遅れになったものが大量にある。死知識は,どの個人,企業,制度,社会にとっても,知識基盤のうちかなりの部分を占めている。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.214

知識が必要

いつの時代にも,富を生み出すにはかならず,知識が必要である。狩猟採集民族は,狩りをするにあたって,動物の移動パターンの知識を必要としていた。だが,こうした知識はいったん獲得すれば,何世代にもわたって役に立つのが通常であった。工場労働者は,機械を素早く安全に操作する方法を知っている必要があり,この知識は職についているかぎり役立った。
 現在では,仕事に必要な知識は急速に変化しているので,職場内と職場外で新しい知識を学ぶ必要が高まり続けている。学習は終わりのない継続的な過程になった。このため,考えている点の一部が馬鹿げていても,困惑する必要はないといえる。馬鹿げたことを信じているのは自分だけではないのだ。
 その理由はこうだ。知識のすべての部分に結局のところ,賞味期限がある。ある時点で,知識は古くなり,「死知識」とでも呼べるものになる。

アルビン・トフラー&ハイジ・トフラー (2006). 富の未来 上 講談社 pp.211

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