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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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留学体験の意義

外国語でも教育を受けられるごく少数のエリートが大学で西洋の学問を吸収していた文明開化の後,輸入した学問を翻訳して比較的多数の学生に日本語で流布伝達する教育の時代が長く続きました。しかし,昨今の様に東大の研究が国際的に通用するレベルになればその成果は当然英語で発信されますし,研究で参照する文献資料も英語が圧倒的に多くなっています。留学生が増えると研究室での議論も英語で交わされるようになるため,教育でもそのまま英語を使う方が自然だ,という時代が再び訪れつつあります。
 一方で,海外に行かないと先端的な研究ができない,という内外格差もほぼなくなりました。東大の教員が海外渡航するのは,集中して研究に没頭したり本や論文を執筆したりするサバティカル(日常業務から解放された数ヶ月から1年程度の自由な期間)的な時間の確保がいまや主な理由です。国外に在留する大学生の数がOECD諸国の中ではアメリカについで日本は低い,という実体が内向きだと批判されていますが,勉強のためにわざわざ国外へ行く必要はないからだとも考えられます。日本で学べない教育を受けるための留学というよりは,留学体験自体に現在では意義があるのでしょう。

沖 大幹 (2014). 東大教授 新潮社 pp.26
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対処策

騙されたくなければ,われわれにできることがある。それは,それだけでは十分でないだろうが,出発点にはなるだろう。新鮮な,無添加の食べ物を買うのだ。信用できる者から買うのだ。もしその者が近くに住んでいれば,いっそうよい。そして自分で料理し,ちゃんとした食べ物の成分に精通するのだ。偽物を出された時に本物との違いがわかり,自信をもって苦情を言うことができるように。とりわけ,自分の感覚を信じるのだ。人は,自分で考える以上に物を知っているのだ。良質のチョコレートを割る時のピシっという音を聞くのだ。本当に新鮮な魚の輝きを見るのだ。新鮮なシナモン・スティックの甘さを味わうのだ。本当のバスマティ米の芳しい匂いを嗅ぐのだ。目を覚まし,コーヒーの香りを嗅ぐのだ。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.406-407

鶏の変化

2004年,牛肉に比べて低脂肪で「健康的」な肉と思われてきた鶏は,飼育方法が変わったせいで,35年前より3倍近く脂肪が増えていることがわかった。ロンドン・メトロポリタン大学の脳化学・人間栄養学研究所の脂肪専門家マイケル・クロフォード教授は,体に良いと信じて今の鶏を買う消費者は「すっかり騙されている」と言った。1870年代に記録が取られるようになって以来,ロースト・チキンの脂肪の含有量は初めて蛋白質の含有量を上回った。チキンの「蛋白質からのカロリーの6倍のカロリーが脂肪から摂取される」と,クロフォード教授は書いている。それは,油をぽたぽた掛けることもなしに,チキンをレモンと塩であっさりと焼いた場合でさえ,そうだった。1970年,チキンは百グラムあたり8.6グラムの脂肪を含んでいた。今では,平均的なスーパーマーケットのチキンはなんと22.8グラムの脂肪を含んでいる。ロースト・チキンの脚1本はビッグマック1個以上の脂肪を含んでいるのだ。現在,英国人は1人あたり年に30キロ近くのチキンを食べている。1970年代の2倍以上である。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.378-379

サフランの欺瞞

サフランの混ぜ物工作は,本書で扱われている最も古い詐術の1つである。なぜなら,本物は作るのに非常な労力を要するからだ。1ポンドのスパイスを作るのに,20万本ものサフランの花の雌蘂の先端の柱頭を必要とする。サフランは常に珍重され,高価だったので,いつも偽物が作られた。14世紀のニュルンベルクでは,サフランの混ぜ物工作が非常に広がっていたので,市はサフランを検査するための特別な法律を作った。その法律を破った者はロッホ,すなわちニュルンベルク監獄の土牢の底の一番深い穴に投げ込まれた。しかし欺瞞は続いた。商人はいくらかのオレンジ色がかった金色のマリーゴールドの花弁を混ぜたり,サフランを蜂蜜に漬けて重さを増したりした。
 われわれの知るかぎり,サフランの欺瞞は今でも広く行われている。多くの観光客はマラケシュやイスタンブールに旅行し,なんとも安い「サフラン」の袋を買うが,家に持って帰ると,それが欝金と食品着色剤を混ぜたものなのに気づく。自分が買ったサフランが本物かどうかを知る簡単なテスト法がある。科学的な技術は必要ない。サフランを一撮み,湯を入れたコップに入れる。黒っぽい色が拡散するのに数分かかれば,それは本物である。だが,すぐ湯が黄色くなれば,それは偽物で,騙されたのだ。悲しいことながら,そのテストをする時には手遅れだろう。それを買ったところから飛行機で帰ってきたのだから。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.353

ドネル・ケバブ・マフィア

食品に関する恐ろしい話には事欠かない。2006年9月,ドイツで肉の卸売り業者が自殺した。ドイツの屋台でドネル・ケバブとして売られることになっていた120トンの「腐敗した」肉を警察が押収したあとで。ミュンヘンの警察は「ドネル・ケバブ・マフィア」が欺瞞工作をしていると語った。マフィアは販売期間最終日付をとうに過ぎた肉を再利用したのである。2004年,いわゆる「サリー州カレー」スキャンダルが起こった。分析官は英国中のカレー店で売られている。チキン・ティッカ・マサラの中に,「違法で危険性のある」レベルの食品着色剤が入っているのを発見した。(それに対して『サン』紙は「われらのティッカを奪うな」と応じた。まるで,カレーをもっと健康的なものにしようとするのは大きなお世話だとでもいうように)。しかし,そういうことが起こるのは,単に安売りのファストフードの店だけではない。日常的な欺瞞は,世界で最も高いレストランでさえも起こる。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.350

その効果は同じ

そういうことを言っているのは化学者であるのを忘れてはいけない。化学的に言えば,自然食品の自然の風味は,化学的に合成された風味と違ってはいない。バニリンを例に採ろう。1873年,ドイツの科学者W.ハールマンは,バニラの成分の中で最も濃い味のものの1つである,バニリンを分離するのに成功した。C8HbO3(4-ヘドロキシ-3-メトキシ-ベンズアルデヒド)である。その化学物質は,いったん分離されると再現することもできた。別のドイツの科学者カール・ライマーは,バニリンはグアヤコールから合成することができるのを発見した。グアヤコールはクレオソートから誘導した一種の黄みがかった芳香性の油である。今日では何千トンものバニリンが,通常,亜塩酸塩の廃液から作られている。フレイヴァリストにとっては,そのことについて神経質になるのは間違いだろう。バニリンはバニリンでバニリンである。それがマダガスカル島に生える蘭に似た美しい植物の湾曲した鞘から採ったものであろうと,産業廃棄物から採ったものであろうと。その効果は同じだろうから。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.324

合成調味料

1970年代の調味料産業の業界の広告に,自然食品をあからさまに軽蔑している多くの文言が使ってある——自然食品はフレイヴァリストの試験官の中で生まれた奇跡に比べれば,ひどく汚らしく,ひどく高価で,どうしようもないほどに信頼性に欠ける。「ダーキー社は気まぐれなトマトを改良します」と,ある広告は自慢した。自然食品と対照的に,合成調味料の食品は「比較的安定した価格,質のばらつきのなさ,恒常的入手可能性」を約束した。「われらが死せる親愛なるキイチゴを追悼して」という文句が,1975年のホワイト・スティーヴンソン社の調味料の広告に使われた。本物のキイチゴがガラスの柩の中で死んでいる。「でも,心配御無用」と陽気な調子の広告の文句は続く。「キイチゴは新しい<エッセンス>と<ナトゥラ>の中に依然として生きています。これらの製品は驚くべき正確さで,キイチゴのものであった風味を捉えています」。フレイヴァリストはキイチゴに執着していたように見える。1970年代の別の広告,バーネット&フォスター社の広告には,白衣の科学者が巨大なプラスティック製のキイチゴを,コンパスを使って測っている姿が載っている。まるで,その捉えがたい風味を不朽の公式にしてしまおうとするかのように。
 現実には,キイチゴはすべて,それぞれ違う味がする。それが楽しいのだ。熟れ過ぎずに汁が溢れるほどの本当に甘いキイチゴは,ほかにがっかりするようなキイチゴがあるのを知っているから,いっそう旨いのだ。黴臭いもの,酸っぱいもの,固くて貧弱で種の多いものがあるのを。しかしフレイヴァリストは,そうは見ない。調味料について書かれた最近のある教科書には,「普通の栽培されたキイチゴ」は「ひどく水っぽくて酸っぱい」味がすることが多いという不満が書かれている。一方,キイチゴ風味の調味料は,最も芳しい熟れたキイチゴの粋で,「甘美で,新鮮で,フルーティーで,緑で,花のようで,菫に似た香りがし,草の種と森を思わせる」。キイチゴの調味料を分析すると,基本的なものは次の通りである。菫の花の香りを出すには,アルファおよびベータ・イオノンを混ぜる。フルーティーなキイチゴのコクを出すには,1-(4-ヒドロキシフェニル)ブタン2-1を少し入れる。新鮮な緑の「最高音」を出すには,少量の(Z)-3-ヘクサナルを使う。もし,ジャムのような質にしたければ,2-5ジメチル-4ヒロドキシ-フラン-3(2H)をほんの少し使えばよい。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.320-321

ノン・フーズの台頭

安全性の問題は別にして,戦後のダイエット食品の最も興味深い面は,代用食品が消費者の望むものにいとも簡単に変貌したということである。ダイエット食品は,人間に栄養を与えるという,たべものの最も基本的な特性の1つに背いているのだが,いわばあまりに威丈高にそうしているので,人類を救っているのだと人は思ってしまう。科学者たちは,人が太ることなく,「楽しく,興味を抱いて」食べることのできる「ノン・フーズ」——「生理学的に無価値なことが保証されている,魅力的な食べ物」——を創り上げたことを自慢した。1968年,ゼネラル・フーズ社は人工果物と人工野菜を作る特許を取得した。それは,「食べられる,パリパリした,噛める,アルギン酸カルシウム・ゲルの不均一の集塊」から作られた。それは本物の野菜のように噛むとバリバリ音がするだろうが,食品価値にはまったく欠けている。もう1つのノン・フーズは合成サクランボで,サクランボ色をしたアルギン酸ナトリウムの溶液をカルシウム塩の溶液器の中に垂らして作られた。時間が経つと,サクランボに似た小さな雫状のものが一緒になってゲル化するのだ。こうした合成サクランボには,オーブンの熱に影響を受けないという「利点」があった。1970年までには,合成サクランボは合衆国,オーストラリア,オランダ,フランス,イタリア,スイス,フィンランドで売り出され,成功を収めた。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.310

過剰摂取

1957年,スコットランドの保健省は,深刻な状況——発育不全,嘔吐,衰弱——が多数の幼児と子供に出たという騒ぎがあったことを報告した。何人かは死亡した。原因は食べ物の中のビタミンDのレベルが高すぎたことだった。非常に大勢の子供が,ビタミン過剰症に罹っていた。体内の過剰なビタミンDはカルシウム過多を引き起こし,その結果,骨,柔組織,腎臓が損なわれる。保健省が介入し,子どもが摂取するビタミンDのレベルを下げさせた。その結果,騒ぎは下火になった。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.298

栄養強化の歴史

食品の栄養を強化するという考えは1830年代初めにまで遡る。甲状腺ホルモンの異常分泌によって首がグロテスクに腫れる甲状腺腫は,多くの地域の共通の問題だった。それは一種の精神病であるクレチン病になることがあった。甲状腺腫が非常に流行っている地域は土壌に沃素が欠けていることがわかった。沃素を食べ物に加えると,甲状腺腫もクレチン病も生じなかった。したがって,あるフランスの化学者はすべての食卓塩に沃素を加えることを提唱した。判で押したように塩を沃素で強化するというやり方は,1900年代初めからヨーロッパに広まった。そして豊かな西欧では,甲状腺腫は徐々に忘れられた病気になった。しかし,食卓塩のすべてに沃素が入っているわけではないパキスタンでは,何百万という人間が沃素の欠乏で,いまだに甲状腺腫に罹るおそれがある。
 それは,初期の栄養強化の特殊なケースだった。もっと一般的な栄養強化は,1940年代にやっと始まったのだ。国民が食べ物から十分な栄養を摂っていないのを,戦時の政府が極度に恐れたせいだ。健康にとって非常に重要な微量元素であるビタミンについての知識は,1897年にオランダの病理学者クリスティアン・アイクマン(1858〜1930)が,チアミンが含まれている研がない米を食べると脚気に罹らないことを発見して以来,次第に増えてきた。20世紀が経つにつれ,新しいビタミンやミネラルが次々に誕生し,もてはやされた。1900年代には,それは佝僂病を治す魚油だった1920年代には,それはカルシウムとビタミンAだった。その結果専門家は,大量の牛乳を飲み,青物をたらふく食べることを推奨した。それはまた,カルシウムの吸収を助け,佝僂病を防ぐために,牛乳にビタミンDを加えることにもなった。次にビタミンCとビタミンGが現れた(後者はのちにリボフラビンと改称された)。1940年,合衆国では再びチアミンの出番になり,ヒトラーに対する戦いに貢献する「士気昂揚ビタミン」として知られるようになった。副大統領のヘンリー・ウォレスは,食事にチアミンその他のビタミンB群を加えることは,「人生を計り知れぬほど生き甲斐のあるものにする」とまで言った。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.295-296

ナチス政権の代用品

ナチ体制は新しさを売り物にしていたが,相も変わらぬ昔ながらの奇妙な代用品を提供した。新しかったのはプロパガンダだけで,それはナンセンスの極みに達した。ある時ナチは,レモンが払底してしまったので,大黄で代用すると発表した。共に酸っぱいということ以外,レモンと大黄の共通点を見出すのは難しい。魚の身の上に大黄の茎を絞って汁を出すなどということはできない。また,大黄の薄切りを飲み物の中に入れることもできない。大黄からレモネードを作ることもできない。皮を使うこともできない。大黄に皮はないからだ。その点になれば,どうやっても大黄をレモンの代わりに使うことなどはできないのだ。そんなことにはお構いなく,ナチの広報機関はレモンを大黄で代用したのは大成功だと公言した。なぜなら,レモンは輸入品だが大黄はそうではないからだ。「ドイツの土を通してのみ最良の霊気は血に伝えられる……したがって,われらはレモンに別れを告げる,われらは汝を必要とせず。ドイツ産大黄は汝に完全に取って代わるであろう」。このように代用食品に頼り続けたということは,ヒトラーのドイツが第一次世界大戦の惨禍から回復していなかったことを如実に示している。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.274

蜂蜜の欺瞞工作

アメリカでとうもろこしから作られた葡萄糖は,マーガリン同様,比較的新しく出現したもので,多くの者は,マーガリンの場合と同じように,不気味な新案物として非難した。ジョージ・エインジェルは,葡萄糖は「この数年のあいだに途方もない大きさになった恐るべき巨人」だと毒づいた。規模の問題は否定のしようもなかった。1870年代までには,葡萄糖は200万ドル産業になっていた。しかしエインジェルは,葡萄糖は健康に良くないとも主張した。その点はさほどはっきりしていなかった。ワイリー自身,葡萄糖に対して複雑な気持ちを抱いていた。彼は葡萄糖を本質的には健全な国内産だとして歓迎し,1881年,『月刊ポピュラー・サイエンス』に次のように書いた。「いまやアメリカの新しい王であるトウモロコシは,必要不可欠ではないウイスキーだけではなく,パン,肉,砂糖をも供給してくれる」。他方,彼はさまざまな砂糖を分析した結果,葡萄糖がそれ自体としてではなく,混ぜ物として広く使われているのを知った。彼は1881年に書いた上述の記事の中で,蜂蜜の例を挙げている。当時の液状の「蜂蜜」の多くは,実際には巧妙に偽装した葡萄糖で,蜂蜜本来の匂いを出すために,ほんの少し本物を加えてあった。ワイリーは,偽蜂蜜の製造者が欺瞞を隠すのに非常に骨を折っているのを知った。ときおり彼らは,葡萄糖の不自然な清潔さで正体がばれぬよう,「欺瞞工作のために蜜蜂の羽,脚等の残骸」を入れさえした。恥知らずの欺瞞者たちは,人口の蜂の巣を作り,それを葡萄糖で満たし,巣室にパラフィンで蓋をした。ワイリーの書いたその記事に従えば,「ある創意に富むヤンキーは」この邪なやり方で特許を取ろうとさえした。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.223-224

マーガリンへの敵意

アメリカ人が当初マーガリンに敵意を抱いていたのは,マーガリンが発明された時の状況に原因がある。1886年,上院議員のパーマーは,マーガリンは1870年のパリの包囲の時に生まれたと,けちをつけた。「家庭のペットが食べ物として市場で売られた」困窮の年に。実際にはマーガリンはその前年,1869年に特許を与えられた。1860年代には,ヨーロッパでは食用の脂肪が不足していた。ナポレオン3世はバターの代わりになる安いものを探した。フランスの化学者イポリート・メージュ=ムーリエ(1817〜80)が,その答え——牛脂を乳状化する新しい方法——を見つけた。最初彼は,牛脂を牛の刻んだ胃袋と一緒に「蒸解」して油にした。次にその油を牛の刻んだ乳房と,それに加えいくらかの重曹と一緒に乳状化した。メージュ=ムーリエは,その結果できた牛の脂肪のペーストは非常に貴重で,鮮やかな乳白光を発していたので,それをギリシア語の真珠(margaron)にちなんでオレオマーガリンと名付けた(「オレオ」は「油」の意)。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.213-214

目の前で搾ってくれ

19世紀中葉には,ロンドンの牛乳の半分,もしくは4分の3は混ぜ物入りだった。まず,水で薄められた(しばしば,汚染された水で)。次に,青っぽい色を誤魔化すために小麦粉で濃くし,人参ジュースで甘味を付け,黄色の染料で色付けをした。業務用の染料は,「銀の牛乳缶(シルヴァー・チャーン)」あるいは「桜草色素(カウスリップ・カラリング)」という,いかにも健全なイメージを与える名称で売られていた。夏に牛乳が腐るのを防ぐため,「プリザーヴィタス」や「アークティナカス」という名の化学物質が添加されることが多かった。そうした化学物質は特に危険で,牛乳の腐敗を止めるのではなく覆い隠すだけで,消費者を騙し,新鮮なものを飲んでいるのだと思わせた。「化学物質をたっぷり入れた,4日経った牛乳は,理想的な乳児食とはとても言えなかった」と,ある歴史家は書いている。牛を自分の家の戸口まで連れてきて,目の前で乳を搾ってくれと頼んだ消費者もいたというのも不思議ではない。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.200-201

残滓牛乳事件

残滓牛乳事件は,幼児の死亡率が高いという,当時の社会の大きな不名誉の一部だった。1870年から1900年まで,アメリカにおける3人の死者ごとの1人は5歳以下の子供だった。幼児の死亡者の38パーセントから51パーセントが感染症だった。そのうちの半分は下痢の感染症で,粗悪な牛乳を飲んだことに,とりわけ関連していた。下痢による死亡者の数は,牛乳(すでに汚染されている場合が多かったが)の中のバクテリアが急速に増えた7月と8月にピークに達した。幼児の高い死亡率の原因について,多くの説がある。貧困,教育の不足,人口過密,下水の不備。1909年,ある医師は,「不潔なおしゃぶり,厚着,ピクルス」が原因ではないかと言った。しかし,重要な要因は粗悪な牛乳だった。赤ん坊を死なせた原因は貧困自体ではなく,貧しい母親が安くて質の悪い牛乳を騙されて買うことだった。幼児の死亡率が20世紀の最初の20年間についに下がったのは,牛乳がやっと衛生的なものになった直接の結果だった。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.199-200

悪魔の食品

アメリカの食べ物は,英国の食べ物が19世紀に粗悪になったのと同じように,急速に質が落ちた。どちらの場合も理由は非常に似ていた。アメリカはほぼ完全な農業社会から工業国についに変わりつつあった。大規模産業が発達すると共に新しい技術が生まれた——食べ物に手を加える新しい手段と,それを国内で売る新しく強力な市場が出現したのだ。1870年代に,大手の製造業者は産業化学者を雇って,欺瞞の新しい補助手段——脱臭剤,染料,香味料,ふにゃりとした食品をパリパリしたものにする材料,固い食品を柔らかくする材料——を考え出した。その結果,消費者は自分の食べているものがなんなのか,さっぱりわからなくなった。1880年代までには,「食料供給の全システムが違った様相を呈するようになり」,次第に都市化してきた大衆は安くて新しい加工食品をしきりに求めた。1892年,事態が非常に悪化したので,上院議員のアルジャノン・S・パドックは「悪魔がこの国の食品を牛耳っている」と嘆いた。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.194

水の汚染

下水が水道に染み込むということは,「飲料」水が「死んだものであれ生きているものであれ,有機物,動物,植物でひどく汚染」されているのを意味していた。『ランセット』の報告に載っている銅版画は,その汚染を不快なほど微細に図解していた。1850年,ハッサルは胸が悪くなるような微生物の多色の挿図付きの本,『ロンドンおよび郊外の住民に供給されている水の顕微鏡検査』(1850)を出版した。『パンチ』はハッサルの挿図を誇張した漫画を載せた。「ロンドンの水の1滴」は,頭蓋骨,亀,人間そっくりの微生物,墓石で満ち溢れている。実のところ,それは真実から遠く離れてはいなかった。例えばハッサルは,ウェスト・ミドルセックスの水が,下水から流れ込んできた藻と菌のほかに,無数の小さな蟹のような生物(切甲類)で汚染されているのを発見した。わが社の水は「四季を通じて透明で純粋」だと水道会社は謳っていたにもかかわらず。ハッサルが指摘したように,水の汚染の問題は単にそれだけにとどまらず,混ぜ物工作においても問題だった。「なぜなら,牛乳,ビール,蒸留酒の場合,ロンドンでもっぱら使われる混ぜ物がテムズ川,またはその他の不純な水だからだ」。人は生水を飲むのを避けるほど用心深くとも,水で薄めたビールを飲めば,やはり汚染された水を飲むことになった。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.167-168

衛生

1850年までには,「衛生的」であるということが最も望ましいことになった。そのことは,ワクリーがハッサルとの共同事業に付けた名前——分析衛生委員会——に反映している。ハッサルが公表した,混ぜ物をした飲食物に関するどの報告も,そのぎこちない名称のもとに載った。『ランセット』は最初の報告を載せる前に,重々しい声明を出した。「汚染されていない空気,純粋な水こそがいまや,健康な生活の維持に欠かせないものと広く認められている。その目的のためにわれわれは,医療委員会と下水道委員会を設置した」。混ぜ物工作一掃に取り組むのが次の段階なのは言うまでもなかった。『ランセット』は,「この偉大な首都とその周辺の住民に供給されている,さまざまな食品の現在の状態について,広範囲に及ぶ,いささか精力的な一連の調査を行う」つもりだと書いた。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.166-167

ランセット

ハッサルの顕微鏡が物議を醸す頃までには,トマス・ワクリー(1795〜1862)は数十年間,英国の食品を改良する道を探っていた。「生涯にわたる急進論者」だった彼は,医者としての前途洋洋たる人生が,ある奇妙な身辺の噂で絶たれたあと,医学週刊誌『ランセット』を創刊した。1821年8月,当時若くして結婚早々の外科医だったワクリーは,自宅で何者かに襲われ,家は焼失した。保険会社は彼が放火したと言い立てた。なぜなら,家に高額の保険がかけられていたからだ。一方,その年の8月以前に絞首刑に処された5人の政治的過激主義者の死体の首を切断した外科医はワクリーだという,もう1つの噂が流れた。現在わかっている限り,どちらの噂にも根拠はない。1821年,ワクリーは自分を放火犯にした保険会社を訴えて裁判に勝ち,保証金の全額を受け取った。しかし彼は,妻同様,その経験で動揺し,新しい方向に進むことにした。
 「ランセット」という言葉は,ワクリーも知っていたように複数の意味を持っていた。最も知られていたのは,それが医療器具であるということだ。一種の外科用メスだが両刃で,切開をするのに使われた——ちょうど,『ランセット』が理不尽と病気の両方を摘出しようとしていたように。さほど知られていなかったのは,それが建築用語としての意味も持っているということだ。ランセットはゴシック建築のアーチ形の窓で,光を採り入れるように設計されていた。そもそもの初めから,『ランセット』は批判と同時に啓蒙を目的にしていた。ワクリーは,ある事実を正しい形で公表することは良い結果を産むと固く信じ,自分の週刊誌を狭い医学界の読者向けではなく,一般大衆向けのものにしようとした。健康に対する彼の考えは社会的なもので,単に個人的なものではなかった。『ランセット』は,病院が自らの統計を公表し,医学団体がもっと開かれた,もっと専門職の民主的なものになるよう運動した。そして,健康のあらゆる敵——偽医者,無能な医者,不十分な貧民救済制度,軍隊における残酷な体罰制度——を攻撃した。ワクリーは最も広い意味での公衆の健康のために論陣を張った——そして,それは必然的に,混ぜ物工作が施された食品に対する正面攻撃になっていった。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.161-162

菓子で中毒

驚くには当たらないが,英国の新聞には菓子で中毒したという記事が頻繁に載った。1847年9月,3人の大人と8人の子供がメリルボーン救貧院に運ばれた。「色付きの菓子をいくつか食べた後で嘔吐と吐き気に襲われた」のだ。翌年,『ノーサンプトン・ヘラルド』は,数人がおおやけの宴会で,デザートのブラマンジェの彩りに添えられた緑の砂糖をまぶしたキュウリの飾りを食べて中毒になったと報じた。その後,1人が死んだ。その翌年,マールボロの数人の子供が,「立派なケーキ」と,飾りの「フクシアを模して甘いパスタで作られた緑の花」を食べたあとで猛烈な吐き気に襲われた。あるフランスの科学者は,英国では毎年毒入り菓子を食べて何人かの子供が死ぬと,いかにもフランス人らしく当惑しながらコメントした。そんなグロテスクなほどに食用に適さない食べ物をわざわざ作る食文化には,どこかおかしいところがあったのは言うまでもない。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.148-150

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