忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

水不足の世界

ホモ・エレクトスから早期現生人類,およびそれ以降の人類への進化の大半は,水不足の世界,言い換えれば,水が環境における主要な制限要因だった地域で起きてきた。そのような環境では,広範囲に散らばった水源や,季節によって現れたり消えたりする豊かな緑を追求する能力を身につけることは,高い優先順位をもっていたことだろう。モザイク状の生息地があった当時,その中心には頑強なホモ・ハイデルベルゲンシスや,早期現生人類へと変化した彼らの子孫が暮らしていたが,進化が起きていたのはやはり周縁部でのことだった。そして,ますます広い地域で降雨と干ばつが繰り返され,季節性の草原との関係が深まっていくと,かつては周縁部と呼ばれていた土地で生き抜いた人類が運よく繁栄を勝ち取ることになるのである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.108
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)
PR

突然の出現?

この新しい議論において,ある研究チームは「5万年前に現生人類が突如として現れた」と主張している。「生き残りに有利な突然変異の副産物として,行動の完全な現代化と,現代人の地理的拡大が生じたと考えるのは,まったく理にかなっている」と言うのだ。だが私はこの考え方に納得がいかない——私たちの祖先を一挙に現代的にした突然変異の証拠が皆無だからだ。それよりも,現生人類のものと識別できる行動が徐々に現れたというほうが,より説得力がありはしないだろうか。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.104
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

生息範囲

同様に,かつてはアフリカ中に拡散していたカバも,水源さえ確保できれば大地溝帯の北の延長線上にである中東の地をすみかにしていただろう。ヒトコブラクダにいたっては,もともとアフリカの動物ではない。現生しているヒトコブラクダはすべて家畜化されているため自然分布域は定かではないが,考古学的証拠によると,少なくともアラビア砂漠は含まれるようだ。カフゼーで多数見つかったダチョウの卵殻もまた,アフリカとのつながりを裏づけるために引用されてきたが,ダチョウもかつては北アフリカ全土に広がっていた。中東には1914年まで生息しており,現存するサハラ砂漠西部の個体群は砂漠ステップで生き延びている。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.99-100
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

肉食?

どのように入手したかはさておき,ともかく初期人類が動物の死骸から肉や骨髄や脂肪を摂取していたことに疑いの余地はなさそうだ。だが,どれだけ肉に頼った食生活をしていたかとなると,それはまた別の問題になる。なぜなら,大型哺乳類の骨は条件さえ整っていれば化石として形をとどめるが,それ以外の食料候補である植物や虫の死骸は時の経過とともに腐敗し,姿を消しやすいからだ。解体場の遺跡からは石器と草食動物の骨が見つかる。それによって「肉を食べる人類」という偏ったイメージが大きく膨らんだのだろうし,また私たちの目が極端に石に向けられたことから,人類にとって重要な歴史区分が「石器時代」と名づけられるまでになった。
 新たな遺跡の発見により,肉食や石器製作以外で,太古の人類が環境をどのように利用していたのかが垣間見られることもある。たとえば,イスラエルにある78万年前のゲシャー・ベノット・ヤーコブ遺跡では,食用の木の実,くぼみのあるハンマー,物を打つための台という取り合わせのユニークな出土品が報告されている。また,この遺跡では木片や植物素材も豊富に見つかっており,どの程度人類が植物を活用し消費していたかについて,期待できそうな手がかりを与えてくれている。ここからもわかるように,先史時代の人類の食生活において獣肉の重要性が明らかに誇張されてきたのは,たんに木の葉や枝よりも骨の方が残りやすいからなのである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.83-84
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

進出の仕方

アフリカの外に最初に進出した人類は何かという問題については,これまで数えきれないほどの議論がなされてきた。たとえば,アフリカからアジアへと最初に向かったのはホモ・エレクトスであるとする主張もあり,それは次のような筋書きで語られることが多い。「ホモ・エレクトスは,長い脚と大きな脳を獲得した初めての人類で,道具をつくり,肉を求め,草深いサバンナでさかんに狩りをした。このような特徴のおかげで,彼らはアフリカを出てアジアへ定着することができた」。だが,仮説というには頼りないこの憶測は,現在わかっている証拠から十分に裏づけられたものではない。これもまた,有利な証拠はほとんどないのに誤りを認めようとしないひとつの例と言えるだろうし,それに加えて,その背後にある理屈は生物種の地理的拡大に対する根深い誤解を示しているように思える。
 シラコバトの例をもう一度よく考えてみよう。シラコバトは100年をかけてヨーロッパを横断したが,各々が大がかりに移動したわけではなく,親鳥から子,孫というように時間をかけてじわじわと新しい土地へと広がっていった——個体レベルではなく世代レベルで拡散したのだ。これと同様に初期人類たちも,暮らしやすい場所ならどこへでも少しずつ広がっていったのだろう。それは仰々しい「大移動」ではなかったはずで,そこに脚の長さを関連づけようとする意味が私には理解できない。地理的な拡大を促すものがあったとすれば,それはたんに,繁殖による個体数の増加と生息地への適合ではなかったか。アフリカから広がった最初の人類は,その祖先伝来の地を離れるためにマラソンのオリンピックチャンピオンになるのを待つ必要はなかった。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.75
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

平均値と範囲

平均値を取り扱う難しさは,どの集団にもある「ばらつき」が無視されがちな点にある。現生人類の例で言えば,たしかに平均的な脳容積は1300〜1500ccかもしれないが,実際の範囲は950〜1800ccに及ぶ。ホモ・エレクトスの脳の大きさは800〜1030ccだから,「平均値」としては私たちのものよりは小さめだが,「範囲」としては重なりがある。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.66
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

脳の大きさ

今日,脳の大きさと知性の高低を直接結びつける者はいない。ただそれでも,時の経過とともに見られる脳の大型化は,進化の度合をはかる代替の尺度として利用されてきた。私たちの平均的な脳容積は1300〜1500ccで,ホモ・ハビリスのざっと2倍である。もちろん体も大きいが,それを考慮に入れて見積もったとしても,私たちの脳が比率としてずっと大きいのは間違いがない。ホモ・エレクトスは,ひとつの指標とされる1000ccという脳容積の壁を初めて突き破った。そこに身長の高さと直立歩行を加えれば,どこからどう見ても立派な人間だ。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.65
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

ナックルウォーク

樹木が茂ったサバンナへと向かったヒトとは対照的に,チンパンジーとゴリラは森の奥深くにとどまった。そこでは,林冠と地面を行き来する効果的な手段を見つける必要があったので,チンパンジーらは四つ足で木の幹を垂直方向に移動することにしたが,そのような形の木登りに骨格を適応させたため,日本の後肢をまっすぐ伸ばす歩き方を永遠に失ってしまった。木のあいだを移動するのに,チンパンジーとゴリラは幹を登る縦の動きを地面を移動する横の動きに変え,文字どおり地面を水平に登る——こぶしを地面につけて歩く「ナックルウォーク」である。つまりナックルウォークは進歩であって,チンパンジーの祖先の歩き方でもなければ,初期人類の祖先の歩き方でもなかったというわけだ。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.56-57
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

いつ二足歩行が始まったか

景観は現在の地球に近づき,森林に覆われた温暖な世界は遠ざかっていった。アフリカは今より緑が多かったものの,熱帯雨林は縮小し,森も分散しはじめていた。第二の年代の前半に登場したラミダスは,先人の伝統を引き継ぐかのように,森林が多くを占めるモザイク状の環境で暮らし続けた。これが意味するのは,初期人類は森の中で生活しているときに,すでに地上を歩いていたということだ。人類が森を捨て,開けたサバンナに進出した瞬間に二足歩行がはじまったという古い考えはもはや用をなさない。二足歩行は,どうやら樹上で始まったようなのだ。
 この驚くべき結論は,オランウータンの歩き方を観察することによって導き出された。オランウータンには,ゴリラやチンパンジーにはないヒトとの共通点がある——まっすぐに立つ場合,チンパンジーとゴリラは後肢のひざが曲がるのに対し,オランウータンとヒトは,ひざをまっすぐ保ったまま立つのである。このような特徴は,枝の上を歩くオランウータンにいくつかの利点を与えた。たとえば折れやすい細枝を歩くときは,必要ならば重心を移動させながら思い切って後肢で立つことができ,安全のために手でしっかり別の枝をつかむこともできる。そうすれば片腕が自由に動かせるので,さもなければ手の届かなかった果実が得られるのだ。また,この方法で樹上を歩けば,木のあいだを渡るときにいったん地上に降りる必要がなくなる。
 これは,大型類人猿の共通祖先が身につけていた基本的な形のロコモーション[移動様式]と考えられ,東南アジアの熱帯雨林で今も同じような生活を続けるオランウータンに受け継がれてきた(その代償として,オランウータンは縮小した熱帯雨林に囚われてしまうことになったのだが)。おそらくオランウータンは,現在まで生き残った唯一のコンサバティブ類人猿であり,他のコンサバティブはどれも絶滅したか,生き方を変えてしまったのだろう。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.55-56
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

読み替え

新しい化石人類,初期人類,人類が科学論文に発表されるたび,私たちの進化の道筋はますます複雑で,わかりにくいものになっていくように思える。研究に用いることができるのは,ほんのわずかな,通常は不完全な標本ばかりで,その関係性を考える際には,必然的に多くの憶測が含まれることになるからだ。これはまるで,1万ピースのジグソーパズルの全体図を,たった100ピースから把握した気になるようなもので,結果的に行き着くところが,さまざまな化石をどうにか関連づけて現生人類までつなげた,雑多な進化の系統樹だということも少なくない。そうした解釈はやがて有力メディアによって独自に読み替えられ,あたかも疑いのない事実のように,雑誌やテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられる。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.41
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

イノベーター

イノベーターは,不利な条件を成功に結びつけることができた。他の種が完熟果実による元来の食生活にしがみついているあいだ,新しい種は代わりの食物を主食とした。果物がなく,生活がまったく成り立たないために立ち入ることができなかった土地に,イノベーターは新たな食物を求めて移り住んだ。競争相手によって最適な生息地に周縁に追いやられ続けた結果として,行動だけでなく体の構造が変化したことが強みとなったのだ。中世人類の類人猿について言えば,その強みがあったからこそ,熱帯アフリカの外へと広がり,アフリカとユーラシアの広大な地域を占拠していた季節性の亜熱帯林を活用することができたのである。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.36
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

シラコバトの移動の仕方

ヨーロッパの都市部に暮らす者であれば,シラコバトのいる風景をよく目にしているだろう。この鳥は公園や庭にすみつき,繁殖している。100年前,シラコバトはヨーロッパでは珍しい鳥だった。もともとは南アジアに生息していたが,徐々にトルコへ広がり,そこから一路北西へ向かってイギリス諸島へ,そして南はイベリア半島まで拡大した。なぜここまで広がることができたのかは誰にもわからないが,ヨーロッパの都市や郊外につきものの公園や庭を活用できるようになったハトの幸運が一因になったのは間違いないだろう。いわば,気候の代わりに人間が新しい生育環境をつくり出し,初期の樹上性類人猿よろしく,この鳥が移り住んできたのだ。
 ところで,シラコバトの群れがトルコからイギリスに渡ってくるのを目撃した人はいない。だとすれば,どうやってイギリスにやってきたのだろうか?まずシラコバトはヨーロッパ南東部のすみよい環境に身を落ち着け,1900年までにはその地に根づき順調に繁殖した。親バトが住んでいた場所が手狭になると,子どもたちは1〜2キロ先にある近くの公園に移動した。これを繰り返し,少しずつヨーロッパを横断していったのである。イギリスでは1955年に最初のつがいがノーフォークで繁殖し,1964年には個体数が1万9000羽に増加。それが今では数十万羽ほどになり,ヨーロッパ全体では700万つがいがいると推定されている。このように,シラコバトの拡散の経緯は詳しくわかっているが,その個別の原因ははっきりしていない。この例は,数万から数十万年前,さらには数百年前に起きた出来事を,点在する化石や異物に基づく乏しい知識から理解しようとするときに,良い教訓となるはずだ。
 シラコバトは「大移動」をしたわけではない。それはたんに個体数の増加が引き起こした地理的拡大であり,しかも1世紀足らずの出来事だった。100年のうちに段階的に起こった変化であれば,考古学で用いるおおまかな時間間隔をもって先史時代を眺めたとしても,私たちがそれに気づくことはまずないだろう——とびきり幸運であれば,洞窟の中で,シラコバトの骨がひとつもない地層の上に,骨だらけの地層が続いているのを見つけることがあるかもしれないが。
 この例を,のちほど本書でもじっくる考えることになる人類の拡散に当てはめてみよう。考古学的記録の示すところによると,現生人類はおよそ6万年前には北東アフリカにおり,遅くとも5万年前には東へ拡散しはじめ,最終的にオーストラリアに到着したようだ。かなりの距離だが,時間もそれなりに経過している。では人類とシラコバトは,それぞれどのくらいの速さで広がっていったのだろうか?
 シラコバトはおおよそ55年をかけて,トルコからノーフォークまでの2500キロを制覇した。1年間で45キロ進んだ計算である。一方,5万年前に私たちの先祖がいたエチオピアから,オーストラリアで最も古い現生人類の痕跡が見つかっているムンゴ湖までは,約1万5500キロの距離がある。仮に人類が4万5000年前にそこに到着したと推定すると,1年にわずか3キロあまりしか進まなかったことになる。シラコバトに比べるとぱっとしない距離だ。しかし,シラコバトが人類よりも速いペースで繁殖することを考えれば,この比較が公正さを欠いていることがわかる。シラコバトの1世代は事実上1年なので,世代ごとに45キロの割合で広がることになる。人類の1世代を20年として計算すると,1世代につき60キロとなり,シラコバトと同じ桁になる。確かに荒っぽい計算ではある。だが,これである仮説が非常にはっきりと説明できることになる——先史時代の人類の地理的拡大には,いっさい特別なことはなく,民族大移動のような形ではありえなかったということだ。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.29-31
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

保守派と革新派

ここで主役を2つのタイプに分類してみよう——コンサバティブ(保守派)とイノベーター(革新派)だ。コンサバティブは,ご想像のとおり役柄が変わるのを好まず,現状維持のために全力を尽くす。反対にイノベーターは,何度でも繰り返し役柄をつくり変える能力をもつ。とはいえ,将来に何が待ち受けているのか知る者はいないから,意識的に姿を変えることはない。つまり,たいていは自ら望んで変化するのではなく,そうしなければ舞台から消え去るしかないから,そうするのだ。未来が今とあまり変わらない場合は,コンサバティブが成功する。反対に予期せぬ変化が続く場合は,ひと握りの幸運なイノベーターが大成功をおさめるが,残りの多くはコンサバティブとともに姿を消すことになる。
 コンサバティブとイノベーターはまったく別のところにいるわけではない。イノベーターは常にコンサバティブの両親から生まれるし,イノベーターの子どもはやがて新しいやり方に慣れてしまって,自分たちはコンサバティブになろうと努める。未来がわからないとすれば,できるだけ現状に合わせることに力を注ごうとするものだからだ。だがもちろん,背景が突如として変わったときには,そうした努力そのものがコンサバティブを滅亡へ導きかねない。

クライブ・フィンレイソン 上原直子(訳) (2013). そして最後にヒトが残った 白楊社 pp.27-28
(Finlayson, C. (2009). The Humans Who Went Extinct: Why Neanderthals Died Out and We Survived. Oxford: Oxford University Press.)

正反対の親

ときおり,こういうのとは正反対の親にぬつかることもある。彼らは,自分の子どもになんの興味も示さない。こういう親は,子どもべったりの親よりも,ずっとたちが悪い。

ロアルド・ダール 宮下嶺夫(訳) (2005). マチルダは小さな大天才 評論社 pp.12

世間の常

世の中の母親や父親には,ひとつ,おかしなところがある。
 自分たちの子どもが,まったくどうしようもなく不愉快な子だったとしても,それでも彼らは,その子を,とてもいい子だと思っているのだ。
 親によっては,もっとひどいのがいる。子どもかわいさのあまり,自分の子が天才だと思いこんでしまうのだ。
 そう,こんなことは,それほどこまったことじゃない。これが世間の常というものだ。ただ,親たちが,そのどうしようもない子がどんなに優秀か,とくとくとして話しはじめると,もういけない。聞かされるほうは,こうさけばざるをえない。「金だらいをもってきてくれ!吐き気がするよーっ!」と。

ロアルド・ダール 宮下嶺夫(訳) (2005). マチルダは小さな大天才 評論社 pp.9-10

自転車乗り反応

支配的な階級制における行動面の反応の中には,差別と偏見という最もたちの悪い特徴もある。人間以外の霊長類では,支配的な階級制のもとでの地位を巡る闘いに負けた個体は,往々にして自分より下位の個体への攻撃を仕掛ける。
 こうした現象はドイツ語でRadfahrer-Reaktion(自転車乗り反応)として知られている。つまり闘いに負けると,上位の者には頭を下げつつ,下位の者は蹴りつけるということである。この言葉は元々はテオドール・アドルノ(Theodor Adorno)の「権威主義的パーソナリティ」(1950年)に由来する。この本はナチスのユダヤ人に対する扱いを説明しようと試みたものである。我々の知るところでは,経済がうまく行っていないと,攻撃を受けやすい少数派への差別が増え,極端なナショナリウムが台頭する。失業率が高いとき,その影響を被っている人は,少数派の民俗や宗教に対して自分たちの優位を主張することで,自我や地位,自尊心を取り戻そうとするだろう。そしてアメリカでは,収入の格差が大きい州ほど人種に対する偏見が大きく,女性に対しての政治的・経済的差別も大きい。それと同様に,自尊心を傷つけられた男ほど妻に暴力を振るいがちである。潜在するパターンが最もはっきりと現われるのはおそらく,性犯罪者に対し仲間の囚人が見せる残忍な行ないだろう。これらの極端な例は,はじめは優位性や排他性をちらっと示すことから,果ては公然と暴力を振るうことや人種差別までの,途切れることのない支配行動の一部分でしかない。どんなレヴェルにおいても階級制は,他者を受け入れるよりは排除するという性質を持っていることが特徴である。だから不平等が拡大すれば社会関係の質も自ずと劣化するのである。

リチャード・ウィルキンソン 竹内久美子(訳) (2004). 寿命を決める社会のオキテ—シリーズ「進化論の現在」— 新潮社 pp.115-116

ソシオメーター理論

リアリーとコワルスキーの「社会的指標(ソシオメーター)理論」によれば,自尊心を保っておくには,自分の行動とそれに対する他人の受け入れ方の具合をモニターしなければならず,それによって,社会的に認知されているか,拒絶されてはいないかの目安にするのだという。こうして拒絶のサインを感じたら,行動を修正することができる。要するに,「自尊心のシステムは,社会から仲間はずれにされる可能性を最小に抑えるメカニズムとして進化したのだろう」。

リチャード・ウィルキンソン 竹内久美子(訳) (2004). 寿命を決める社会のオキテ—シリーズ「進化論の現在」— 新潮社 pp.98-99

殺人と暴力事件

平等と社会環境の質との関係を示すものとしてもう1つ重要なのは,殺人と暴力事件についての調査である。国内のものにせよ,国ごとの比較にせよ,格差が大きいところほど殺人事件の発生率が高くなるという強い傾向があることが数多くの研究から示されている。アメリカ国内では1990年の人口10万人あたりの殺人件数は,州によって2から18までとばらつきがあった。この違いをズバリ1つの理由で説明するとしたら,その最も有力なものは,収入の格差だったのである。34の似たような研究例をまとめたところによると,収入の格差と殺人・暴力事件の関係はいくつもの違う文化圏に確固として存在するという。

リチャード・ウィルキンソン 竹内久美子(訳) (2004). 寿命を決める社会のオキテ—シリーズ「進化論の現在」— 新潮社 pp.31-32

日本

最後の例として日本について見てみよう。この国は1980年代の末に世界一の長寿国になり,また社会的にも極めてよくまとまっていると思われた。つまり,長期にわたる収入格差の縮小,先進国中唯一といえる犯罪発生率の低下が,ここに極まったのである。

リチャード・ウィルキンソン 竹内久美子(訳) (2004). 寿命を決める社会のオキテ—シリーズ「進化論の現在」— 新潮社 pp.29

相対的な収入

このパラドックスに対して最も当たっていると思われる説明は,健康にとって問題になるのは絶対的な収入や生活水準ではなく,相対的な収入と社会的地位であるというものである。収入が社会的地位と関係するような場合,国内における比較と同様,収入はまた健康とも関係してくる。収入が,人々の社会階層におけるポジションとほとんど,あるいはまったく関係ない場合,(国と国との比較の時のように),収入から健康格差が生じることはまずない。やはり,心理社会的な道筋が重要なのだ。当人たちが相対的な収入や社会的な地位について何とも思っていないとしたら,相対的な収入が健康と関連するとはとても信ずることができないではないか。
 こういう見方が妥当であることは,格差が少なく,貧富の差が小さい社会ほど健康状態が良い傾向があるという確かめられている。先進国で言えば,平均寿命が最も長い国は最も格差の少ない国であり,それは最も経済的に恵まれた国ではないのだ。今やその証拠が,先進国と,先進国とまでは言えない国の関係において山ほど集まっている。

リチャード・ウィルキンソン 竹内久美子(訳) (2004). 寿命を決める社会のオキテ—シリーズ「進化論の現在」— 新潮社 pp.23-24

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]