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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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自己認識をもつ動物

自己認識は,動物が時間と空間という視点を得て,仲間やそのほかの存在を意識していくうちに,自然に生まれてきたもののように思われる。この能力が,何らかの利益をもたらすためのものなのか,あるいは脳が発達する際に生じた副作用にすぎないのかはわからない。だがともかく,いったん獲得されると,私たち自身の複雑な情報伝達システムに組み込まれることになった。こうして私たちは,自らの行動と倫理観がどのような結果をもたらすかを自覚できる動物になったのである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.287
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)
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脳の進化

人類の脳はどうやって発達してきたのか——この疑問に対しては,これまでさまざまな主張がなされてきた。そのうちのひとつに,脳と知能は,変化に富んだ環境に暮らし,広大な領域を動き回る必要があるときに発達するというものがある。そうした環境では,広い範囲に分散している餌場を見つけ何度も通うために,時間と空間の概念を備えた4次元の地図を頭の中にもたねばならず,それに応じて脳が発達するというのだ(本書ではこれを地図作成仮説と呼ぶことにする)。
 このほかに脳と知能が発達した理由として考えられているものに,社会的圧力がある。大規模な集団では,構成員がそれぞれの意思をもっており,互いに関係を築くなかで緊張やストレスが生み出される。そうした環境で起こりうる多様な状況に対処するために,大きな脳が必要だったというのだ。この考えを社会脳仮説(またはマキャベリ的知性仮説)と呼ぶが,それに従えば,さまざまな要素からなる社会集団で生きる必要性こそが,大きくて複雑な脳への進化を最も的確に説明していることになる。
 近年では,地図作成仮説よりも社会脳仮説のほうが優勢のようだが,2つのあいだにそれほど違いがあるのだろうか?私にはそう思えない。どちらの場合も,予測不可能な環境(前者では地勢,後者では集団内の他者)に対処するための究極の方法だという点では変わらないからだ。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.274
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

人間という環境

栽培・家畜化された動植物から見れば,人間は重要な環境である。それら動植物は,その新しい環境から保護という恩恵を受け,野生種である祖先を打ち負かすことができた。こうした流れの中では,人間もまた,栽培・家畜化の仮定に否応なく組み込まれることになる。よく知られているように,狩猟採集民と比較して,農耕民は一般的に低身長で,栄養状態が悪く,病気になりやすかった。しかし,そんなことはお構いなしに農耕民の数は増え続け,いつのまにか狩猟採集民を圧倒してしまった。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.270-271
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

農耕の過大評価

農耕が過大評価されていることを示す例はほかにもある——農耕なしで定住あるいは半定住生活に落ち着いたナトゥーフ文化人やペルー沿岸の人々がそうだ。定住を後押ししたのは,前者では資源の多様性,後者では資源の量だった。これらの例を見れば,文明の要件を満たしている社会が,条件さえ整っていれば農耕の存在がなくても発生したかもしれないと考えるのが理に適っているのがわかるだろう。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.267
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

辺境でのイノベーション

アフリカ,インド,オーストラリアの熱帯地方では,とくに氷期に対応する必要がなかったため,それまで受け継いできた人口密度の低い狩猟採集生活が続けられた。ところが辺境に暮らすグラヴェット文化人の子孫たちは,厳しい環境下のなかで自分たちのそれまでのやり方や伝統をことごとく失い,何万年ものあいだ通用していた生活様式から脱することに力を注いだ。その結果,彼らはそれまでにない危険な道具を手に入れることになる——温暖な気候下ではまずありえないことだったが,彼らは「余剰物」を生み出す方法を発見したのだ。それによって人口は歯止めなく増え続け,寒冷化の影響で鈍くなることはあったものの,それもほんの短い期間にすぎなかった。こうした習慣を受け継いだソリュートレ文化人やその同時代人は,地球が温暖化しはじめると,その受け継いだ遺産を徹底的に利用することになった。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.253
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

イヌの起源

27の異なる地域に生息する162頭のオオカミと,67犬種の飼い犬140頭から採取したミトコンドリアDNAを解析したところ,イヌの起源が13万5000年前までさかのぼるかもしれないことがわかったのである。この驚くべき結論が正しければ,ネアンデルタール人が生きていた時代にイヌが誕生したことになるが,それが行き過ぎだとしても最終氷期のさなかに最初の家畜化が行われていたという考えは十分説得力をもつだろう。
 農耕の発見に先立つこと数千年,イヌの家畜化は現生人類にとって画期的な事件だった。イヌは人類が初めて手にした「生きた道具」であり,狩猟における武器だった。また,他の集団や捕食動物から村を守るためにも利用されたはずだ。イヌはその社交性によって現生人類と親密な絆を結び,現在の私たちにとってもなくてはならないパートナーとなったのである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.241-242
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

特定の体格の絶滅

気候の変動が激しくなり,それまで温暖な環境が広がっていた地域にツンドラステップがせまってくると,そこに暮らすあらゆる種類の人類たちは技術を発展させて変化に対処しようとした。しかし,最終的にはたくましい体格が裏目に出てしまう。たとえ高い技術をもっていたとしても,そうした体で動物を求めて広大な土地を歩き回ることの弊害を埋め合わせることはできなかった——ネアンデルタール人の絶滅とは,長きにわたって存在したある特有の体格の絶滅だったとも言えるのである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.235
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

情報時代へ

繰り返すが,グラヴェット文化で見られる行動の新しさはどれも,たとえば,「神経系の突然変異によって特別に賢い人類が生まれたから」などという説明に頼らなくても理解できるものだ。彼らはすでに十分な能力を備えていたのであり,それは同時代に生きた多くの人類や,不運にも生き残ることができなかった集団にも言えることだ。イノベーションは,身体的な能力のおかげというよりも,新たな生活環境で直面した問題を解決することで生まれた。あなたが今,樹木のない,荒涼とした環境での生活を強いられたと想像してみてほしい。道に迷わないように自分の位置を確認したり,草食動物の大群を見つけたりするには,大海原を航海するときと同じくらいの困難があったに違いない。また季節がはっきりと分かれている環境では,長くて寒い冬の夜など,これまで知らなかった状況に対処する必要も出てきただろう。熱帯の霊長類から枝分かれした人類は,生物学的な理由から冬眠という選択肢をもっていなかった。だから寒い冬が定期的にやってくるのであれば,それを避けるために重い荷物を持たずに移動する術を身につける必要があったし,自分たちのいる土地の特徴をつかんだり,仲間に的確に意思を伝達する方法を見つけたりしなくてはならなかった。こうしてグラヴェット文化は情報時代に突入していったのである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.222-223
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

多くのことは

人類の歴史においてよく知られる画期的な出来事の多くは,手を貸さずとも自己触媒的に広がっていき,はじまったが最後,後戻りはきかなかった。だが,たしかに現実はそのように進んだかもしれないが,理論的に必ずそうなるというものではなかったはずだ。たとえば,農耕の発展もその一例だろう。1万年前を過ぎると以前よりも気候が温暖となった。それにより,狩猟採集民としての生活を代償に世界各地で農耕・牧畜が飛躍的に広まり,人口が急増した。しかし,もし気候がもう一度悪化していたら,ここで生まれた技術も過去の多くの例と同様に廃れることもありえたのだ。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.218
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

2つの理由

ユーラシアの現生人類たちが樹木から全面的に開放されたのには,2つの生態学的な理由が考えられる。ひとつは,活用する手段さえ見つかれば,ユーラシアのツンドラステップは食料の貯蔵庫と言ってよかったこと。もうひとつは,熱帯地方では制限要因となった水に,それほど行動を制限されなかったことだ。ツンドラステップでは,トナカイ,ステップバイソン,ウマなど,多くの大型哺乳類が巨大な群れをなしていた。こうした資源を利用できるものはそれまでいなかったが,ツンドラステップの周縁部にいた人類は茂みからの奇襲攻撃を利用して,これらの動物を狩ることができた。とはいえ,周縁部では森林の恩恵もまだ受けることができたので,季節によって移動する気まぐれな動物の群れに完全に依存することはなかっただろう。つまり,開けた平原と森林の境界に暮らすことは,最も豊かで実り多い場所に生きることだったのだ。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.212
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

器用な採集者

この一連の発見で重要なのは,ゴーラム洞窟のネアンデルタール人たちが,大型哺乳類の奇襲を専門とする狩人ではなく,目の前にある豊富な資源を使いこなせる器用な採集者だった事実が示されたことだ。おそらく彼らの食生活はこれまで確認されているものよりも広範囲にわたり,果実,地下茎,地虫なども食べていたに違いないが,そうしたものは痕跡を残さずに消えてしまったのだろう。いずれにしても,大型哺乳類が食料の摂取率に占める割合はごくわずかだったはずである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.205
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

愚鈍な獣か

ネアンデルタール人は愚鈍な獣であり,地球という惑星でなんとか25万年余をやり過ごしたにすぎない——そう考える人たちにとって,ゴーラム洞窟は実に驚くべき新発見に満ちていた。まずわかったのは,ネアンデルタール人が食べた哺乳類の骨の80パーセント以上がウサギのものだったことだ。見つかったウサギはイベリア半島に固有の種で,洞窟外の砂丘は巣穴をつくるのに理想的な場所だったので,かなりの数が生息していたと考えられる。したがって,ウサギを捕まえるのは難しい仕事ではなかったに違いない。また鳥の化石も豊富で,145種類もの鳥類が発見されている。この数はヨーロッパに生息する繁殖鳥のなんと約4分の1に相当するが,アフリカの「冬の別荘」とヨーロッパの「夏の邸宅」を行き来する渡り鳥にとって,ジブラルタル海峡が拠点のひとつになっていることを思えば,不思議なことではないだろう。もちろん,ネアンデルタール人はそうした渡り鳥も食料にしていた。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.204-205
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

遺伝子混合は

まとめると,私たちがもっているネアンデルタール人と現生人類についての考古学的,遺伝学的知識と,世界各地へまばらに広がった人類集団の生態学的背景を考え合わせるならば,双方のあいだに重大な遺伝子混合はなかったようだ。たとえ実際に交配したことがあったとしても,現在入手できる証拠からは,ネアンデルタール人が私たちの遺伝子プールに重要な貢献をしなかったことが推測できる。またいずれにせよ,ネアンデルタール人がまだ多くいた時代のヨーロッパへ進出した人類は,その遺伝子の痕跡を現代のヨーロッパ人にほとんど残すことができなかった。そうであれば,現生人類(もしかしたら早期現生人類も?)とネアンデルタール人のなかに交配したものがあった場合でも,その後ネアンデルタール人が絶滅し,先駆的な現生人類もほぼ姿を消したため,手がかりが失われてしまったという可能性もある。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.193
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

確信は

人類の起源が問題となって以来,遺伝学をはじめ,これまでにさまざまな技術の進歩や新しい化石の発見があったが,個人的な見解を述べれば,それでもまだ私は第二次出アフリカ説が主張する人類の置き換えがそのとおりに起こったと確信することはできない。だからといって,私が多地域進化説の極端な論理を支持しているとは思わないでほしい。そうではなく,5万〜3万年前にユーラシアなどの旧世界で営まれた人類間の交流は,ある集団が他の集団に置き換わるという単純な構図ではなかったと考えているのだ。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.170
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

飛び道具

技術の進歩としてもてはやされるものに,現生人類による飛び道具の製作がある。だがそのような技術は,更新世中期のヨーロッパにいた屈強な動物たちに対しては,ほとんど役に立たなかったことだろう。そうした動物を倒すにの必要だったのは,体力,したたかさ,協力関係,そして獲物に接近することだった。ネアンデルタール人が接近をいとわなかったのは,彼らが現代のロデオ騎手に匹敵するけがを繰り返し負っていた痕跡からも明らかだ。ネアンデルタール人が肌の触れ合う距離で獲物を相手にしたのも珍しいことではなかっただろう。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.162
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

勝者による敗者の物語

歴史とは概して,勝者によって書かれた敗者の物語であり,同じことは先史時代についても言える。さまざまに変化をとげた先史時代の人類のなかで,今日まで生き抜いた唯一の種だという理由で,私たちはためらうことなく歴史の物語を独占してきた。生き残った者として,私たちは自らを勝者の役に祭り上げ,その他大勢を敗者に貶めてきたのではないだろうか。自分たちの存在が偶然のたまものだと受け止めるには謙虚さが必要だが,これまでの私たちは,その代わりに自己中心的な視点をもって,直径の祖先である「先史時代の征服者たち」の優位性を根拠もなく強調してきた。何ひとつ証拠が残っていないにもかかわらず,東南アジアに分け入った現生人類が,孤島のジャングルに身をひそめて難を逃れた運のいい少数派を除くすべての人類を滅ぼしたと思われているのも,そのためである。これから先,シベリア,中央アジア,ヨーロッパへと話が展開するにつれ,さらに多くの欠陥だらけの表現が先史時代の人類に用いられるのを目にすることだろう——なかでも「北国の愚鈍な野蛮人」と蔑まれてきたのは,ネアンデルタール人であった。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.147-148
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

流される

ビーチコーミングの能力に長けたカニクイザルは,私たちにもうひとつの教訓を与えてくれる。カニクイザルの仲間たちは,東南アジアの広い地域に散らばる数多くの島々に生息しているが,そのなかには,ニコバル諸島[アンダマン諸島の南]やフィリピン諸島など,大陸とつながったことのない島も含まれている。どうやらサルたちは,東南アジアにあるたくさんの大河から,意図せぬまま天然のいかだに乗って旅立ち,海流に漂いながら島と島とのあいだを移動したようなのだ(船乗りとしての腕前は,マングローブ林などの川辺や海岸の林を主な生息地とする習性に関わりがあるらしい)。サルたちは何度となく流され,そうした偶然の繰り返しによって,海の向こうの島々へと広がっていった。
 私の知る限りでは,カニクイザルが船をつくる方法を考えたと説く者は1人もいないし,自ら航海術を磨いたとも思えない。サルたちが遠い島々にたどり着くことができたのは,漂流する天然のいかだに頻繁に近づく機会を与えた習性と,偶然のめぐり合わせがたまたま重なったからにすぎない。それにもかかわらず,人類がそうした島々やオーストラリアに広がったとなると,その大移動にはどうしても船と航海術が必要だったということになってしまう。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.128-129
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

時期の一致

興味深いことに,現生人類が世界に拡散しはじめた時期(8万年前以降)と,ネアンデルタール人以外の人類が中東を放棄したと思われる時期はなぜか一致している。先述のとおり,気候は8万年前を過ぎたころからいくらか寒くはなったが,7万年前と4万7000〜4万2000年前の2度にわたる厳寒・乾燥期を除いては比較的暖かさを保っていた。また,サハラ砂漠東部,ネゲヴ砂漠[現在のイスラエル南部],アラビア半島に影響を及ぼした異常な多湿期も,8万年前以降は影をひそめたようだ。つまり,北東アフリカから東南アジアにかけて人類の地理的拡大が起きた時期は,以前よりも乾燥していたものの,とくに例外的と言えるような気候ではなかったのだ。温暖でも湿潤でもなかったし,寒さの厳しい乾いた時期もあるにはあったが,限られたものだった。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.124
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

遺伝的多様性

遺伝学の研究から,もうひとつ明確に浮かび上がってくる事実がある。それは,アフリカ人の集団は遺伝的に最も多様であること,つまり,最も長い時間をかけて突然変異を蓄積してきたということだ。ある特定の突然変異は遺伝子マーカーという目印になるので,それを利用すれば,現在では離れた場所にいる集団も過去にはつながりがあったことがわかり,さらには,集団が分裂した年代も推定することができる。また総合的な研究結果からは,8万年以上前に蓄積された遺伝的多様性が現在のアフリカ人集団の中でしか見られないこともわかっている。アフリカ人集団には見られない突然変異が起きたのはそれ以降のことであり,そこから,世界各地への移動は8万年前以降に行われたと考えることができる。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.110
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

意味のないこと

動物の個体群が,条件さえ合えば近隣地域へと生息範囲をじわじわと広げていくことを,ここでもう一度思い出してほしい。シラコバトの例を挙げたときに,その鳥が何世代もかけてヨーロッパで拡散していく様子を説明したが,それは「大移動」と呼べるものではなかった。同じようなことは,約8万年前に北東アフリカの人類が拡散していくときにも起こったようだ。それは移住でもなければ,計画的な行動でもなく,ましてや緑豊かな牧草地を求めた集団脱出でもなかった。この点を強調するのは,北東アフリカからオーストラリアへと拡散していく人類の姿を,いまだに人類大移動のように描く者が多いからだ。人類がひとつの確固たるルートをたどったと考え,それを探すことは,化石記録の欠落を埋めるために19世紀の人々が躍起になって行ったミッシング・リンクの探索と同じくらい意味のないことである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.130
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

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