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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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毒々しい色

英国人はフランス人よりもずっと砂糖を好んだのはよく知られていたが,それは英国の子供が派手な色の菓子をしきりに欲しがったことに現れていた。現代の英国の子供が好きなものを自分で選ぶおやつ——ピンクのシュリンプ,目玉焼き,瓶詰めのコーラ等——に相当するものが1840年代にもあった。ヴィクトリア朝の菓子屋は,ジンジャー・パール,黄色い棒飴,多色のあられ砂糖,丁子風味棒飴(クローヴ・スティック),ねばねばした黒砂糖から作ったココナツ・キャンディー,イチゴ・スイーツ,林檎スイーツ,シュガー・オレンジ,シュガー・レモンを売った。そうしたものはすべて,売らんがために毒々しい色になっていた。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.147-148
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土曜日の夜の買い物

労働者は土曜日の夜に買い物をせざるを得ないため,食べられないものを買わせられるおそれが増えた。闇の中では,売られているものの質を知るのは難しく,呼び売り商人はそれを利用した。魚売りは「雑魚」を土曜日の夜まで取っておき,黒ずんだ嫌な臭いのする鯖を蝋燭の光で新鮮で新しいもの見せた。イングランド北部では,何人かの行商人は魚の鰓に赤ペンキを塗りさえした。赤い鰓は新鮮である印だったからだ。いかがわしい「化粧」があまりにも見え透いていたに違いない。傷んだ肉とチーズに関しては,「磨き」として知られた手の込んだテクニックが使われた。腐敗した表面を新鮮なもので覆ったのだ。古い肉は新鮮な脂肪の層で,古いチーズのカットした表面は新鮮なスイート・バター(新鮮なクリームで作る無塩バター)で「磨かれ」た。同様に,土曜日の夜のトリックのいくつかは,さらに巧妙だった。マンチェスターでは,工場労働者が週末のご馳走としてココナツを買うことがあった。ほとんどの消費者は,まずココナツを振って,中が乳状液で一杯で,新鮮なことを確かめずには,そうした贅沢品に金を使おうとは思わなかった。しかし,ずるい売り手は,乳状液のない古い腐りかけたココナツに孔をあけて中に水を満たし,ココナツの殻の茶色に合うよう,黒ずんだコルクで孔を塞いだ。もう1つの巧妙な誤魔化しは,オレンジを茹でて重くし,光らせるというものだった。客がそれを家に持って帰って剥くと,中の袋が手の中でばらばらになり,インチキがわかってがっかりする時には手遅れだった。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.135-136

売り手危険負担

われわれの現在の食文化は,その正反対である。今のルールはおおむね,「買い手危険負担」ではなく,「売り手危険負担」である。2000年になる頃,奇妙な新しい傾向が英米のレストランで見られるようになった。ステーキかハンバーガーを注文し,レアかミディアム・レアにしてくれと頼むと,自分の坐っている席に紙片が置かれる。そうやって,料理された肉の安全性に関してレストラン側は「なんの責任もとらない」ということを了承し,法的権利を放棄する旨を,その紙片にサインしなければ,真ん中がピンクのハンバーガーは食べられない。数多くのせっかちな客を苛立たせている,バーガーを注文する際に法的権利を放棄する旨のサインをさせるというやり方は,不均衡を是正する試みだったのだ。そうした試みは,消費者が口に入れた食べ物の責任は誰がとるかという問題に対処したものなのだ。レストラン経営者——四方八方から,環境衛生監視官から,こうるさい客から,政府の官僚的形式主義から責任を負わされていると,彼らはしばしば感じているのだが——は,責任の一端を個人の客に転嫁しようとしていたのだ。われわれの「売り手危険負担」の食文化においては,政府,新聞,広告基準審査協会,消費者のすべてが食品販売業者に対して,自分たちの約束を守り,その約束がどういうものかをはっきりさせるように圧力をかけている。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.126

白パンへのあこがれ

明礬——アルミニウム硫酸塩を他の硫酸塩(カリウムまたはナトリウム,アンモニウム)と結びつける硫酸複塩のグループに与えられた名称——は,無数の用途を持つ収斂剤,止血薬,吐剤である。中世以来,織物工業においては,染料を繊維に固定させる「媒染剤」として重要な成分だった。また,脱臭剤として,特にひげ剃りの際の止血薬として外用に使われてきている。旧式の紳士用化粧品の会社,ジョージ・F・トランパーでは,切り傷を塞ぐための「明礬の塊」をいまだに売っている。明礬はまた,調理でも多く使われている。それは,保存料として,ピクルスやマラスキーノ酒漬けのサクランボをカリッとさせたりゼラチンを固くしたりするファーミング剤として,小麦粉をより良くするものとして,漂白剤として使われてきた。パン屋はそれを漂白剤としてルネサンス期以来使ってきた。相当の量が使われるようになったのは18世紀以降である。
 パンに明礬を使用するというのは,白パンの持っていた「威光」を考えた場合のみ意味を成す。長いあいだ貧しい人々は,金持ちが食べていた最上質の白い小麦パンを食べることに慣れていた。白パンは紳士階級のものだが,黒パンは自作農の食べ物で,それを食べる者は社会的に劣ることを示していた。17世紀の社会の観察者の何人かは,極貧の階級の者が市に行き,ライ麦パンは沽券に関わるとして鼻であしらい,最上の白い小麦で出来たパンを探す様子を書いている。ほとんど誰も,黒パンを食べるような人間になりたがらなかった。だがいつの時代であれ,全粒小麦粉パンに味方する例外的な賢人がいる。1683年,非国教徒でベジタリアンのトマス・トライオンは,消化によい自然食品だとして全粒小麦粉パンを弁護した。そして白パン嗜好を,「健康に有害で,自然と理性に反する」として攻撃した。誰も耳を貸さなかった。白パンに対する嗜好は続き,それと共に明礬の使用も続いた。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.104-105

やむを得ない食べ物

古代以来,飢饉が発生すると,人は食べつけない食べ物をやむなく食べざるを得なかった。そのパターンは一般的にこういうものだった。まず,農民は普段は処分しない,ロバ等の家畜を食べる。それから,駄目になった穀物,または質の悪い穀物(食べると吐き気を催すような,芽の出た,腐った穀類)を食べる。もし飢饉が続けば,ドングリとかソラ豆のような動物の餌を食べざるを得なかった。そして,最後の手段をとるに至った——つまり,共食いの一歩手前の手段だ。皮革,樹木の皮,小枝,食べるに適さない葉のような自然の産物を食べたのである。ガレノス(紀元200年頃没したギリシアの医者)は,小アジアの田舎の人々が「小枝,木の芽,灌木,消化できない植物の球根と根」を食べざるを得なかったことについて書いている。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.100

パン屋の印

現代のスーパーマーケットのパンは,誰が造ったのか,ほぼ完全にわからない。饐えていたり,十分に焼いていなかったり,異物で汚染されたひどいパンを買ったなら,誰に文句を言っていいのか?それを焼いた者にではない。彼らの役目は,機械工の役目とほとんど変わらぬものに縮小してしまった。その代わり,表向きの「責任者」は,イーストにも小麦粉にも触れずに事務所にいる「消費者担当部長」だろう。したがって立腹した消費者は,実際に鬱憤を晴らすことはできない。名ばかりの金銭的補償をしてもらえるかもしれないが,自分が口に入れたひどい代物を造った者をやっつけたとは言えない。事実それは,背後にどんな個人もいない食品なのだ。それとは対照的に,パンは中世では個人的なものだった。パン屋は自分の造ったパンに印を押さねばならなかった。もし法規を破ったなら,誰が破ったのかを突き止め,責任を問うことが容易になるからだ。それは,パンが特に良いものであれば誇りの印であり,混ぜ物や量目不足,偽の粉で出来ていたなら恥辱の印だった。パン屋はパンを自ら売るか,使用人に売らせるかしなければならず,中間商人を使うことは許されていなかった。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.94

母親の破滅

しかし時には,ワインの評判は単に比較の問題だった。18世紀のあいだ,ワインが健康な飲み物と思われたのは,少なくとも,それがジンではなかったからである。ジンは18世紀の前半,凄まじい勢いで大流行した。1726年,ロンドンにはジンを売る場所が6287あった。そのジンの多くは,テレピンと硫酸で荒々しい味になっていた。ワインに混ぜ物をするのが当たり前のことになっていたとすれば,蒸留酒に混ぜ物をするのは,さらに当たり前のことだった。蒸留酒の歴史においては,混ぜ物工作は原則であって例外ではなかった。蒸留酒の業界には,希釈する者,「人工的修正人」,「混ぜ物屋」が満ちていた。彼らは蕪でブランデーを造ったり,緑礬で蒸留酒を「改良」したりした。ジンが大流行していたとき,貧しい人々が1杯1ペニーの安いジンを渇望していたので,蒸留酒製造業者は,合法的な業者であれ闇市の業者であれ,手に入るどんな穀物でも調味料でも使って「ジン」を造り上げた。ワインが有毒だったのは時たまにすぎなかった。しかしジンは純粋であっても一種の毒——ジン反対運動家はジンを「母親の破滅」と呼んだ——で,それは母乳を通して赤ん坊の飲む乳に入ったり,女を堕落させ男を狂わせたりした。1736年,英国政府はジン条例によってジンを禁止しようとさえしたが,成功はしなかった。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.81-82

鉛入りワイン

紀元1世紀,コルメラは地主として次のように記している。「葡萄汁を鉛の壺に入れ,その4分の1(ある場合には3分の1)を沸騰させて蒸発させる者もいる」が,「半分蒸発させれば,もっとよいサパになるのは否定できない」——そして,さらに多くの鉛を含んだものになるのは。農業について書いたカトーは,ワイン造りのあいだに,その非常に有害な煮詰めたものの40分の1を使うことを勧めた。鉛が次のような症状を引き起こす毒であるのを知っていたなら,そんなことはしなかっただろう——頭痛,疲労感,発熱,不妊,食欲喪失,ひどい便秘,耐え難い疝痛,言語障害,失聴,盲目,麻痺,四肢の制御不能,そして,ついには死。鉛入りのワインはローマ人に恐ろしい影響を与えたに違いない。蔓延した鉛による病気が,非常に多くの裕福なローマ人が生殖能力を失った原因の1つではないかと,ある歴史家は言っている。しかし彼らは,それは健康に良いと信じて飲み続けた。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.73-74

ワインの添加物

ほかの古代のワインの添加物は,もっと実際的な目的を持っていた。ワインの大きな問題は,たちまち悪くなってしまうということだった。ローマ時代のワインの多くは,本質的にアルコール入りのフルーツジュースだった。それには例外もあった——詩人のユウェナリスは,執政官が長髪だった時代以来,数世紀にわたって瓶の中に寝かしてきたヴィンテージ・ワインについて書いている。しかし,そうした熟成したワインは,まったくの例外だった。ボージョレ・ヌーボーはたいがいの古代ローマのワインに比べると立派に成熟している。古代のワインがいかに早く質が劣化したかについては,3世紀にローマの法学者ウルピアヌスが前の年に造られたワインを「古いワイン」と書いている事実から,幾分窺い知ることができる。人々は地中海の気候の中でワインを長持ちさせることのできるものならなんでも飛びついた。それがワインの質にどういう影響を与えるかについて,ほとんど考慮せずに。特にギリシアのワインには樹脂が混ぜられていた——現代のレツィーナ(ギリシア特産の松脂入りワイン)の古代版である。ワインを入れておいた陶器の両取っ手付きの壺は多孔性のものが多く,中に空気が入り,ワインを酸化させた。ワイン醸造業者は壺の内側が樹脂で覆われていればワインが長持ちすることに気づいた。そして,発行前の葡萄汁だけにではなく,ワイン自体にも,粉状のものであれ,ねばねばした液状のものであれ,少量の樹脂を加えると,もっと効果があることにも気づいた。その結果,ワインを飲む者はさまざまな種類の樹脂の通になったが——シリアの樹脂はアッティカの蜂蜜に似ているといわれた——樹脂の第一の目的はワインを長持ちさせることだった。現代でも,質の悪いレツィーナを飲むと,木材の防腐剤キュープリーノールに漬かっている気分に,ちょっとなる。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.71-72

パンにワイン

当時,人はパンはどういうものかを知っていた。パンが小麦粉,塩,パン種(サワードーまたはイースト),水(ただし水は多過ぎてはいけない)で適性に造られた主食であるのを知っていた。ワインは別の問題だった。ワインの歴史では長いあいだ,アルコールが含まれていて葡萄の味がすれば,ほとんどなんでも「ワイン」と見なされた。葡萄の代わりに干し葡萄が使われていてもワインとされたこともあったし,ヴィクトリア朝にはスグリで出来たものも「シャンパン」とされたことがあった。ワインに蜂蜜,鉛,海水が含まれている場合もあった。水で薄められたり,ブランデーが混ぜられたりした場合もあった。さらには,砒素で色付けされたり,セイヨウワサビが混ぜられたりしていることもあった。ロッド・フィリップスは言っている。「ワインは熱せられ,煮られ,冷まされた,そしてブレンドされ,混ぜられ……色付けされた……そのすべてがワインと呼ばれた」。あるワインが偽物かどうかを確かめるのは難しかった。というのも,「ワイン」の定義が曖昧だったからだ。人は本当にひどいワインがどういうものかわかっていたものの,本当に良いワインとは何を意味するのか,あるいは,そもそもワインが本物であるとは何を意味するのか確信がなかった。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.68-69

文章の混ぜ物

アークムの例は,科学においても料理においても他人の著書の剽窃が蔓延していることを示している。18世紀の最も有名な料理書を書いたハンナ・グラースは,他人の著書から263のレシピを盗んだが,彼女に対する評価は,料理歴史家のあいだでは今も高い。アークムはそれほど運がよくはなかった。他人の考えを自分の考えに挿入するというのは一種の混ぜ物工作である。アークムは食品の混ぜ物を憎みはしたが,自分自身,文章の混ぜ物工作をしたのだ。おそらくそれゆえに,彼は混ぜ物をする者の心理が非常によくわかったのだろう。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.62

ビールの法律

ビールの混ぜ物工作は飲兵衛に影響を与えただけではなかった。とりわけ都市の水の大部分が飲むのに適していなかったので,ビールは家族の基本的な飲み物になっていて,成人の男女だけではなく子供も飲んだ。そのため,ビールに混ぜ物工作をするというのは,全人口に影響を及ぼす重大な問題となり,広範囲に及んだ。アークムは,さまざまな手段で混ぜ物工作をしたり,強いビールに弱い「食卓用ビール」を混ぜたりする醸造業者とパブの主人に対して起こされた無数の訴訟について書いている。1813年から19年までに,30人以上の醸造業者が「醸造の際,違法の成分を受け取り,使用した」廉で非常に高額の罰金を科された。その1人ジョン・コウェルはスペイン産甘草を使い,しかも強いビールに食卓用ビールを混ぜた廉で50ポンドの罰金を科された。ジョン・グレイは生姜,鹿の角の削り屑,糖蜜を使った廉で300ポンドの罰金を科された。アラットソンとエイブラハムはコクルス・インディクス,マルトゥム(苦木の抽出物と甘草で出来たもの),「ポーター風味」を使った廉で630ポンドの罰金を科された。
 しかし,こうした訴訟からわかるのは,少なくともビールに関する限り,政府は消費者を保護するために,アークムが考えていた以上に介入したということである。ビールの品質を守るための当時の英国の国会制定法は,1516年に公布されたバイエルンの悪名高いビール純粋令に匹敵した。その国会制定法は,麦芽,ホップ,水以外の物質がビールに含まれるのを禁じた(酵母がビールに加えられるようになったのは,のちのことである)。薬屋と乾物屋は混ぜ物用の物質を醸造業者に売ると訴えられるおそれがあった。たとえ,糖蜜(ビールに色を付け甘味を加えるために使われた,砂糖精製時に生じるシロップ状の黒っぽい液)のような無害なものであれ。着色するために,焦がした砂糖を使ったり,ビールを清澄にするためにイシングラスを使ったりすることさえ,法律で禁止されていた。基準がそれほどに厳しかったことは,その後なかった。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.54-55

胡椒を作る

混ぜ物工作のいくつかは狡猾だった——例えば「P・D」,すなわちペパー・ダスト。それは胡椒(ペパー)の倉庫の床から掃き集められた「汚いゴミ」で,挽いた黒胡椒が混ざっていることが多かった。それよりもっとひどいのは「D・P・D」として知られていたものだった。「ダスト・オヴ・ペパー・ダスト」の略である。胡椒の倉庫の床から掃き集められたゴミの中で最も汚れた不潔なものである。この欺瞞には,細工らしい細工はなかった。他方,もっと凄まじい混ぜ物工作の多くでは,実に入り組んだ細工が施された。本物の干した黒胡椒の実——多くの消費者が胡椒の実そのものに混ぜ物を施すのは不可能だと誤って考え,挽いたものよりいいと信じて買ったのだろう——が,「見せかけの胡椒の実」で増量されていることがあった。それは,熟練した職人の手によるものだろう。まず,黒っぽい「固形油粕」(亜麻仁油を搾り取ったあとの残留物)を普通の粘土と,いくらかの唐辛子と一緒にした(消費者が簡単に騙されるように,「小さな固い種の歯ごたえ」の感じを出すために)。それから,その練り混ぜたものを篩に押し当てて出してから樽の中で回し,小球にした。こうした偽物の「胡椒」の小さな球を作るのは非常に骨が折れたに違いない。本物の黒胡椒の実に多くの混ぜ物を加えると疑念を招く恐れがあったが——16パーセントが標準だった——それでも欺瞞者たちが混ぜ物工作で得をしたのは明らかだ。労働の賃金は安く,スパイスは高価だった(胡椒1ポンドの税金は2シリング6ペンスだったが,1823年に引き下げられた)。そして,その作業を行う者には不足していなかった。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.47-48

長い鎖

時には,鎖があまりに長いので,誰も意図しないのに食品が有毒なものになることがあった。アークムは書いている。「私は今の仕事を長いあいだ続けているが,社会的地位の非常に高い数多くの商人さえ,自分では無害と信じて,きわめて有害な食品を消費者に売ったと信ずる十分な理由がある。そして,成分が偽で有害だということを知らされていたなら,それを売らなかったであろう」
 アークムが引用している最も驚くべき例は,ダブル・グロスター・チーズである。それは,紆余曲折した一連の出来事によって,鉛丹で色付けされてしまったのだ。元来,ダブル・グロスターは——もとは朝と夕方の2回に採乳した牛乳を使ったので,そう呼ばれる——色付けされる場合があるとすれば,アナトーで色付けされる。アナトー(今ではE160[b]として知られる)は植物性染料で,熱帯の紅の木のオレンジ色の果肉から採る。それでアレルギーを起こす者もいるが,総じてあまり害はない。一方,縁端は死を招く。アークムはケンブリッジの紳士,J.W.ライト氏の話を紹介している。ライト氏は事情があってイングランド南西部地方の都市の宿にしばらく滞在した。ある晩,彼は「腹部と胃の辺りに,苦しく,言いがたい痛みを感じ,それに伴って緊張感を覚えた。その結果,非常な心の乱れと,食べ物に対する不安感と嫌悪感が生じた」。24時間後,すっかりよくなった。4日後,まったく同じことが起こった——ひどい苦しみ,緊張感,回復。どちらの場合も,紳士は狐色に焼いた一皿のグロスター・チーズを宿の女将に頼んだことを思い出した。それは,家で夕食によく食べるものだった。女将はその話を聞いて侮辱されたと感じた。そして,そのチーズはれっきとしたロンドンの商人から買ったのだと答えた。しかし,紳士が狐色に焼いたチーズを3度目に頼むと,やはり「激しい腹痛」に襲われた。いまや間違いなかった。チーズが原因なのだ。すると下女が口を挟み,子猫がそれと同じチーズの上皮を噛んだあと,酷く吐いたと言った。
 それを聞くと女将は恥を忍び,そのチーズを化学者に調べてもらった。これは鉛丹に汚染されている,と化学者は明言した。そして今度はロンドンの商人が,どうしてチーズが鉛丹に汚染されるようになったのかと,チーズを作った農夫に訊いた。すると農夫は,何年も「なんの問題もなく」,巡回商人からアナトーを仕入れていると言った。しかし巡回商人は,アナトーに辰砂(ヴァーミリオン;毒性のない染料)を加えた別の仕入れ先から,そのアナトーを買ったのだ。そして,その辰砂を売った薬剤師は,それがチーズに使われるとは夢にも知らずに,「家庭用ペンキの顔料」にだけ使われると思い込んで,それに鉛丹を混ぜたのだ。アークムが引用した文の筆者はこう結論付けている。「商売の紆余曲折した多様な経緯を経て,猛毒の幾分かが,それを次々に扱った者たちの罪が問われることもなく,生活の必需品に入り込むことがある」

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.45-46

悪しき習慣

ピクルスを緑色にするのに銅を使うというのは,食品製造業者が家庭での悪しき習慣を踏襲していた場合だった。野菜のピクルス——ガーキン,サムファイア(セリカの多肉草),莢インゲン,グリーン・カプシクム——がよく売れるようにするには「鮮やかな緑色」にする必要があるのは残念だと,アークムは書いている。アークムが嘆いているように,こんなふうに緑色のピクルスを好む結果が「致命的」になる場合があった。彼はパーシヴァル博士が書いている症例を引用している。「ある若い婦人は,髪を結ってもらっているあいだ,銅の染み込んでいるサムファイアのピクルスを食べた。まもなく彼女は胃の痛みを訴えた。すると5日後,胃が異常に膨らんだ。そしてピクルスを食べてから9日後,彼女は死によって苦しみから救われた」。銅は「小さな緑のライム,シトロン,ホップの毬果,スモモ,アンゼリカの根」のような甘いものにも使われた。それは常に,活力を与えるものという印象を与えるためだが,まったく間違いなのだ。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.41-42

偽物コーヒー

アークムの意見では,英国の食べ物の主な問題は,素材自体ではなく,英国の料理人の素材の扱い方だった。アークムは,英国人が食事はさっさと済ませ,「時間は無価値かのように酒に長時間」費やして無駄にする傾向を避難した。彼はそのことをフランスと比較し,フランスでは「いい食事」が「人生の大目的」だと言っている。アークムのようなコーヒー党には,コーヒーの淹れ方の基本も知らない人間のあいだで暮らすのは惨めなことだった。アークムの信ずるところでは,コーヒーは「体中に健康的な満足感,安らぎ,このうえない幸福感を漲らせる」。ところが英国のコーヒーは,彼を惨めな気持ちにするだけだった。英国でコーヒーとして通っているものは,苦い「色付き水」とほとんど変わらない,と彼は苦情を言った。それは,至る所の乾物屋で,燃やしたエンドウ豆とインゲン豆で作られた「偽物コーヒー」が売られていたことを考えると驚くには当たらない。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.37-38

混ぜ物工作

アークムは1820年の英国を刺激的だが恐ろしい場所だと評している。そこではなんでも金で買えるが——ペストリー職人は「紛い(モック)タートル・スープを作るため」,まだピクピクしている牛の胎児さえ買った——原料をできるだけ安いものにしなければならない場合は,水増しと混ぜ物工作は,ほとんど不可避だった。それは,馬鹿げているほど人が階級を強く意識した時代で,誰もが金持ちの食べる白パンを食べたがり,かつては裕福な者のみが口にした多色の菓子を自分の子どもに食べさせたがった。だがその際,自分の買うパンがなぜこんなに安いのか,こんなに白いのか,自分たちの子供が食べる菓子が,なぜ自然界には存在しない色に染まっているのか疑問に思わなかった。それは,狡猾さと無知が合わさり,危険な食べ物を作り出している国だった。アークムは,無節操な人間にとって,しばしばすでに劣悪なものになっている食品をさらに劣悪なものにするのが,いとも容易だったことを書いている。ランカシャーの酪農場では牛乳は鉛の平鍋で加熱され,イングランド北部の宿の主人は「薄荷(ミント)サラダ」のためにミントを挽いた際,無分別にも,乳房と乳鉢の代わりに鉛の巨大な球を使った。その結果,「その重々しい器具が回転するたびに鉛の幾分かが削げ落ちた」。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.35-36

化学の進歩

アークムが生まれた1769年には,化学は多くの面で錬金術と大差がなかった。科学者が自分たちの扱う材料に与えた名前は奇妙で,人を面食らわせるものだった。例えば「砒素のバター」,「硫黄の肝臓」。当時の燃焼理論にとって中心的なものは,燃素(フロギストン)と呼ばれた,まったくの架空の物質だった。それは無色,無臭,無重量の物質で,あらゆる可燃物の中に存在すると信じられていた。この物質を含むものは「フロギストン化」されたものと呼ばれた。それは燃やすと,「脱フロギストン化」されると言われた。ラヴォアジェが酸素を使って燃焼の正しい理論を発表するまでは,分別のある多くの者もフロギストン説を信じていた。さらにラヴォアジェは,古臭い錬金術的名称を一掃し,化学を現代科学の1つに統合した。ラヴォアジェはまた,ワインのアルコールを,酸素を満たし水銀の上に置いた釣鐘型のガラス器の中で燃やしてアルコールの成分を最初に分析しようとした点で,アークムの先駆者である。ラヴォアジェはオリーヴ湯を水素と炭素に分解した。また,アークム同様に果実に関心を抱いていた。ラヴォアジェは1786年に発表した有機酸の性質に関する研究報告の中で,石榴,目木,サクランボ,カレンズ,桃,杏,梨から取った酸を分析した。

ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.29-30

勝ち残るのはイノベータ

忘れてはならないのは,私たちが今ここにいるのは,生き残りをかけて臨機応変にさまざまな行動をとった周縁部のイノベーターたちのおかげだということだ。その後の私たちは,技術の著しい進展のおかげで,遺伝子の力を借りるよりもずっと迅速に,気候をはじめとする環境の変化に対応できるようになった。私たちは,環境に手を加え,食物を改良し,自らの影響力を徐々に増大させ,ますますたくさんの子孫をもうけた。しばらくのあいだは,それでもうまくいった。世界はまだ広大で,人類の数は取るに足りないものだったからだ。
 私たちは成功に酔いしれた。資源が尽きることはないし,何もかもが永遠に続くだろう——そう考え,前進し続けた。しかし人類の進化の歴史においては,繁栄の1万年という期間はあまりに短い。現代に近づき人口が増えるにしたがい,この新しい生活様式が短い時間尺度でのみ持ちこたえるもので,いつかは崩れ去ることに私たちは気づきつつある。過去を振り返れば,永遠に続くかと思われた文明が音を立てて崩壊していく場面をいくらでも見つけられるが,そのうちのどんな事態でさえも,私たちの目前に迫っている危機に比べられはしないだろう。
 では,すべてが崩壊するときに生き残るのは何者なのか?歴史が示すように,それは安全地帯に住んでいる者たちではなさそうだ。電気,自動車,インターネットの奴隷となり,テクノロジーという支えがなければ数日間しかもちこたえられない,自己家畜化した私たちではないのである。希望があるのは「偶然」に選ばれた子どもたちだ。次の食事がいつどこで手に入るかもわからず,わずかな食べ物を奪い合う日々を過ごしているに違いない貧しい人々が,生き残りに最も力を発揮する集団になることだろう。経済が破綻し,社会が崩壊するような,すさまじい混乱が起こるとき,勝ち残るのはまたしてもイノベータなのだ。その混乱を引き起こしたコンサバティブたちは,皮肉にも,自らの転落を自らの手で歴史に刻みこむことになるだろう。そして進化は,いまだ知られていない方向へ新たな一歩を踏み出すのである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.291-292
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

現時点での成功

私たち現生人類の遺伝子は,今日地球上に存在している他のあらゆる種と同様,現時点で成功しているにすぎない。これまでも見てきたとおり,私たちが生き残ったのは,成功の可能性をもった遺伝子が幸運も持ちあわせており,たまたま適切な条件に出会ったり,地球の変化の速度と足並みをそろえることができたからにすぎないのだ。一方で,成功の可能性をもち,実際に大きな繁栄を手にしたにもかかわらず,運が尽きて姿を消す者たちも少なくなかった——大多数の早期現生人類がそうだし,ネアンデルタール人がそうだった。
 ネアンデルタール人は滅んだ。たしかにそれは事実に違いないが,そこだけを見て,私たち現生人類についても悲観的な未来を予言しようとは思わない。そもそも,これほどまでに人口が増えてしまった今となっては,地球規模の大災害でも起こらない限り,気候がいくら変わったところで人類が完全に滅びることはなさそうだ。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.288-289
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

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