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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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違法な助言

彼らの要求がこういうものであるとしたら,もしも嘆かわしい経済的問題を解決するために学位を取得せざるを得ないという,逆説的なさだめの犠牲になっているとしたら,彼らはまず次の2つのことをなすべきであろう。すなわち,
 (1)誰か他人に論文を作成してもらうために,相当額を投資する。(2)他の大学で数年前にすでに作成された論文をコピーする(たとえ外国語によるものであれ,すでに印刷された著作をコピーするのはよくない。なぜかといえば,教員がほとんど情報に通じていないにしても,それの存在していることをもう知っているに違いないからだ。けれども,カターニャで作成された論文をミラノでコピーすれば,うまくやりおおせるであろう。もちろん,論文の指導教員がミラノで教える以前にカターニャで教鞭をとったことがないかどうかを知る必要がある。したがって,論文をコピーするためにも,研究という知的作業が前提となるのである)。
 自明のとおり,今しがた与えた2つの助言は違法である。たとえてみれば,「負傷して救急病院にかけつけたのに,医者が診察しようとしなければ,医者の喉にナイフを突きつけろ」というようなものかもしれない。いずれの場合とも,絶望的好意である。筆者が逆説的な助言を行ったのも,本書の意図が,現存の社会構造やさだめのゆゆしい諸問題の解決にあるわけではないことを念押しするためなのだ。
 それだから,本書が相手にしているのは(金満家でもなく,また世界中を旅行した後で学位を取得するために10年の年月を自由にできないにしても)日々研究に何時間かを割けるだけの余裕があり,かつ,ある種の知的満足をもたらし,学位取得後も役立つような論文を準備したいと思っている人たちなのである。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.7-8
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寄せ集め式論文

寄せ集め式論文で学生が発揮することといえば,現存の“文献”,つまり,当のテーマについて発表された著作類の大部分を批判的に精査したこととか,それらを明瞭に説明することができたこととか,さまざまな観点を関連づけることによって,聡明な全景(パノラマ)を—こういう個別問題について深く研究したことのない,当該分野の専門家にとっても,情報の観点からはそれが有益な場合だってあるかもしれないから—提供しようとしたこととか,せいぜい以上のような諸点の実証が関の山だ。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.5

科学的成果

どうしてそんなに時間がかかるのか?それは独創的研究をしなければならず,そのためには,そのテーマについて他の研究者たちが述べたことを知らなければならないし,しかもとりわけ大事なことは,他人がまだいわなかったことを“発見”しなければならないからだ。“発見”とはいっても,特に人文科学にあっては,原子の核分裂の発見のような画期的出来事だとか,相対性理論とか,癌腫を治す新薬とかを想像しないでいただきたい。ささやかでも発見は発見なのだし,また実際,古典テクストを読んだり理解したりする新しい方法とか,ある作家の伝記に新しい光を投ずる肉筆原稿の割り出しとか,先行の諸研究の再編・読み替えによって,ほかのいろいろなテクスト中に散在していたもろもろのアイデアを円熟させ体系づけるような研究とかも,やはりそれなりに“科学的”成果と見なされるのである。いずれにせよ,研究者が産み出す著作は,理論上,当該分野のほかの研究者たちが,そこに何か新しいことが語られているために無視すべかざるようなものでなければならない。

ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.4-5

人間の位置づけ

アレックスが私たちに残してくれた一番大きな教訓は,自然界の中におけるホモ・サピエンスの位置づけについてのものだ。アレックスもその重要な一翼を担った動物認知研究の革命は,人間は自分たちが長らく思っていたほど特殊な存在ではないことを私たちに示した。私たちは,自然界の他の生物より優位ではないし,人間が自然界の中で特別な存在だという考え方は,もはや科学的に弁護できるものではない。私たち人間は自然界を超越した存在なのではなく,自然界の一部を構成する存在にすぎないのだ。そして,今までの“自然を超越している”という思い込みは,とても危険なものだった。その思い込みのせいで,人間は自然界のあらゆるもの——動物,植物,そして鉱物など——をいくら搾取しても何も不都合はないという幻想を抱くようになってしまった。そして,今になって貧困,飢餓,気候変動などといったたくさんの不都合が人間にはね返ってきているのだ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.286

政治的な権利?

このような考え方を受けて,「動物には心があるのだから,私たちと同じような権利を与えるべきだ」と主張する人たちも出てきた。しかし,それは行動主義の定説と同じくらい間違っている。ペットは,小さな人間ではなく,ヨウムであればヨウム,イヌであればイヌという独自の種だ。それでは,彼らを扱うときには優しさや気配りが必要ないかといえば,もちろん必要である。たとえば,ヨウムは知能が高いし,本来は群れで生活をする動物なので,常に相手にしてもらえるような環境が必要だ。このため,ヨウムのペットを一日中ひとりで留守番させておくのは残虐にほかならない。しかし,だからと言ってヨウムに政治的な権利が与えられるべきだということにはならない。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.285-286

試合中にゴールの位置を変える

要塞のように堅強だった人間の優位性を主張する考え方は,1980年代に入ると崩されはじめた。それまでは,道具を使うのは人間だけだと考えられていた。しかし,ジェーン・グドールは,研究していたチンパンジーたちが枝や葉を道具として使うことを発見した。そこで,「道具を作るのは人間だけ」だと人間の優位性を主張する人たちは言うようになった。ところが,グドールやその他の研究者たちが,こんどは動物も道具をつくることを発見した。すると,「人間だけが言語を使う」ということが強調されるようになった。しかし,これに対しても,人間の言語の要素を含むコミュニケーション様式を持つほ乳類がいることが明らかになった。このように,人間以外の動物が“人間に特有”だと思われていた能力を持っていることが示されるたびに,人間は他の生物よりも優等だという主張を守ろうとする人たちは定義を変更して対抗した。まるで試合中にゴールの位置を変えるかのようなやり方だ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.280-281

精神の序列

紀元前4世紀にアリストテレスが考案した自然観が,実質的には現代まで受け継がれている。彼は,“精神”の序列によってすべての生物と無生物を階層的に分類した。その一番上の階層,神々のすぐ下にいるとされたのが,人間だ。人間は,その優れた知能のために一番上に位置づけられた。より“下等”な動物たちは人間よりも下の階層に位置づけられ,そのさらに下には植物,そして一番下の階層には鉱物がいるとされた。アリストテレスのこの考え方は,ユダヤ教とキリスト教の教義にそのまま組み込まれ,生きとし生けるものと全地の支配権が神によって人間に与えられているという考え方のもとになった。このように,あらゆるものを“高等”から“下等”まで1本のモノサシの上に並べることができるとする自然観は,「存在の大いなる鎖(The Great Chain of Being)」と呼ばれることもある。そしてそのモノサシの上では,人間は神が創造したその他の生物と根本的に異質であるだけでなく,他の生物よりもはるかに優れた存在だとされる。
 生物は神が創造したままの形なのではなく,進化によって発展してきたのだというダーウィンの説が受け入れられても,その考え方が大きく変わることはなかった。存在の大いなる鎖は“神がつくった序列”から“進化の序列”に変わっただけで,進化の過程で生物はどんどん複雑になり,その究極の形として人間が現れたと考えられるようになった(ダーウィン自身はこのように言ってはいないのだが,他の人間中心主義的な学者たちが進化論をこのように解釈したのだ)。このことは,進化論が登場したあとも,人間は自然界の他の生物とは異質であり,優れているのだと考え続けられた(進化論的には,本来は進化の過程の中で他のすべての生物とつながっているはずなのに)。いずれにしても,つい最近まではほとんどの科学者が“人間は他の生物とは根本的に違う”ということを信じて疑わなかったのだ。ああ,ホモ・サピエンス,そなたはなんといううぬぼれ屋なのか。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.277-278

はるかに人間に似ている

科学的には,アレックスが私,そして私たち全員に教えてくれた一番大切なことは,動物の思考が,大部分の行動学者が考えていたよりもはるかに人間と似ているということだ。多くの行動学者は,そのことを受け入れるための心の準備すらできていなかった。ただし,だからといって動物と人間の心では,動物の認知能力は少しだけ劣るものの,違いがないということを私は言いたいのではない。たしかに,アレックスが研究室でいばりながら歩き回り,下々に命令を出す姿は小さなナポレオンのように見えることもあったが,それでも彼はやはり人間とは違った。しかし,科学の主流で長らく考えられてきたように,動物は思考を持たないオートマトンだというのも間違っている。むしろ,機械仕掛けのような単純な反応しかできないオートマトンとはほど遠い存在だ。アレックスは,私たちがいかに動物の心について無知で,どれだけ研究の余地が残っているのかということを教えてくれた。そして,彼が教えてくれたことは,哲学的にも,社会学的にも,また私たちの日常的な考え方に対してもとても深い意味を持つ。なぜなら,ホモ・サピエンスがどういう種なのか,自然界の中でどういう位置づけにあるのかというこれまでの考え方を大きく見直さなければならなくなったためだ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.275-276

脳の仕組みと知能

アレックスとの錯視の研究は,物体や分類の名称や数字の次に切り拓く新境地になると私は考えていた。進化上,鳥類とほ乳類は2億8000年前に枝分かれしたと考えられている。これだけ昔に枝分かれしたということは,脳の仕組みも根本的に違うことを意味するのだろうか?
 じつは,2005年にエリック・ジャーヴィスが共同研究者たちとまとめた画期的な論文が発表されるまでは,その通りだと考えられていた。ほ乳類の脳を見ると,大脳皮質が大きく発達し,脳溝(しわの部分)が縦横無尽に走っている。これに対して,鳥類には大脳皮質にあたる部分がない。このため,鳥は高度な認知能力を持てるはずがないというのが定説だった。いってみればこの定説との戦いだった。鳥類の脳に,物体や分類のラベル,“大小”の比較,それに“同じ”と“違う”の概念が理解できるはずなどないとされていたのだ。しかし,現にアレックスは理解できたのだ。このことは,動物の脳についてのある真実を示していると私は考えた。ほ乳類と鳥類の脳は構造が大きく違うことは確かだし,そのことによって能力に差が生じることも確かにあるのだが,どんな動物の種類でも“脳の仕組み”と“知能”には共通の特徴があるはずだ。言い換えれば,ポテンシャルは動物によって違うのだが,根本的な仕組みは同じだというのが私の主張だ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.262-263

「あの邪魔なトリ以外は」

マイケル・トマセロは,ドイツ・ライプチヒにあるマックス・プランク研究所に所属する霊長類学の第一人者であり,私の仲の良い友人でもある。彼は,言語などの人間の高度な認知機能がどのように進化したのかを解明する研究に取り組んでいる。彼が学会などで発表するとき,話しの終わり方がいつもおかしいので,私たち友人は楽しみにしている。彼の理論的な立場は,ほかの多くの心理学者もそうであるように,高度な認知機能は霊長類だけで進化したものだとする考え方だ。そして,彼は発表の結論でもたいてい「すべての研究データはこの考え方を裏付ける」との旨のことを断言する。しかし,その直後には“お手上げ”というジェスチャーをしながら「あの邪魔なトリ以外は」と付け加えるのだ。もちろん,アレックスのことだ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.253

言えることと理解すること

数字についての訓練を新たにはじめたのは2003年の秋だったが,その時点でアレックスは数字の「ワン(1)」から「シックス(6)」まで知っていた。しかし,おぼえた順番は番号順ではなかった。はじめにおぼえたのは,たとえば三角の木材を指す「スリー コーナー ウッド」の「3」と,四角い紙を指す「フォー コーナー ペーパー」の「4」だった。つぎにおぼえたのが「2」,続いて「5」と「6」,そして最後が「1」である。今度の訓練では,アレックスが数字の意味を本当に理解しているのかどうかを確かめることにした。3歳前の人間の子どもに4個のビー玉を見せ,「いくつ?」と聞くと,たいていの場合は正しく「4つ」と答えられる。しかし,ビー玉がたくさん入っている箱を差し出して同じ子どもに「ビー玉を4つ取ってちょうだい」とお願いしても,適当にわしづかみしたたくさんのビー玉を渡されるのがオチだ。言葉もそうだが,「言える」からといって「理解している」とは限らないのだ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.243

反感

また,マスコミへの露出が多いことに対しても反感を持たれていた。アレックスはテレビ,雑誌や新聞で特集されることが多く,そのために激しい嫉妬が私に向けられた。昇進が認められなかった翌年の1997年に,私は1年間の研究休暇をもらえることになっていた。グッゲンハイム財団から研究費を得ることもできたので,それまでアレックスと研究してきた20年間の成果を本にまとめることにした。のちにハーバード大学出版局から出た『アレックス・スタディ』である。私は,本をまとめる時間がたっぷり取れることと,大学でのしがらみから開放されることで,研究休暇をとても楽しみにしていた。しかし,私がそのタイミングで研究休暇を取ろうとしたことを,大学は気に入らなかったようだ。なんと,研究休暇を取りやめて生物学入門の講義を担当するようにまた言われてしまったのだ。もちろん,それも断った。
 トルストイに言わせれば,不幸な職場はどれもその不幸の中身は違うのかも知れない。しかし,私に言わせれば,不幸のパターンは一緒だ。職場の人と規則と状況の組み合わせが悪いと,どう転んでもポジティブな結果は出ないものだ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.204-205

特権の行使

アレックスはラベル(ものの名前)をおぼえ,言葉で要求する方法を知っていた。そのことによって,彼は自分のまわりの環境をコントロールすることができ(つまり,まわりの人たちを意のままに動かすことができ),彼はその能力を存分に行使した。アレックスの「研究室のボス」人格は,私たちがノースウェスタン大学にいたときに頭角をあらわし,トゥーソンに移った頃には完全に定着していた。学生たちはよく,自分たちが「アレックスの奴隷」だと冗談で言っていた。実際,つぎからつぎへと要求をして,学生たちを走り回らせていた。とくに,新入生に対しては容赦なかった。「コーン ホシイ」「ナッツ ホシイ」「カタ イキタイ」「ジム(体育館) イキタイ」など,延々と続くので自分の知っているラベルと要求をすべてぶつけているのではないかと思うほどだった。いわば,アレックスによる新入りに対するイニシエーションの儀式だ。かわいそうに,その学生はすべての要求に応えるため,必死で走り回らなければならなかった。そこでアレックスに認められないと,その後のアレックスの訓練や実験で相手にしてもらえないのだ。
 ひもで物体をたぐり寄せる実験でのアレックスの「失敗」は,彼の知能が低いせいではないことに私は気づいた。そうではなく,彼の特権意識,つまり「要求すれば聞いてもらえる」という認識のあらわれだったのだ。いつもはアーモンドをすぐ渡していたのに,ひもに結びつけてつるすなどといった余計なことをしたものだから,彼は自分で取らずに,私に取るように要求したのだ。そうでなければ,たぐり寄せるなんて面倒なことを彼はするはずもなかったのだ。これに対して,キョーが成功したのはなぜだろうか。実験を行なった時点では,キョーはまだラベルや要求をうまく言えなかったので,「人にやってもらう」という発想がなかったのだ。だから,キョーは自分の知能だけをたよりに欲しいものを入手するために努力したのだ。いっぽうのアレックスは,自分の特権を行使したのだ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.196

わざと

ときには,退屈していることを示すために,アレックスは私たちをからかうこともあった。たとえば,私たちが「鍵は何色?」と質問すると,彼は知っている色の名前をすべてあげるのだ——正解の色以外は。アレックスはこのゲームがだんだん達者になり,正解することよりも私たちをイラつかせることを楽しむようになっていった。統計学的には,偶然に正解以外を答え続けることは不可能に近いので,私たちは彼がわざとやっていたと確信していた。この例は「科学的」ではないが,アレックスの頭のなかで起きていたであろうことがよくわかる。つまり,かなり高度な認知過程が展開されていることがうかがえるのだ。彼が単に楽しいからやっていたのか,もしくはジョークだと認識して私たちを笑いのネタにしていたのかはわからない。いずれにしても,単に与えられた質問に答えていただけでないことはたしかである。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.143-144

アイム・ソーリー

アレックスはどのようにして「アイム・ソーリー」を使うようになったのか。研究費申請用紙の事件の何日か前に,私とアレックスは研究室でのんびりしていた。私はいすに座ってコーヒーを飲み,アレックスは部屋に作った止まり木で羽づくろいをしたり,満足そうな声を出したりしていた。私は,洗面所に行くときにコーヒーカップを止まり木の台座に置いた。戻ると,アレックスが床にこぼれたコーヒーの中でピチャピチャと歩き回っていた。まわりには,割れたカップの破片が散らかっていた。私は,アレックスがケガをしてしまうのではないかとパニックになり,「何をしたの!」と怒鳴ってしまった。冷静に考えると,おそらくアレックスが止まり木から飛び立ち,その弾みで台座のカップが床に落ちてしまったのだろう。単純な事故である。しかし私は,おろかなのは自分の方だと気づくまで怒鳴り続けてしまった。我に返り,アレックスがケガをしていないかどうかを確認するためにかがんだ。そしてこのときに私が「アイム・ソーリー……アイム・ソーリー」とアレックスに謝ったのだ。このことからアレックスは,誰かが怒って緊張した危険な場面をやわらげるために「アイム・ソーリー」が使われることを学んだのだろう。それを研究費申請用紙事件で私がバカみたいに怒鳴った場面で早速応用したのだ。まったく,どっちがバード・ブレインなのか。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.124-125

科学者どうしのコミュニケーション

「ちょっと待て!」と私は思った。科学には,たしかに論争がつきものだ。しかし,これはあまりにもひどい。ダイアナも,自分の大学に提出した会議への参加報告書に「会議から導かれる結論は,科学者と動物のコミュニケーションが成立するかどうか以前に,科学者どうしのコミュニケーションが成立するかどうかということを問わなければならない,ということだ」と書いた。そのときになって,『サイエンス』と『ネイチャー』の編集者たちがなぜ私の原稿を見ずに突き返したのか理解できた。彼らは,このような毒々しい批判がいずれ噴出することを予想していて,それに巻き込まれたくなかったのだ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.117-118

論争が絶えない

言語は,科学的にもそうだが,感情的にも論争の絶えないテーマだ。一部の科学者たち,そして一般人の中にも,言語は人間だけに与えられた神聖なものだという考えが根強い。そういう人たちにとっては,言語こそが「我々」(人間)と「彼ら」(それ以外の動物)を根本的に区別するものなのだ。また,これは専門家の間での話だが,「言語」をどのように定義するべきなのかという問題も長く論争が続いている。たとえば,野生生物は互いにコミュニケーションを取り合う例が多く知れらているし,多くの場合は音声でのコミュニケーションだが,これは言語の一種ではないのか?などといった議論をはじめると,泥沼にはまりかねない。ここでは単にこのような意見のぶつかり合いが激しくなっていた時期だったということを言いたかっただけなので,今はこれ以上詳しく書くことはやめておく。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.111

欠陥はどこに

そもそも,コミュニケーションというのは社会的な営みである。ならば,コミュニケーションを学習するプロセスも社会的な営みだと考えるのが当然だ。外界から遮断した箱の中に動物を入れてコミュニケーションを学習させようとしても,成功する訳がないと私は考えた。何人かの研究者が鳥でオペラント条件づけによる発話の訓練を試みたものの,無残に失敗していた。彼らは,訓練に失敗した原因は鳥の能力の欠陥だと主張した。しかし,私にしてみれば,欠陥があったのは彼らの理論的な前提と訓練方法だ。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.93-94

常識に反する

私がアレックスの訓練に使おうとしていた方法は,当時の定説から大きく外れていた。心理学の主流は,行動主義と呼ばれる立場だ。それによれば,動物は認知や思考の能力がほとんどないオートマトン(つまり機械仕掛けのようなもの)だとされる。当時の生物学はもう少しましだったが,それでも動物の行動は生まれつきプログラムされたものに過ぎず,認知・思考の能力はないとみなす説が大勢を占めた。こういう考え方が背景にあったため,動物で実験を行う場合には,とても厳密に実験条件を管理しなければならなかった。たとえば,実験前には,動物の体重がもとの80%に落ちるまで飢えさせなければならなかった。そうすることで,動物は食物を得ようと「正しく」反応する動機づけが生じると考えられていた。また,実験を行う際には,外界と遮断した箱に入れなければならなかった。これは,実験による「刺激」以外のことがらが動物に影響を与えないようにするのと,動物の反応を正確に記録するためだ。「オペラント条件づけ」と呼ばれる。訓練法である。私は,はっきり言ってこの方法は完全におかしいと思った。私が経験を通して培ってきた自然界の仕組みについての直観や常識にまったく反するものだった。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.92-93

発話獲得へ

訓練をはじめてからわずか数週間で,アレックスは明らかに特定の物体を指して発声できるようになっていた。それは,私たちを模倣していたのではなく,単なるオウム返しでもなかった。このことを示す最初のできごとが7月1日にあった。それまでアレックスを観察していて,とくにフルーツなど,くちばしが汚れやすいものを食べたあとに紙でふきたがることはわかっていた。そのため,くちばしをふくための紙を欲しがる状況をつくろうとして,ときどきリンゴを与えた。いつも,アレックスは何を言っているのか聞き取れないような声で紙を要求した。しかし,この日はリンゴをあげたあとに,紙を与えることを私が忘れてしまったのだ。彼は,いつもの居場所になっていたケージのてっぺんから,「オバサン,何か忘れているだろ?どうした?」と言いたげな表情で私を見た(この表情は,その後年数を重ねるにつれてどんどん鋭くなっていくことになる)。アレックスはケージの端まで面倒くさそうに歩き,索引カードのしまってある引き出しを見下ろし,「エー・アー」と言った。いずれにしても,前のような,本当に出そうとしていたのかどうか定かでない声ではなく,はっきりとした声だった。
 私は興奮をおさえながら,それが偶然に出た声でないことを確かめることにした。まず,「エー・アー」と最初に言ったことのごほうびとして,索引カードを与えた。それをアレックスはうれしそうにしばらくかじった。つぎに,私は索引カードをもう1枚取り出し「これ,何?」と聞いた。すると,アレックスはまた「エー・アー」と言った。私はまたアレックスにごほうびのカードをあげた。これを6回繰り返した。しかし,7回目にはアレックスは飽きてしまったようだ。返事をせず,彼の独特なしゃがれ声で小さく鳴きながら熱心に羽づくろいをはじめた。アレックスは,レッスンに疲れたことを伝えるのだけは最初からうまかった。

アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.86-87

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