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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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安心感は必要か

人が言った言葉を,自分が知っている言葉に置き換えると,安心感が得られる。意味がわからない状態を脱して,なじみがある,理解できるところに引き寄せられるからだ。
 しかし,それではなんのためにわざわざ研究をしているのだろうか。意味がわからないけれど相手はそう言っているという言葉や,理解できなくて不安である状態に自分を置くことができないのなら,研究には向いていないかもしれない。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.79
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半分は調整

しかし,研究者の仕事の半分以上は,こうした調整なのだ。このような調整と実務が並行できなければ,将来にわたって研究の仕事をしていくことはむずかしい。このようなことにも,訓練が必要だ。
 調整が苦手な人に共通する考えは,「自分の都合はみんながわかっているはず」という非現実的な確信のように思われる。あなたの予定を,説明しないで人がわかっているわけがない。論文の提出期限を,誰もが配慮してくれるわけでもない。それに向かってすべてを調整するのは研究者自身であり,他人は誰もそれをしてくれない。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.65

「対象者が多すぎる」

筆者が博士論文を作成した当時は,大学院の学位論文としては量的研究が主流であった。その大学院で博士論文として認められるためには,質的研究方法を用いた場合でも,最低限30例の対象者数が必要であると指導を受けた。学位論文はその研究科で認められる必要があるので,筆者は30例のインタビューデータを収集・分析して,海外の学会で発表した。
 学会では,「30例の対象者数が本当に必要だったのか?」「理論的飽和との関連はどうだったのか」「30例のデータを分析しきることができたのか」と,対象者数が多すぎるという批判を受けて驚いた。
 データ収集には,研究対象者の協力が不可欠である。対象者の貴重な時間を費やしていただくのだ。なぜ,この対象者からデータを得ることが必要なのか,一例一例,その理由をもってデータ収集にあたっているかどうか,研究者自身が問い続けることが必要だろう。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.44-45

類義語の羅列

大学院生が質的研究をするとき,研究計画書の方法論の部分に,みな同じ文章をコピーしていることに気づく。「この研究は因子探索的,質的帰納的方法論を用いた記述的研究である」というものである。
 見覚えのある単語が並んでいて,一見,文章のように見える。しかしこれは,類義語の羅列に過ぎず,結局何も表していない。記号のようなものだ。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.37

「させられた」研究

指導者は,話の流れを整理したり,飛躍しているところを論理的に組み立て治す手助けをしたり,話を聞いた印象や感想を伝えることはできる。だが,最終的には,テーマは研究する人の口から,その人なりの表現をもって表現され,それが読む人に伝わるような形に書かれない限りは決まらない。指導者が,あまりの決まらなさに業を煮やして,勝手に研究テーマを決めたら,悲劇はそこから始まる。他人から「させられた」ことに対して,人は驚くほど受動的で,被害者意識を最後までもつ。指導者が勝手に決めたとしたら,その研究テーマは指導者のテーマであって,研究する人のものには,永遠にならない。

萱間真美 (2013). 質的研究のピットフォール:陥らないために/抜け出るために 医学書院 pp.25-26

謝辞について

謝辞。論文指導教員のほかに,誰かが口頭の助言とか,稀覯本の貸与とか,そのほかの援助をもって君を助けてくれたとしたら,論文の終わりとか冒頭において感謝の辞を挿しはさむのは良い習慣だ。それはまた,君があちこちの人びとに相談して,一生懸命にやっていることを示すのにも役立つ。指導教員に感謝するのは悪趣味だ。君を助けてくれたとしても,それは当然の義務を果たしただけなのだから。
 君の指導教員が憎悪し,忌み嫌い,侮蔑しているような研究者に対して,君が受けた恩義を表明したり,感謝したりする羽目になるかもしれない。すわ,学界の重大事件だ。だが,それは君のせいなのだ。君が指導教員を信頼していて,しかも彼が君にあの人物はまぬけだといったとすれば,君はその人物に相談すべきではなかった。または,君の指導教員が開放的な人であって,自分の学生が自分と意見を異にする典拠に訴えることをも容認するとしても,おそらく,この事実を論文審査の際に節度ある話題にすることはあるまい。あるいはまた,君の指導教員がむら気で,羨ましがり屋で,独断的な悪党であったとすれば,君はそういう気質の人物を指導教員にすべきではなかったのだ。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.220-221

全部書きつけたまえ

脳裏に浮かぶことを全部,だが初稿の間に限り,書きつけたまえ。後で気づくことだろう——君が誇張に引きづられてしまい,君のテーマの中心からそれたことを。そのときには,括弧部分や脱線箇所を切り捨てて,それらを注とか付録の中へ入れたまえ。論文というものは,君が知悉していることを証明するためではなく,当初に君が練り上げた仮説を証明するためのものなのだ。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.179

論文内の情報提供

むしろいうなれば,論文はたまたま論文指導教員とか(審査委員会の)ほかのメンバーだけに向けられている仕事であるとはいえ,実際には,ほかの多くの人びと—その学問には直接精通していない研究者たちからさえも,読まれたり,参照されたりすることを前提にしている仕事なのだ。
 それだから,哲学の論文では,哲学がいったい何であるのかを説明し始めることはもちろん必要ないであろうし,また火山学の論文では,火山がいったい何であるのかを説明する必要はない。だが,これほど明白なレヴェルに到達していなければ,即刻,読者に必要な情報をすべて提供するのがよいに決まっているだろう。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.172-173

初稿と最終稿

序説の最初の草稿と最終稿とはどの点で異なるのであろうか?それは君が最終稿では最初の草稿におけるよりもはるかに期待薄になっており,またより慎重になっているであろうという点である。最終序説の目標は読者をその論文に分け入るのを助けることにあろう。ただし,君が与えようともしないことを読者に期待させても無駄だ。
 よい序説の目標は,読者がその序説に満足し,すべてを把握し,もはや残りを読まないようにすることである。これは逆説的ではあるが,往々にして,印刷された本でのよい序説は,書評家に適切な見解を提供し,そして,その本について著者の望んでいたとおりのことを書評家に語らせるものである。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.136

単発性と多発性

人間には単発性の者と多発性の者とがいる。単発型人間は,一つのことだけをその都度,着手したり終えたりすると,仕事がはかどる。こういう人間は音楽を聴きながら読むことはできないし,ある小説を中断して他の小説を読むことができない。そんなことをすれば,話の筋道を見失ってしまうからだ。極端な場合には,ひげをそったり,化粧したりしている間は,質問に答えることもできない。
 多発型人間は全く逆である。こういう人間はさまざまな関心が一度に進行した場合に初めて,仕事がはかどる。そして,一つのことだけに没頭すると,退屈さに打ちのめされて,しょげ返る。単発型人間はよりきちょうめんだが,往々,空想力に乏しいことがある。多発型人間はより創造的だが,往々ずぼらで,気まぐれなことがある。しかし,偉人たちの伝記を調べにかかると,多発型の者も単発型の者もいたことが分かるであろう。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.130

本を用いること

しかしながら,本だけで,あるいは本に関してだけ,論文というものは作成できると決まっているのであろうか?すでに見てきたとおり,たとえば,迷路におけるつがいの鼠の行動を数カ月間観察したりして,野外調査を記録するような,実験に基づく論文というものもある。けれども,こういう型の論文については的確な助言を授けうる自信がない。それというのも,この場合には,方法は学問の種類によって決まるし,また,こういう研究者たちと接触があるから,本書のごときものを必要としないからだ。ただ私が知っている唯一のことは,すでに述べたとおり,こういう種類の論文でも,実験は先行の科学的文献に関しての議論の中に組み込まなければならないという点だ。したがって,この場合でもやはり,書物が話題にのぼることになる。
 社会学の論文でも,学位志願者が現実の状況と長期間,接して過ごさなければならないとすれば,同じことが生ずるだろう。この場合にも,せめて,同類の研究がすでに為されていないかどうかを知るためにも,書物が必要となるだろう。
 また最後に,書物についてあれこれ論ずるだけで作成されている論文もある。文学,哲学,科学史,教会法,形式論理学の論文は一般にそういうものである。イタリアの大学でも,殊に人文科学系の学部では大半がそうなっている。そのほか,北米の学生が文化人類学を研究する場合には,戸外にインディオたちがいるし,あるいは,コンゴで調査を行うための資金も見つかるものだが,それに反して,一般にイタリアの学生はフランツ・ボーアズの思想について論文を書くだけに甘んじているのが普通だ。もちろん,民俗学の立派な論文はいろいろあるし,わが国の現実を研究することによって練り上げれば,ますます立派なものとなるが,しかしこの場合でも,せめて,先行のフォークロア目録や資料的情報を調査するためにも,図書館の仕事が必ず加わってくるものだ。
 いずれにしろ,いわば,本書は自明な理由から,本に関しての,かつもっぱら本を用いての,大多数の論文を問題にしている。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.128-129

剽窃とは

対立的な兆候に神経質な態度をとる必要はないし,誰かが自分の論文のそれに近いテーマについて云々するたびごとに剽窃されたと思い込む必要もない。仮に,たとえば,ダーウィン進化論とラマルク説(用不用説)との関係について論文を書いたとする。その場合,批評文献を追跡していくと,他の人びとがそのテーマについてすでにいかに論じているかということや,すべての研究者が共有の考えがいかにたくさんあるかということに気づくであろう。だから,少し経ってから,指導教員や,その助手や,あるいは同僚が同一テーマに専念しても,才能を騙し取られたと邪推するには及ばない。
 学問的仕事の剽窃と見なされるべきものとしてはむしろ,所定の実験を行わなければ得られないような実験データーの使用。君の仕事以前には転写されたためしのない珍しい写本の筆写を横取りすること。君より以前には誰も収集したことのない統計データー——この典拠が挙げられていない場合にのみ,剽窃といえるのである(それというのも,論文はひとたび公にされるや,誰もがそれを引用する権利を持つからだ)——を活用すること。以前には翻訳されたことがないか,もしくは別の仕方で翻訳されるかしたテクストを,君が苦労して翻訳したのに,それを勝手に利用すること。こういう類のものである。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.56

不確実要素

けれども,次のようないくつかの欠点があるかも知れない。

 1.教員が自分のテーマにかかりきりになっていて,そのため,その方面に何らの関心もない学位志願者に無理強いする。かくして,学生はせっせと資料集めをして,他人にそれを解釈してもらうために働く助手と化す。彼の論文は平凡な結果に終わるだろうから,後で教員が決定的研究を仕上げる際,この収集した資料のうちいくつか断片を利用しても,その学生の名を引用することはなかろう。彼が教員に明確なアイデアをもたらしたわけではないのだから。
 2.教員がいかさまで,学生たちに作業させ,学位を与えておきながら,彼らの仕事をまるで自分のものであるかのように無遠慮にも活用する。場合によっては,ほとんど善意によるいかさまのこともある。つまり,教員が情熱をこめて論文指導に当たり,多くのアイデアを示唆してやり,そしていくらか経つと,自分が示唆してやったアイデアと,学生が持ち出したアイデアとがもはや見分けられない。同じくまた,あるテーマについて激しいグループ・ディスカッションをやった後では,どれが自分の起点アイデアで,どれが他人の刺激によって獲得したものなのか,もはや想い出せなくなるものだ。

 こういう欠点をどうやって回避するか?学生がある教員に接近するような場合には,すでに友人たちからその教員の噂を聞いているだろうし,以前の学位取得者たちとも接触もあったであろうし,その教員の清廉さについて見当をつけてしまっていることであろう。その教員の論著をいろいろ読んでいて,その教員が自分の協力者たちの仕事をよく引用するか否かをも承知していることだろう。残余のことに関しては,評判や信用という不確定な要素が左右するものである。


ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.55-56

厳しさが

むしろ,教員によっては,あまりに陳腐な領域に関して論文を書かないように勧告することがある。ところが,大衆大学の現況から,今では多数の教員は,厳しさを和らげてしまい,大変ものわかりがよくなっている嫌いがある。
 しかしながら,教員が息の長い研究をおこなっていて,そのためにたくさんのデーターを必要としており,そして学位志願者を作業グループの一員に使おうとしているといった,特殊な場合がある。つまり教員は一定数の年月の間,数々の論文を特別な方向に振り向けることになる。仮にその教員がある時期の産業の状況に関心を持つ経済学者であるとする。この場合,教員は個々具体的な方面に関する論文をいろいろと書かせて,自分の問題の完全な枠組みを打ち立てようと志すであろう。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.54

テーマの示唆

テーマを示唆するに当たり,教員は2つの異なった基準に従うことができる。熟知しているテーマ,弟子を容易に指導してやれるようなテーマを指示するか,それとも,十分には知らないテーマ,もっと知りたいと思っているテーマを指示するか,のいずれかである。
 はっきりさせておきたいことは,見かけとは異なって,この後者の基準の方が正当かつおおらかだという点である。教員はこういう論文を指導することにより,自らも固有の視界を拡大せざるを得なくなるだろうと思っている。それというのも,学位志願者の仕事を十分に判断し,彼の作業中に助けてやろうと欲すれば,当然,何か新しい事柄に従事しなければならないであろうからだ。通常,教員がこの後者の道を選ぶ場合には,学位志願者を信頼しているからであり,一般には,彼に対して,そのテーマが教員本人にとっても斬新で,これの掘り下げに興味を持っていることをはっきりと語るものである。


ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.54

不可分

こうしてみると,科学的論文と政治的論文との間に対立のないことが分かる。一面では,いかなる科学的研究でも,それが他の人びとの知識を発達させるのに寄与する限り,つねに肯定的な政治的価値をもつ(反対に,知識の進歩を妨げがちな行為はすべて否定的な政治的価値をもつ)といえるし,また他面では,成功の可能性のある政治的企てはすべて,科学的確実性の基盤をもたなければならない,とためらうことなくいえるのである。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.41

時間の節約

科学的手続きの重点は,それが他の人びとに決して時間を浪費させないという点にある。科学的仮説の跡を追って研究すること——それは,後でこの仮説に反駁せざるを得ないことを発見するためなのだが——もやはり,先行の提案に刺激されて何か有用な仕事をなしたというのと同じである。もしも私の論文の効用が労働者たちの間に反対情報的な別の経験を実現するように誰かを鼓舞する結果になれば(たとえ私の推測が無邪気なものであったにせよ),私は何らかの有用なことを達成したことになる。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.40-41

科学的論文と政治的論文

私が述べたことは,“科学的”論文と“政治的”論文との作為的な対置に関係があるのだ。不可欠な科学性の掟をすべて遵守しつつ,政治的論文を書くことができる。労働者集団における視覚的装置を介しての情報選択の経験をしたためた論文だってあり得よう。その論文が科学的であるためには,(1)それが私の体験を公然とかつ点検可能なように資料的裏づけを行っていること。(2)しかも,同じ結果を得るためであれ,あるいは私の結果が偶然的なものであって,実際には私の介入によるというよりも,私が考慮しなかった別の要因だったことを発見するためであれ,誰かが私の体験を追体験できること,この2点が条件となる。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.40

6ヵ月の論文

だが,6ヵ月の論文でも立派なものだって,確かにありうるのである。6ヵ月の論文の必要条件は次の3つである。
 1)テーマが限定されていること。
 2)ギリシャ人にまで遡る文献を探す必要がないように,テーマはできれば現代のものであること。または,ごく僅かしか書かれたことのない,周辺的なテーマであること。
 3)あらゆる種類の資料が,限られた地域でも自由に利用でき,たやすく調べられるものであること。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.26

3年以上かかるのは

3年以上でも,6ヵ月以下でもない,とことの始めにいっておく。3年以上でないわけは,仮に3年間研究してもテーマを絞ることができず,必要な資料収集もままならぬとなれば,それは次の3点を意味しうるにすぎないからだ。すなわち,
 1)選んだ論題が間違っていて,自分の力を超えたものだった。
 2)いつまでも言い足りないという不満が残るような類のもので,その論題の研究には引き続き20年も要するもの。しかし,有能な学生なら,限定(たとえささやかなものにしろ)を設けることができ,この限定内で何か決定的なものを産み出すことができなければならない。
 3)論文ノイローゼにかかった場合。それをうっちゃったり,やり直したり,実行不能と悟って,錯乱状態に陥ったり,論文を卑劣な振舞いの逃げ口上に持ち出したりする。これでは,学位取得はとても覚つかないだろう。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.23

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