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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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2分の1

一見複雑な形をとっている答えでも,分解すれば,二者択一の答えの組み合わせにすぎないことが多い。たとえば血液型占いなら,A型は何々,B型は何々と,第1章で言ったように類型として複数の特徴がセットになっているが,1つ1つは,たとえば積極的か消極的か,社交的か内気かなど,二者択一的な答えである。
 そのように答えが二者択一的だから,占いは原則として確率2分の1で当たる。半分が当たるのだ。しかも,当たっていないと思えば,別の占いをすればよい。2つの占いがともに当たらない確率は4分の1でしかない。さらに3つ目の占いをすれば,当たらない確率は8分の1にさがる。当たっていると思われる占いでやめればよい。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.138
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二項対立

予兆や占いが対句表現,二項対立を多用するのには理由があると考えられる。それは,予兆や占いが,対象とする事物をある見方でとらえるからだが,それについては次章で述べる。もう1つ,それ以前の理由として,そもそも,われわれが求める答えが,二者択一的だからだ。豊作か凶作か,晴れか雨か,あるいは,待ち人は来るか来ないか,失せものは見つかるか見つからないか,学業はなるかならないか,生まれる子は男か女かなどを知りたいのだ。求められる答えが吉か凶なのだから,何らかの類似性と相違性を同時にもっている2つの事物をとりあげ,その対と吉凶との相同関係を作りあげればよい。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.137

説明のためのツール

占いは,科学とは別の方法で,世界を秩序あるものと見ようとしているのだと私は考える。たとえば,易は,宇宙,世界の理を明らかにするものだった。世界の秩序,法則が理である。人生もその理のひとつのあらわれなのだ。一見デタラメに見える人生も,世界の法則に支配されているのであり,それゆえ人生をあらかじめ知ることができ,またある程度はコントロールすることができると考えるのである。西洋占星術もほとんど同じである。そのことは,第1章で紹介したケプラーを思いだせばよくわかるだろう。彼が一方では科学的天文学者で,他方では占星術師でもあることができたのは,どちらも宇宙,世界の秩序を明らかにしようとするものであるからなのだ。西欧にかぎらず,科学がはじまる以前には,占いが自然,宇宙,世界の仕組みを解明し,説明するものだったのである。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.88-89

小道具

占いは,どれも,当たらない場合の説明が簡単である。悪い占いが当たらなかったときは,あなたががんばったから結果を変えることができたのだと言い,よい占いが当たらなかったときは,よい占いに安心して怠けていたからだ,と言う。また,朝のテレビの占いでは,今日のラッキーアイテムとかラッキーカラーとかいうものがあったり,その日が悪い日であってもその悪運を変えることができるとされる小物が紹介される。それらが,反証例の説明のための小道具である。それらによってその日の運を変えることができるのなら,その日が吉凶どちらの日になろうと,当たっていたと言えるようになるのだ。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.87

否定と肯定

科学的理論や仮説は,観察や実験によって検証される。1つでもその理論や仮説に反する事例があれば,たちどころに否定される。逆に,どんなにたくさん肯定的事例があっても,それで十分ということはない。科学の場合は,肯定より否定の方が簡単なのだ。
 それに対して占いは,反証例があっても,否定されない。テレビの星座占いコーナーでその日の運勢を見るひとは,当たらないことが多くても,見るのをやめはしないだろう。本格的な占いの場合は,占いによって出たものをどう解釈するかが重要であるから,当たらないときはその占い師の評判が悪くなり,客が来なくなるだけで,その占い自体が否定されるわけではない。逆に1度でも当たることがあると,本気になって信じてしまう。評判の高い占い師には,そういう的中例が神話伝説のようになって伝わっている。当たったことだけが記憶に残り,当たらなかった例は忘れられてしまう。占いでは,否定より肯定の方が簡単だ。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.84-85

文化による

占いは,何かの事物の意味を解釈するとき,その事物に対するイメージ,意味づけを利用する。そのイメージや意味づけが,その事物そのものの本質によって決められているのではなく,文化によって決められていることが問題なのだ。好きな色によって性格を占ったり,診断するものがあるが,色に対するイメージや意味づけは,明らかに文化によって異なる。たとえば,わいせつ映画を日本ではピンク映画と言うが,同じものを英語ならブルー・フィルムと言う。中国語なら黄色であらわす。色の意味づけは文化によって違うのだ。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.83-84

現世的願望

福は,もともとは神からさずけられた「さいわい」を意味し,もっと広い意味で使われていたと思われる。七福神は,そういう幸福をもたらしてくれる神様なのだ。だから,金持ちになることだけでなく,長生きも,良縁も,立身出世も,名誉も,みな福であり幸福である。また,富も,価値あると思われるもの,有用なものすべてを言い,健康とか愛とか情とかも富だったのである(小松和彦『福の神と貧乏神』筑摩書房,1998年)。
 それが,いつしか,狭い意味での福,富の意味に変わってしまった。福は富であり,富は物質的なもの,つまりは財産であり,お金である,というようになってしまったのである。そのよい例は,福引き,福袋だ。福引きで当たるもの,福袋の中身は,お金であり,海外旅行券であり,衣服であり,宝石であり,どれも物質的な富,金銭である。
 日本の民間夢占いは,そういう日本人の現世的,物質的な幸福願望,とくにお金に対する願望があらわされていると思われる。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.78-79

血液型ブーム

1930年代には,結婚相手や職業の選択に役立つとか,特定の職業や犯罪者と血液型とのあいだに関係があるなどと真面目に論じられ,現在以上の血液型ブームが起きた。松田の本によると「昭和6年,大阪大丸本店は,無料の血液型検査をはじめた。同じころ,路上には,血液型を知ることは結婚問題,就職,採用にも役立つなどの口上をいう的屋が現れ,紋付き羽織袴の出で立ちで,東京の大勢人の集まる博覧会とか展覧会とかまたはデパートなどを利用して,唾液によって血液型を調べ,O型は軍人,政治家,A型は医者,教員に向いているなどと言って,検査料70銭をとっていた」という。
 その後,このブームは,さまざまな批判を受けて,終息するが,1つ重要な事は,当時の血液型と気質についての議論は,両者の間に相関関係が見いだせるという主張であって,具体的には,何型の人はどういう気質,性格だと判断する学問的考察だと主張されていたことである。そのため,気質や性格概念の曖昧さという問題,調査方法の適正さという問題,統計的データの処理と解釈の問題など,純粋に学問的見地からの批判が噴出し,最終的には非科学的,非学問的であるという理由と,血液型と性格を関係づける考えそのものが否定されることになった。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.63-64

個と相

結局,「何から」「何を」占うのかを考えると,個から個を占う場合,個から相を占う場合,相から個を占う場合,相から相を占う場合の4種類があると考えてよいだろう。「茶柱が立つと客が来る」という言い方がされる地方があり,これは個から個を占っている。「茶柱が立つと縁起がよい」は個から相を占っている。「朝,茶柱が立つと客が来る」なら相から個を占っている。「朝,茶柱が立つと縁起がよい」は相から相を占っている。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.49-50

事物と相

結局,占いには,何「について」,何「を」占うのかで言えば,犯人を探したり,彗星の出現から戦争を占うように個々の事物を占う場合と,あなたは何々型人間ですとか,今日のあなたは大凶ですなどと相を占う場合とがあることになる。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.48

ここで重要なのは,吉とか凶というのは,個々の出来事ではないということである。いくつもの出来事から共通した何かとして取り出されたものなのだ。縁起とか幸運,ツキなども同じである。それらは,実体としてあるものではない。それらは,具体的には個々の出来事として姿形をあらわすのだが,そのあらわれたもの自体が吉とか幸運とかツキなのではない。個のレベルと集合のレベルを混同してはならない。
 この,いままで類型と呼んできたものを,占いでは「相」と呼ぶのだと考えられる。吉や,縁起やツキ,血液型や星座,それらは諸要素の集まり全体の表情,相貌,英語で言えばアスペクトのことであり,相の名前なのである。そして,相としてとらえるということは,その要素集合は無秩序ではなく,ランダムでもなく,規則や法則があるととらえることである。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.47-48

類型

これは,あらかじめいくつかに分類された類型,部類のどれに入るかを占うものである。動物占いとか寿司占いとかの最近の占いの多くがこれである。とくに性格占いに多く,血液型占いや,生まれ干支や星座による占いも同じである。あなたは何々型人間であるから,こういう性格でありこういう運命だ,と決めつけられる。1つの類型には,その類型に入る者の特徴が列挙されており,パッケージになっている。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.45-46

予兆

いままで見てきた例からとりあえずわかることは,どんなものやことでも,その同じもの,ことが,あるとき,ある条件下で,ある脈絡に置かれているとき,占いの対象になるらしい,ということである。とくに異常性,偶然性が見てとられるとき,なんでもないことが急に意味ありげに思われ,占いの対象になるようだ。毎日くる郵便物も,「切手に消印のない手紙や葉書を受取ると夢のような儲け事がある」(愛知・市橋鐸『俗信と言い伝え』名古屋泰文堂,昭和45年)のだ。
 それは,同じものやことが,ある見方,とらえ方をされたときに占いの対象になる,ということである。燕が家の中に巣を作るとき,燕は野生動物で,家畜のように飼っているわけではない,その燕が人間のすみかである家のなかに巣を作った。めずらしいことだ,異常なことだ,ととらえると,その出来事は特別の意味をもつものとなる。それを,燕は烏などの天敵から巣を守るために安全な人家を利用するだけだと見るなら,何の予兆にもならない。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.39-40

くしゃみ

柳田国男によるとくしゃみはもともとクソハメで,糞を食えという意味だった。それがクサメに変化し,さらにクシャミとなった。クサメについては『徒然草』におもしろい話がのっている。清水寺にお参りする年老いた尼が,「くさめ,くさめ」といいながら歩いているので,そのわけをたずねると,私が世話をした若君がいまは稚児になって比叡山に登っておられる。「ただいまもや鼻ひたまわんと思えばかく申すぞかし」と答えたという。クシャミは,当時は鼻ひと言われていた。ヨーロッパの場合と同じように,日本でも,クシャミをしたときには誰かがまじないの言葉をかけなければならないと考えていたのだろう。そういえば,今でも,クシャミをしたとき「コンチクショー」などと言っている老人がときどきいる。だれもまじないを言ってくれないから,自分で言っているらしい。なかには「クソクラエー」と言う人もいるが,「糞食め」にまでさかのぼることができる,由緒ある呪文だ。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.31-32

人相

民間レベルの人相占いでは,目や鼻や口,またホクロやオデキなどの形,大きさ,位置によって占うものが多い。鼻の下の長い人は助平,頭のつむじが横にある人は心がひねくれているなどというのは,「鼻の下を長くする」,「つむじ曲がり」という言い方で,日常的に使われている。また,「おでこの広い人は心も広い,狭いひとは心も狭い」とか,「唇の厚い人は無口で,薄い人はおしゃべりだ」などと,美しい顔の人は心も美しいというのとほとんどかわらない,単純な連想が多い。顔になにかの大小,上下,広狭,厚薄などが,性格のそれらに比例しているとするだけのことだ。そして,ほとんどが,大きい,広い,厚いはよい意味で,小さい,狭い,薄いは悪い意味に解釈されている。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.28-29

しるし

また,ここで注意しておかなければならないのは,どのような道具を使おうと,ひとの意図や操作によって結果が左右されてはならないということである。人為的な結果では占いにならない。コックリさんは,3人以上が棒の上に手を重ねておこなうが,棒は誰の意志とも無関係に,かってに動くのである。結果は偶然でなければならないと言ってもよい。必然的な結果では,占いの「しるし」とはならない。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.18-19

占いがすること

占いは何をしているのか。ひとことで言ってしまえば,何かを見て,考え,そして見て考えたことを言葉であらわす。それだけのことである。しかし,この「見る」,「考える」,「言葉であらわす」が問題なのだ。しかも,これらは別のことではなく,1つのことであることが問題なのだ。

板橋作美 (2004). 占いの謎:いまも流行るそのわけ 文藝春秋 pp.5

シングルイシューのセミプロ化

相手によって答え方は変わりますが,基本的には「世の中をマシにしていくために,あなたにできることがあるよ」という話をよくします。「政治的な話題」に興味を持つのは難しくても,自分にできる何かひとつ,というのには興味を持てるのではないかな,という提案です。
 その際によくいうのが,「シングルイシューのセミプロ化」という方法です。これは,興味を持てる「シングルイシュー」(特定の論点)を持ち,一言物を申せるくらいの知識を備えた上で,具体的なカイゼンを要求・実行してほしいということです。

荻上チキ (2012). 僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか:絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想 幻冬舎 pp.204

くじ引き

難病患者でもある作家の大野更紗さんは,その著書『困ってるひと』(ポプラ社)の中で,「社会の中で,ごく少数の人が何らかの大きなリスクを負うこと」——たとえば,「何十万人に1人と言われる難病にかかるようなこと」——を指して,「くじ」という表現を使いました。
 僕は,この表現がとても気に入っています。
 この社会には,様々な「くじ」が用意されていて,何千分の1であろうと何万分の1であろうと,かならずその「くじ」を引いてしまう人がいます。この「くじ」とはもちろん,先天的なものとは限りません。たとえば明日,誰かが,交通事故にあって半身不随になるかもしれないし,難病にかかってしまうかもしれない。そういった「まさか自分が当事者になるとは思いもよらなかったような『くじ』」も,一定数の人が必ずそのくじを「引かざるを得ない」ことがわかります。
 そしてこの問題は,いつ何時,あなたの身の回りにも降り掛かってくるかもしれない問題なのです。くじを引く可能性は,誰にでもある——。だとしたら,社会全体で,そういった「くじ」を引いてしまった人が,極端に不幸にならずにすむ体制(社会保障制度)を確立しなければならないということは自明でしょう。

荻上チキ (2012). 僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか:絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想 幻冬舎 pp.153-154

インセンティブ

彼らもサラリーマンなわけですから,出世のために頑張るのはある程度自然なわけで,その意味では,「国家の未来を担う政策に携わっていながら,省益ばかり追求しているなんて悪いやつらだ」という批判は,ある意味では少々的はずれです。
 なぜなら,サラリーマンが会社の利益を損ねる行動に走った場合,窓際に追いやられ,悪くすれば左遷,最悪クビになるでしょう。官僚の世界でもこれは同じことで,「省益」にもとる行動をとった官僚も,組織の中で出世しにくくなるといった扱いを受けるわけです。実際には,そもそも論として品性が欠けている官僚も一部は存在するとは思いますが,それは一般の会社員でも同じことでしょう。要は,官僚も,用意されたインセンティブに左右されるただの人間だということですね。

荻上チキ (2012). 僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか:絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想 幻冬舎 pp.112

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